大修道院の最上階。ステンドグラスから溢れるうららかな陽光が、謁見の間の豪奢な絨毯を照らしている。
「此度の働き、教団を代表して礼を言います」
大司教レアの慈愛に満ちた声が響く。
その御前に並んで片膝をついているのは、ユーリス、バルタザール、ハピ、コンスタンツェのアビスの若者たちだった。
「教団の影で生きてきたあなたたちに、日の当たる場所を用意しましょう。あなたたちが地下で名乗っていた『灰狼の学級(ヴォルフクラッセ)』……今日より、それを士官学校の正式な学級として認可し、地上での活動を特別に許可します」
レアの言葉に、ユーリスが顔を上げ、皮肉げな、しかしどこか安堵したような笑みを浮かべた。
(日陰者に、立派な首輪を用意してくださるってわけだ)
だが、大司教の御前でその皮肉を口に出すほどの愚かさを、彼は持ち合わせていない。アビスの民の命運を握られた今、最も賢い選択は『忠実な駒』を演じきることだ。
ユーリスは瞬時に顔へ完璧な優等生の仮面を貼り付けると、恭しく、そして力強く声を響かせた。
「ありがたく、拝命します」
「ユーリス。あなたが級長として、彼らをまとめなさい。……そして、彼らを導く教師には、メルセデス。あなたにお願いしてもよろしいですか?」
傍らに控えていたメルセデスが一歩前に出た。彼女はいつものふんわりとした笑みを浮かべている。
「はい、レア様。私でよければ、精一杯やらせていただきます~」
「ば、馬鹿な! 大司教、いくら何でもそれは……ッ!」
たまらず声を荒らげたのは、教団の補佐役であるセテスだった。
「彼らは地下のならず者ですぞ! いくら教団の騎士であるカトリーヌやエミールを補助につけるとはいえ、うら若き修道女一人に教師を任せるなど……」
「わたくしも、灰狼の学級に入りますわ!!」
バタンッ! と、謁見の間の重厚な扉が開け放たれ、薄緑色の髪を揺らした少女が飛び込んできた。
セテスの顔から、一瞬で血の気が引く。
「フ、フレン!? お前、こんなところで何を……ッ」
「お兄様、わたくしはずっと同年代の方々と学園生活を送ってみたかったのです! エミール様やカトリーヌさんもいらっしゃいますし、安全ですわ!」
フレンはセテスの制止をすり抜けると、壁際に静かに控えていたエミールの元へと小走りで駆け寄った。
「またお会いできて嬉しいですわ、エミール様。これからよろしくお願いいたしますわね」
「……勝手にしろ」
エミールは顔を背け、ひどく素っ気ない態度をとった。しかし、彼はフレンから距離を取ろうとはせず、その金色の瞳の奥に潜んでいた『死神』の気配は、フレンの朝露のような香りに触れたことで、静かに、そして確実に鎮まっていた。
「ならん! 断じてならんぞフレン! お前をそんな得体の知れない連中の中に……ッ」
「セテス。彼女の言う通り、護衛には優秀な者たちがつきます。……ツィリル」
レアが、自身の足元で控えていた少年に視線を落とした。
「はい。レア様、呼びましたか」
「あなたも今日から、灰狼の学級の生徒として彼らと共に学びなさい。あなたには、学ぶべきことがまだたくさんあります」
ツィリルの目が、少しだけ丸くなる。
大司教の足元で雑務をこなすことが自分の存在意義だと信じていた彼にとって、それは青天の霹靂とも言える命令だった。
「ボクが、ですか。でも、教団のお掃除とか、まだ仕事が……」
「仕事は他の者に任せます。お願いできますね?」
レアの静かな、しかし有無を言わさない微笑み。
ツィリルは小さく頷いた。
「……わかりました。レア様がそう言うなら、ボクは生徒になります」
セテスが苦渋に満ちた表情で天を仰ぐが、レアの決定が覆ることはなかった。
***
数日後。
士官学校の敷地の片隅に新設された、灰狼の学級の教室。
真新しい机と椅子が並ぶその空間には、すでに奇妙な『力学』が形成され始めていた。
「へぇ、ここが俺たちの教室か。悪くねぇな。……お前ら、適当に席につけよ」
級長となったユーリスが教卓の横に寄りかかり、気怠げに指示を出す。
ツィリルは一番前の窓際の席に座り、配られたばかりの真新しい教科書のページをパラパラと無言でめくっていた。
「あ、あの……」
ツィリルのすぐ横の席に、コンスタンツェが恐る恐る歩み寄ってきた。
太陽の光が差し込む教室。日向にいる彼女は、極度にネガティブで卑屈な人格の真っ只中にある。
「わ、わたくしのような羽虫が、貴方のお隣に座るなどという大罪……どうか、お許しくださいませ……。すぐに床の埃と同化して、息を潜めておりますゆえ……」
彼女は両手で顔を覆い、カタカタと震えながらツィリルを窺う。
アビスでの圧倒的な力の差、そして彼から与えられた「コニー」という合理的な略称。日陰の高飛車な彼女すらねじ伏せたその事実は、日向の卑屈な彼女にとっては『逆らうことなど絶対に許されない、完全なる恐怖と支配の象徴』として脳髄に刻み込まれていた。
「別に、どこに座ってもいいよ。そこ空いてるし」
ツィリルは教科書に視線を落としたまま、少しだけ横にずれて彼女の分のスペースを作った。
「ひぃっ……! も、もったいないお言葉……っ! このコニー、貴方の影の一部として、生涯この席を温めさせていただきますわぁ……っ!」
コンスタンツェが涙目で椅子に座ろうとした、その時。
「うふふ。ごめんなさいね、コンスタンツェ。その席は、私が使うわ~」
甘く、ひどく重い白檀の香りが、ツィリルの背後から覆い被さってきた。
教師であるはずのメルセデスが、なぜかツィリルの真横の席(本来なら生徒の席)に座り、ツィリルの肩に自分の豊かな胸元をぴったりと押し当ててきたのだ。
「ひぃっ!? も、申し訳ございませんお姉様! わ、わたくしは後ろの席へ……っ」
お姉様の静かで圧倒的な圧力を感じ取り、コンスタンツェは弾かれたように後列の席へと逃げ去った。
「……メーチェって確か先生でしたよね。教卓はあっちですけど」
ツィリルは肩に押し付けられる柔らかい感触と熱に、顔を赤らめながら振り返った。
「うふふ、いいのよ~。ツィリルくんがちゃんと教科書を読めるか、先生が隣で見ていてあげるんだから~」
メルセデスはツィリルの首筋に自身の髪が触れるほど顔を近づけ、全く離れようとしない。彼女の碧い瞳は、教室の他の生徒たちへ「この子は私のもの」と無言の牽制を放っていた。
「……近いです。メーチェがあったかくていい匂いなのは好きだけど……これだと教科書の字、読めないです。ボク、メーチェにもらったこの本、ちゃんと読めるようになりたいから……少しだけ、離れてください」
ツィリルは小さく頬を染め、誤魔化すように教科書を立てて視線を隠した
。
「ごめんなさいね~。でも、先生だから、生徒のすぐ側にいないとダメなのよ~」
メルセデスは怒るどころか、頬を紅潮させて彼への密着度を強めた。
「やれやれ……。初日から、随分と歪な教室になったもんだぜ」
ユーリスが呆れたように肩をすくめ、後方で壁にもたれかかっているエミールとカトリーヌを見遣る。
ハピは机に突っ伏して欠伸をし、バルタザールは退屈そうに外の景色を眺めている。フレンだけが、嬉しそうに真新しい紙を広げていた。
1180年、天馬の節が終わろうとしている。
間もなく、彼らを取り巻く運命を決定的に変える一人の傭兵――『ベレト』が、この大修道院へと足を踏み入れようとしていた。