擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第三章②

バキィィィィィンッ……!!!

 

ツィリルが全体重を乗せた鏃(やじり)が、祭壇の石畳を砕き、血文字の術式を物理的に削り取った。

魔法陣の『線』が断たれた直後。術式の綻びに呼応するように、ツィリルの背後で、泥のように重く、黒い殺意が爆発的に膨れ上がった。

 

「……小僧だけに、いい格好はさせん」

 

地の底から這い出るようなエミールの低い声。

彼を縛り付けていた不可視の重力場が、内側から噴き出す規格外の『死神』のオーラによってメキメキと軋みを上げる。エミールが右足を踏み込んだ。ただそれだけの動作で、ツィリルが抉った傷を起点として魔法陣全体に亀裂が走り、限界を迎えたガラスのように粉々に砕け散った。

 

アルファルドの顔から、完全に余裕が消え失せた。

シトリーの遺体を背に、男は初めて明確な焦燥の表情で後ずさる。

 

ギィリッ。

ツィリルの指が鋼の矢を引き絞り、迷いなく放った。空気を裂く風切り音。

 

「させぬ……! 私の、シトリーに……!!」

 

アルファルドが絶叫と共に、手にした『宝杯』を盾のように掲げる。

直後。宝杯の底からドロリとした漆黒の瘴気が間欠泉のように噴き出し、飛来したツィリルの矢を空中でドロドロの飴のように腐食させ、溶かし落とした。

 

瘴気はそのままアルファルドの純白の法衣を呑み込み、彼の肉体へと這い上がっていく。

 

「グアアアアアアアアアアッ……!!」

 

骨が砕け、肉が裂け、内臓が沸騰するような、生命に対する冒涜的な破裂音。

アルファルドの肉体が異常な速度で膨張し、皮膚を突き破って漆黒の体毛と装甲殻が形成されていく。背中からは巨大な翼が引き裂かれるように生え、人間の腕とは別に、節立った複数の巨腕が脇腹から突き出した。

死者への妄執と、宝杯の呪いが物理的な形を成した漆黒の異形――『赤き獣』。

 

獣が産声を上げるように咆哮を放った瞬間、ドームの空気が物理的な重さを持って弾け飛んだ。

凄まじい衝撃波が祭壇の石柱をへし折り、カトリーヌやコンスタンツェたちを縛っていた光の檻も、術者の変異による魔力暴走によって完全に吹き飛ぶ。

 

「神父様が化け物になりやがった! 冗談キツいぜ!」

 

バルタザールが泥だらけの身体を起こし、ガントレットの拳を打ち合わせる。

 

「レアさまに反するモンなら、全部アタシが叩き斬る! ――行くよッ!」

 

カトリーヌが雷霆の切っ先を地面に擦りながら、一直線に獣の懐へと飛び込んだ。英雄の遺産から放たれた極大の雷光が、獣の分厚い装甲殻を横凪ぎに打ち据える。

 

ガギィィィィンッ!!

 

「硬ぇなッ!」

 

眩い火花が散るが、雷霆の刃は表面の殻を薄く削り取ったに過ぎない。獣の巨大な腕が、ハエを払うような無造作な軌道でカトリーヌを薙ぎ払う。

 

「バルタザール、シャミア! そっちに行ったよ!」

 

カトリーヌが後ろへ跳躍して躱すと同時、獣の巨体がドームの壁を蹴り、驚異的な速度でユーリスたちの陣形へと突っ込んだ。

 

「チッ……ルクレール! お前らは右の死角へ回れ!」

 

シャミアが冷静な声で怒鳴り、獣の複眼へ向けて三本の矢を同時に放つ。

しかし矢は獣の皮膚に弾き返され、無力に床へと落ちた。

 

「矢が弾かれる……! シャミアさん、ユーリス! こいつ、宝杯が埋まってる胸の辺り以外、全部硬い……ッ!」

 

ツィリルが戦場を駆け抜けながら叫んだ。

分析でも推理でもない。ただ自分とシャミアの攻撃が弾かれた事実と、獣の胸の中央で禍々しく拍動する『宝杯』から放たれる異様な熱量(ルビ:におい)を、野生の勘で報告しただけだ。

 

「了解だ! 番犬の嗅覚は信じるぜ!」

 

ユーリスが血に濡れた唇の端を吊り上げる。

 

「コンスタンツェ!聞いたろ、デカブツの足を潰して体勢を崩させろ!」

「わたくしに指図しないでくださる!? お姉様、わたくしの真の力、とくとご覧あれ! ――『サンダーストーム』!!」

 

極限状態の恐怖を空元気なプライドで押さえ込み、コンスタンツェが両手に極大の雷の魔力を収束させる。

上空から突き落とされた圧縮雷撃が、獣の右の関節部へと直撃した。

 

「ギャアアアアアッ!」

 

凄まじい爆発。魔法障壁を持たないその関節が焼け焦げ、獣の巨体が右へと大きく傾く。

 

降り注ぐ石の破片と土煙。

その視界ゼロの死角から、真っ黒なオーラを引いて飛び出してきたのは、エミールだった。

 

(殺せ……。抉り、肉を散らし、血を啜れ……ッ)

 

巨大な魔獣の放つ濃密な死の気配。それに呼応するように、エミールの脳内で『死神』の破壊衝動が歓喜の悲鳴を上げ、彼の理性をドロドロに塗り潰そうと暴れ狂う。

敵でも味方でもいい。目の前の動くものをすべて挽肉に変えたい。その強烈な誘惑。

 

(……いや)

 

エミールは、喉の奥から血が滲むほど強く歯を食いしばった。

泥と死臭が充満するこの地下空間で。彼の記憶の底にこびりついている、あの不器用な少女(フレン)が差し出してくれた焼き菓子の、ちっぽけで、ひどく甘い匂いが、暴走する死神の首輪をギリッと強く引き戻す。

 

そして背後には、彼を「弟」と呼び続ける最愛の女がいる。

 

自分は、飢えただけの獣ではない。

 

「退けぇぇぇッ!!」

 

血を吐くような咆哮。殺戮の衝動を、ただ一点の『敵の破壊』へと強引に捻じ曲げ、エミールは獣の左脚の関節へと死神の鎌(ルビ:けん)を叩き込んだ。

黒い魔力が刃を覆い、装甲の隙間から肉の奥深くへと食い込む。黒い血が間欠泉のように噴き上がり、獣の巨体が完全にバランスを崩して前のめりに倒れ込んだ。

 

「今だ! カトリーヌ!!」

 

シャミアの声。

 

「アタシを顎で使うんじゃないよッ! ――消し飛べェェッ!!」

 

跳躍したカトリーヌの雷霆が、無防備に晒された獣の胸元――『宝杯』を覆う黒い魔力の皮膜へと全力で突き立てられる。

落雷のような轟音と共に皮膜が弾け飛び、コアが完全にむき出しになった。

 

「メーチェ!!」

 

後方を走っていたツィリルが、喉が裂けるほどの声で叫んだ。

 

「光よ……この子を、護って……!!」

 

祈り。

メルセデスの両手から放たれた極限の白魔法の光が、温かな奔流となってツィリルの背中を撃ち抜く。

骨の軋み、肉の疲労、出血による眩暈。そのすべてが、強烈な光の熱によって一瞬だけ完全に消し飛んだ。全身の筋肉が発火するような異常な活力。

 

「バルタザール!!」

「おうよッ! 踏み台くらいならいくらでもなってやるぜ!!」

 

バルタザールが両手のガントレットを顔の前で交差し、強固な足場を作る。

ツィリルは泥を蹴り上げ、バルタザールの腕を全力で踏み台にして、ドームの天井近くまで、鳥のように高く高く跳躍した。

 

倒れ込みながらも、獣が空中のツィリルを食い殺そうと、巨大な顎を天へ向けて開く。

下からは、幾重にも連なるノコギリのような牙と、腐臭を放つ暗黒の喉口が迫る。

 

ツィリルは空中で一切表情を変えなかった。

恐怖も、気負いもない。

あるのは、自分のテリトリーと群れ(メーチェ)を脅かす外敵に対する、ただ純粋で絶対的な殺意のみ。

 

「レア様とメーチェの邪魔をする奴は、ボクが殺す」

 

獣の顎が閉じる寸前。

ツィリルの指から放たれた鋼の矢が、一直線に獣の胸のコア――拍動する『宝杯』の中心へと吸い込まれ、物理的に、完全に、貫き割った。

 

パキィィィィィンッ……!!

 

時が止まったかのような、硬質な破壊音。

 

「ガ……ァァァ…………シト、リィィィィィィィィィィィ…………ッッ!!」

 

アルファルドの悲痛な、そして底なしの絶望を孕んだ呪詛の絶叫が、アビスの空間に反響する。

直後。コアを砕かれた獣の巨体は、噴き出す光の奔流に内側から耐えきれなくなり、風船が弾けるように爆散した。

 

凄まじい閃光。

そして、耳鳴りだけを残して、祭壇は嘘のような静寂に包まれた。

 

石畳の上には、黒い血の染みと、原型を留めないほど粉々に砕け散った宝杯の破片だけが、雨のように降り注いでいた。

 

「……ハァッ……ハァッ……」

 

カトリーヌが雷霆を杖代わりにして、膝をつく。

シャミアは無言で弓を下げ、ユーリスやエミールたちも、極限の疲労と泥に塗れたまま、その場に力なく立ち尽くした。

 

「……っ」

 

空中から着地したツィリルは、二歩、三歩と後退りをした。

白魔法の過剰な熱が切れた反動。全身の筋肉が断裂するような激痛と、失血による急激な体温の低下が、彼から一切の立ち上がる力を奪い去る。

 

視界が暗転する。泥まみれの石畳が、ゆっくりと顔に迫ってくる。

 

だが、彼の小さな身体が冷たい床に崩れ落ちるより早く。

 

「ツィリルくん……ッ!!」

 

泣き叫ぶような声と共に。

白檀の香りを色濃く纏った豊満な身体が、崩れ落ちる少年を正面から、己の胸の中へ強引に抱き止めた。

 

血と泥と汗の匂い。

ツィリルの肋骨が折れてしまうのではないかと思うほど、恐ろしい力で抱きしめるメルセデスの腕。彼女の柔らかな胸に顔を埋められたまま、ツィリルは、彼女の心臓が狂ったような早鐘を打っているのを鼓膜で感じ取っていた。

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