擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

17 / 29
第三章③

空中で黒き異形のコアを貫いた直後。

メルセデスの過剰な白魔法によって強制的に発火させられていたツィリルの全身の筋肉が、限界を迎えて急速に冷却された。

 

視界が泥のように濁る。

肺が酸素の取り込み方を忘れ、切れた糸のように空中で四肢の制御を失った。激痛すら遠のく感覚の中、石畳の冷たさに頭蓋を砕かれるのを覚悟し、ツィリルは反射的に目を閉じた。

 

だが、彼の小さな身体が硬い無機物に叩きつけられることはなかった。

 

ドンッ、という鈍い衝突音。

むせ返るような、濃密すぎる白檀の香り。

 

「――ッ、あ……ああ……っ」

 

視界を覆い尽くしたのは、冷たい石畳ではなく、修道服の純白と、淡い亜麻色の髪だった。

すさまじい勢いで泥濘を蹴って飛び込んできたメルセデスが、崩れ落ちるツィリルを正面から、己の身体ごと床へ投げ出すようにして抱き止めたのだ。

 

「ツィリル、くん……あ、あああ……っ」

 

それは、抱擁というにはあまりにも乱暴で、狂気的な拘束だった。

ツィリルの全身の骨が軋むほどの恐ろしい力で、メルセデスは彼の背中に腕を回し、自身の豊満な肉体へと彼の顔面を力任せに押し付けている。

 

ツィリルの背中の裂傷からドクドクと溢れ出す熱い血が、メルセデスの純白の修道服を赤黒く染め上げていく。泥と鉄錆の悪臭が、彼女の纏う神聖な香りと混ざり合い、ひどく甘ったるく、吐き気を催すような異様な匂いとなって祭壇に立ち込めた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさいッ。私のために、血を……こんなに……っ」

 

泣き叫びながら、メルセデスの手はツィリルの泥だらけの頬を、血に塗れた髪を、何度も何度も執拗に撫で回す。まるで、彼が幻ではないことを確かめるように。あるいは、彼の流した血を自身の皮膚に擦り込み、彼という存在そのものを己の胎内へ取り込もうとするかのように。

 

「……メーチェ、力、強すぎ」

 

メルセデスの柔らかな胸の谷間に顔を埋められたまま、ツィリルは掠れた声で微かに呻いた。

 

「……背中の怪我より、メーチェの腕のほうが痛いよ。……息、できないし……」

 

「あっ……」

 

メルセデスの腕が、僅かに緩む。

しかし、彼女は絶対にツィリルの身体を離そうとはしなかった。ただ彼の顔が少しだけ空気に触れる程度に隙間を開け、狂熱を帯びた碧い瞳で、至近距離から少年の顔を覗き込む。

 

「……邪魔な奴、もういないから」

 

ツィリルは焦点の定まらない瞳でそう呟くと、血と泥に塗れた自身の右手をゆっくりと持ち上げ、自分を拘束するメルセデスの背中へと、力なく回した。

 

「……なんか、すっごく疲れた。ボク……もう、寝ちゃい……」

 

言葉の途中で、張り詰めていた彼の身体からふっと力が抜けた。

それが、彼の限界だった。

小柄な肉体の全重量が、完全にメルセデスの腕の中へと預けられ、ほどなくして、静かで規則的な寝息が彼女の胸元に落ち始めた。

 

「…………っ」

 

先程まで、自分を守るために恐ろしい速度で死地を駆け抜け、神父の化け物の心臓を射抜いた獰猛な番犬。それが今、ただの傷だらけの幼い子どもとして、自分にすべての命の重さを委ねて眠っている。

 

メルセデスの喉の奥で、ヒュッ、と短い音が鳴った。

 

見開かれた彼女の碧い瞳孔が、極限まで収縮する。

彼女の腕の中で、規則正しく上下する小さな背中。

修道服越しに伝わってくる、確かな心臓の鼓動。

自分の真っ白な服を、取り返しのつかないほどに汚し尽くした、鮮烈な彼の血の跡。

 

「……うふふ。ふふっ……」

 

甘く、泥のように重い笑い声が、メルセデスの唇からこぼれ落ちる。

彼女は眠るツィリルの血塗れの髪に再び深く顔を埋め、彼の汗と、鉄錆と、死臭の混じった匂いを、肺の奥底まで限界まで吸い込んだ。

 

(ええ、ゆっくりお休みなさい。私の、可愛いツィリルくん。……もう絶対に、誰にも渡さないから)

 

彼女は、自身の両腕に包み込んだ小さな『オス』の熱を、まるで神から賜った奇跡の聖遺物であるかのように、さらに強く、深く、己の胸の奥底へと閉じ込めた。

 

その、あまりにも異様で、狂気的なまでの母性と執着の密度。

数歩離れた場所で膝をついていたカトリーヌは、何か声をかけることすらできず、ただ額に冷たい汗を滲ませて沈黙するしかなかった。

死神の力を抑え込んだエミールでさえ、泥の中で笑いながら少年を抱きしめ続ける姉の姿に、本能的な悪寒を感じて目を逸らす。

 

死臭と泥に塗れたアビスの最深部で、メルセデスの白檀の香りだけが、異常なほどの色濃さで空間を支配し続けていた。

 

***

 

冷たく、刺すような冬の風が、大修道院の回廊を吹き抜ける。

 

地下の澱んだ空気とは全く違う、高地特有の澄み切った大気。

石造りの壁から差し込む鋭い日差しを避けるように、コンスタンツェは回廊の端――濃い影が落ちる壁際を、息を潜めて歩いていた。

 

「……はぁ。まさか、わたくしが教団の正規の生徒として、この陽の当たる場所を歩く日が来るとは」

 

暗がり(日陰)に身を潜めているため、彼女の精神は本来の高飛車な状態を保っている。

腕を組み、顎を上げ、誰に見せるわけでもなく尊大な態度で一人ごちる。

 

しかし、その強気な態度とは裏腹に、彼女の歩みはひどく慎重だった。

自身の足が、まだ「乾いた石畳」の感触に慣れていないのだ。ふとした拍子に、あの地下の泥濘で足を取られた時の無様さと、頭上から振り下ろされたゴーレムの巨大な拳の幻影が脳裏をよぎり、足の甲が反射的に強張る。

 

「っ……」

 

不意に、前方の曲がり角から規則正しい足音が聞こえ、コンスタンツェは立ち止まった。

 

両腕に大量の麻袋と羊皮紙の束を抱え、こちらへ向かって歩いてくる小柄なシルエット。

ツィリルだった。

 

アビスで背中を深く切り裂かれていたはずだが、修道院が誇る最高位の白魔法――メルセデスが寝食を忘れて、彼以外の誰も触れることを許さずに施し続けた狂気的な治癒術――により、彼の身体はすでに普段通りの無機質な動きを取り戻していた。

 

「あ……」

 

コンスタンツェの喉の奥が、ヒュッと鳴った。

無意識のうちに、彼女の背中は冷たい壁へと張り付き、後退りをして逃げようとする。

腰の辺りに、強烈な熱(幻覚)が走った。彼に体当たりされ、無理やり泥の中へと組み敷かれた時の、あの暴力的で、ひどく温かかった手の感触。

 

ツィリルは壁際で不自然に固まっているコンスタンツェの存在に気づくと、ピタリと足を止め、その暗く底なしの瞳で彼女をじっと見つめた。

 

「な、なんですの……ッ」

 

コンスタンツェは、制服の裾を握りしめながら必死に声を張り上げた。

 

「わたくしに何か用ですの!? わたくしは今、ヌーヴェル家復興のための重要な思索の最中でしてよ! 貴方のような使い走りに構っている暇など……!」

 

影の中にいる。だから、強気でいなければならない。

自分は由緒正しきヌーヴェル家の次期当主。ただの教団の下働きごときに、怯える理由などない。

そう言い聞かせる彼女の声音は、自分でも信じられないほどに小刻みに震えていた。

 

ツィリルは彼女の虚勢など微塵も気にする様子を見せず、ただ麻袋を左腕だけで器用に抱え直すと、右手で羊皮紙の束の中から一枚の封筒を引き抜いた。

 

「レア様からの書類です。灰狼の学級の、今節の予算のやつ」

 

事務的な声。そこには、アビスで見せた獰猛な番犬の熱も、あの泥の中で自分に差し出してくれた必死な温かさも、一切存在しない。

 

「あと、メーチェがあなたにお茶を淹れたから、後で医務室に来てくださいって言ってました。ちゃんと伝えたから、忘れないでくださいね」

 

ツィリルは封筒をコンスタンツェの胸元へと突き出した。

 

「お、お姉様が……! そ、そういうことでしたら、わかりましたわ! このコンスタンツェ・フォン・ヌーヴェル、必ずや……」

 

震える手で封筒を受け取ろうとした瞬間。

 

「あの……あなたの名前、長すぎます。噛みそうだし、敵が来た時とか呼ぶのに不便だから」

 

ツィリルの低い声が、彼女の高ぶりを容赦なくへし折った。

 

「……は?」

 

「だから、これからは『コニー』って呼びますね」

 

コンスタンツェは、差し出された封筒を空中で掴み損ねた。

冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。

 

「こ、コニー、などと気安く……ッ! わたくしは由緒正しきヌーヴェル家の……」

 

「嫌って言われても……ボク、長いと覚えられないし。メーチェのことも長くて呼びにくいから、そう呼んでるだけですから」

 

ツィリルは、彼女の血筋にも、貴族としての矜持にも、微塵の興味も示さない。

 

「じゃあ、コニー。書類、ユーリスに渡しといてください」

 

ツィリルは彼女の手から滑り落ちかけた封筒を、強引にその指先に押し込むと、彼女の返答など一切待たずに踵を返した。

 

足音。

一切の未練も、感情の揺らぎもない、規則正しいブーツの音。

小柄な少年の背中は、太陽の光が降り注ぐ中庭の方へと、迷いなく遠ざかっていく。

 

取り残されたコンスタンツェは、冷たい壁に背中を預けたまま、硬い羊皮紙の封筒を両手で強く握りしめていた。

 

(長いから、覚えられない……。メーチェのことも、そう呼んでるだけ……?)

 

ツィリルにとって「メーチェ」とは、自らの血を流してでも絶対に護り抜く、最も大切な『身内(群れ)』だ。

――自分も今、それと全く同じ場所に並べられたのだ。

 

『謝らないで。絶対に、離さないから』

 

脳裏に蘇る。泥濘の中で響いた、あの不器用で必死な声。

ゴーレムの巨拳から自分を庇い、強引に押し倒した、あの暴力的なまでの少年の腕の力と、火傷しそうなほどの体温。

 

「あ……ぁ……っ」

 

コンスタンツェの顔が、一気に真っ赤に染まり上がった。

 

ヌーヴェル家復興。貴族としての誇り。そんな薄っぺらい虚勢が、あの日刷り込まれた泥まみれの「安心感」と「オスの熱」の記憶によって、内側からドロドロに溶かされていく。

 

(わたくしが……コニー……。あの恐ろしいお姉様と同じ、あの人の、護るべきもの……っ)

 

それは屈辱ではない。

孤独に気を張って生きてきた彼女の心を強引にこじ開ける、甘くて、抗いようのない絶対的な『陥落』だった。

 

「はぁっ……はっ……あぁ……っ」

 

膝の力が、完全に抜け落ちた。

コンスタンツェは壁にすがりつくこともできず、修道院の冷たい石畳の上へと無様にへたり込んだ。

 

冷え切った冬の石床の感触が、制服越しに伝わってくる。

しかし、彼女の身体の内側は、発熱したように異様な熱を持っていた。

コンスタンツェは握りしめた封筒ごと、自身の真っ赤に染まった顔を両手で覆い隠す。

 

影の中にいるのに、少しも強気になどなれない。

誰の目もない静寂の回廊で、ただ一人。誇り高き令嬢は、自身の口から止めどなく漏れ出しそうになる甘い喘ぎと熱い呼吸を、自身の両手で必死に押さえ込み、いつまでも、いつまでも震え続けていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。