擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第三章①

土砂で完全に塞がれた旧水路を抜け、一行はアビスのさらに最深部――教団の記録すら及ばない、巨大な地下儀式の間へと辿り着いていた。

 

ドーム状の広大な空間。その中央には、氷のように透き通った巨大な水晶の棺が安置されており、無数の魔法陣が床を這うように刻まれている。

 

「ここまで来れば、あのゴーレムたちも追っては来られないでしょう。皆さん、本当によくやってくれた」

 

その声に、カトリーヌとシャミアが同時に息を呑む。

祭壇の奥。誘拐されたはずのアルファルドが、汚れ一つない法衣のまま、柔和な笑みを浮かべて待ち構えていた。

 

「アルファルド様……!? 無事だったのかい!」

 

カトリーヌが安堵の声を上げるが、ツィリルだけは違った。

彼は抱えていた『宝杯』をさらに強く引き寄せ、アルファルドへ向けて一切の容赦のない敵意を剥き出しにする。

 

「やっぱり。あんたの腐ったお芝居の続きか」

 

ツィリルが弓を引き抜こうとした、その瞬間。

 

「動くな、ツィリル。……その宝杯、こっちに渡してもらうぜ」

 

背後から、ユーリスの冷たい刃がツィリルの首筋にピタリと当てられた。

 

「ユーリスくん……!? あなた、まさか……っ!」

 

メルセデスが悲鳴のような声を上げる。

 

「悪く思わねぇでくれよ。俺の連れや、アビスの病人を人質に取られちまってるんだ。この人に逆らうわけにはいかねぇ」

 

カチリ、と。

アルファルドが指を鳴らす。

 

「身体が、動か、ねぇ……ッ!」

 

床に刻まれていた魔法陣が唐突に赤色に発光し、教団の騎士であるカトリーヌ、シャミア、エミール、そしてツィリルとメルセデスの五人の身体を、不可視の重力場のようなもので床へと縫い付けた。

ツィリルの腕からこぼれ落ちた宝杯を、ユーリスが拾い上げる。

 

「ユーリス! てめぇ、俺たちまで売る気か!」

 

バルタザールが怒鳴る。

エミールの金色の瞳に、抑えきれない『死神』の殺意が濁流となって渦巻き始める。

 

しかし、重力で床に片膝をつかされていたツィリルだけは、ユーリスの刃の震えと、彼が全く自分たちと視線を合わせようとしないことを見逃さなかった。

 

(嘘だ。こいつ、ボクたちを殺す気なんてない)

 

ツィリルが低い声で獣のように唸った、その時。

 

「――そこまでだ、ユーリス」

 

ツィリルの野生の勘がユーリスの『演技』を暴くより早く、アルファルドの冷酷な声が祭壇に響いた。

 

「君が私を出し抜く隙を窺っていたことなど、とうに気づいていたんだよ。それに私が求めているのは、君たち『四使徒の血を引く者』の命そのものなのだからね」

 

アルファルドが再び指を鳴らすと、ユーリス、バルタザール、ハピ、コンスタンツェの四人の足元に光の檻が展開し、彼らを強引に幽閉した。

 

「チッ……!」

 

ユーリスが舌打ちをして短剣を落とす。アルファルドはユーリスの手から宝杯を受け取り、祭壇の台座へと静かに置いた。

 

「四使徒の、血……?」

 

カトリーヌが呻く。

 

「そうだ。この宝杯を用いて死者を蘇らせる『宝杯の儀』には、四使徒の血肉が必要になる。君たち灰狼の学級の四人をこのアビスに集め、囲っていたのは……すべて、今日この日のためだ!」

 

アルファルドの顔から、今まで張り付いていた柔和な聖職者の仮面が完全に剥がれ落ちた。

彼の目は極限まで見開かれ、口の端からは泡にも似た唾液が微かに飛んでいる。狂気。何十年も地下の泥濘で煮詰められた、死体に対するおぞましい愛欲と執着。

 

「見なさい! これがレアの……あの女の欺瞞の象徴だ!!」

 

アルファルドが祭壇の中央、水晶の棺を覆っていた布を乱暴に引き剥がした。

 

「なっ……!?」

 

カトリーヌとシャミアが同時に息を呑む。

氷に閉ざされた棺の中に横たわっていたのは、信じられないほど美しい、修道服姿の女性の遺体だった。腐敗の兆候は一切なく、まるで今も眠っているかのようだ。

 

「シトリー……ああ、私の愛するシトリー! レアは彼女の遺体を土に還すことも許さず、こうして地下深くに剥製のように保存していたのだ! こんな冒涜が許されてたまるものか!!」

 

アルファルドが棺にすがりつき、死体の頬を撫でるように氷をさする。

 

「レア様が、遺体を……こんな地下に隠していた……?」

 

カトリーヌの琥珀色の瞳が、困惑に激しく揺れ動く。

なぜレアが『腐敗しない遺体』を教団の地下深くに秘匿しなければならなかったのか。その真意が全く読めず、狂信的な教団の剣である彼女ですら、その異様な光景を前に一瞬だけ思考が停止してしまったのだ。

 

「なんですの、あれは。わたくしらを生贄にしてまで……っ!」

 

光の檻の中で、コンスタンツェが恐怖に引き攣った笑いを漏らす。メルセデスから引き離された彼女は、極度のパニックに陥りかけていた。

 

その、困惑と疑念が支配する祭壇の空気の中で。

 

ガキィィィィィンッ……!!!

 

「……っ!?」

 

アルファルドが振り返る。

魔法陣の重力場に縫い付けられていたはずのツィリルが。自身の腕の骨が軋む音を完全に無視し、無理やり引き上げた右手に握る『矢の鏃』を、自身の足元の石畳へと全体重を乗せて突き立てていた。

 

ツィリルが突き立てたその一点。

それは先程、ユーリスが彼から宝杯を奪い取る一瞬の接触の際、わざと足元に短剣を落とすふりをして、魔法陣の要となる術式の上に「極小の傷(ヒビ)」を刻んでおいた箇所だった。

 

アルファルドすら出し抜いたユーリスの神業のような細工。そして、ユーリスの刃に殺気がないことを察知していたツィリルが、その無言の意図を正確に汲み取っていたのだ。

 

硬質な破壊音と共に、あらかじめヒビの入っていた分厚い石畳が砕け、描かれていた血文字の術式が完全に削り取られる。

魔法陣の要を物理破壊されたことで、ツィリルを縛っていた重力場が明滅し、あっけなく霧散した。

 

「な、馬鹿な……! 私の拘束魔法を、ただの力技で……!?」

 

アルファルドが驚愕に目を見開く。

 

ツィリルの衣服は破れ、背中の傷からは再び血が流れ出している。

しかし、彼の暗く冷たい双眸には、シトリーの遺体を見たことによる動揺も、アルファルドの狂気に対する恐怖も、一切存在していなかった。

 

「……レア様が地下に何を隠してようと、ボクには関係ないです。レア様がそうしたんなら、それが正しいんだから」

 

「でも、あなたはレア様が隠してたものを勝手に暴いた。それに、メーチェを泣かせて、ボクたちの邪魔をした。……レア様の敵は、ボクがここで片付けます」

 

ツィリルは背中の弓を引き抜き、アルファルドの眉間へと真っ直ぐに狙いを定めた。

 

「ふざけるな……! 私は、シトリーを……!!」

 

アルファルドの絶叫とともに、宝杯が禍々しい黒い光を放ち始める。

ベレト不在の地下深層。教団の禁忌の御前で、灰狼の四人を贄とした邪悪な儀式が、いよいよ最終段階へと移行しようとしていた。

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