帝都アンヴァル、皇城のさらに奥深くに位置する地下区画。
何百年も日の光を吸ったことのない重厚な石造りの空間を、壁に等間隔で掛けられた燭台の炎が、じっとりと揺らめきながら照らし出している。
松脂の燃える匂いと、カビと冷気の混じった地下特有の湿った風。
ヒューベルト・フォン・ベストラの足音は、硬い石畳の上を歩いているにも関わらず、一切の音を立てない。
その背後を歩くシェズもまた、腰に下げた二振りの剣がすれ違う音すら殺し、無造作な歩幅でありながら、いつでも前方へ飛び退ける重心を保ったまま歩を進めていた。
分厚い鉄扉の前で、ヒューベルトが立ち止まる。
「……お連れいたしました」
低く、地の底を這うようなヒューベルトの声が響くと同時、重々しい金属音と共に鉄扉が内側から開かれた。
「……彼が、例の?」
豪奢な真紅のドレスを纏った少女――アドラステア帝国皇女、エーデルガルト・フォン・フレスベルグが、蝋燭の光を背に受けて静かに振り返った。
その透き通るような紫水晶の瞳は、年齢に見合わない冷たさと、入室してきた傭兵を品定めをするような鋭い光を放っている。
「はっ。先日の任務の折、私の網にかかった流れの傭兵です」
ヒューベルトが恭しく一礼し、シェズの横へと視線を流す。
「天涯孤独。特定の主を持たず、教団への信仰も皆無。金銭と合理性のみで動き、何より……その腕の確かさは、私が保証いたします」
「へえ。帝国で一番偉いお姫様と、その腹心サマってわけか」
シェズは、フォドラの次期覇王の放つ冷ややかな威圧感を真っ向から浴びながらも、全く怯む様子を見せなかった。
彼は凝り固まった首の骨をポキリと鳴らし、身軽さを重視した着古された革鎧の襟元を軽く引き下げる。
「俺はシェズ。見ての通り、ただの傭兵だ。……で、あんたらの『裏仕事』に俺の剣を雇いたいって話だったか?」
(……不思議な男ね)
エーデルガルトの細い眉が、微かにピクリと動いた。
帝国の裏の仕事を束ねるヒューベルトの殺気を隣に置きながら、まるでそよ風でも受けているかのように自然体で呼吸をしている。紫がかった逆毛の奥にある双眸には、野心も、権力への阿諛追従も、狂信もない。ただ、目の前の相手が「自分を殺す気があるかないか」だけを測る、純粋な野生の生存本能だけが宿っている。
加えて、彼の肉体の奥底から微かに立ち上る、通常の魔力とは全く異なる異質な波長。
(これなら、教団の光の届かない場所で、私の意志を代行する『暗部の刃』として十全に機能するはず……)
エーデルガルトは、口元に微かに満足げな笑みを浮かべた。
「ええ。貴方の実力は、ヒューベルトからの報告で十分に承知しているわ。……貴方にはこれから、私の直属の刃として、ガルグ=マクの暗部で立ち回ってもらいたいの」
「暗部ねぇ。まぁ、金払いが良くて、俺の剣が役に立つならどこへでも行くさ」
シェズの二つ返事に、エーデルガルトの紫水晶の瞳が、僅かに、しかしはっきりと「熱」を帯びて輝いた。
彼女は小さく頷き、ずっと自身の傍らに置かれていた、巨大なビロードの布張りの物体へとその白い手をかけた。
「素晴らしい覚悟ね。……ならば、まず最初の『契約の証』として、これを受け取りなさい! 私が貴方のために用意した、闇を統べるにふさわしい武具よ!」
バァァンッ! と。
布の擦れる重い音と共に、エーデルガルトが勢いよく覆いを振り払った。
隠し部屋の揺らめく炎に照らし出されたのは――禍々しい漆黒の重装鎧だった。
悪魔の角のように天へ向けて反り返った巨大な兜。死神の如き髑髏を模した不気味な面頬(メンポウ)。肩の可動域を完全に無視してせり出した分厚く鋭利な肩当て。そして、鎧の横に立てかけられた、身の丈をゆうに超える巨大な『大鎌』。
「…………え?」
シェズはポカンと口を開け、その物々しすぎる鎧と大鎌を交互に見つめた。
「どう? これを纏えば、教団の犬どももその姿を見ただけで恐怖に震え上がるはずよ。私が名付けたこの『死神騎士』という、恐怖と絶望を体現した完璧な……」
「いやいやいや。おい、ちょっと待ってくれよ、雇い主殿」
シェズは両手を前に出し、目を輝かせるエーデルガルトの言葉を途中で遮った。
「……何か不満でも?」
「不満っていうか……俺、さっき言ったよな? 『二刀流』の剣士だって」
「ええ。聞いているわ」
「こんなバカでかい鎌、どうやって振るんだよ。重心が刃の先端に寄りすぎてて、取り回しが最悪だ。乱戦になったら一振りした直後の隙に懐に潜り込まれて、腹をかっさばかれるぞ」
「それは……気合いと、貴方の天性の膂力でカバーして……」
エーデルガルトの言葉のトーンが、ほんの少しだけ下がった。
「それに、この鎧」
シェズは無遠慮に歩み寄ると、漆黒の重装鎧の肩当てをコンコンと指の関節で叩いた。
「見た目はすげぇ強そうだけど、肩当てと兜の角がデカすぎて、これ絶対視界が塞がるし、腕が真上に上がらねぇぞ。俺みたいなスピード重視の傭兵が実戦でこんな重い鉄の塊を着てたら、あっという間にスタミナ切らして背後を取られる」
「…………っ」
「それに、裏の任務をやるんだろ? ガチャガチャ足音の鳴るこんなド派手な鎧を着て暗躍するとか、正気の沙汰じゃない。目立ちたいのか隠れたいのかどっちかにしてくれ。……悪いけど、この鉄屑は丁重にお断りさせてもらうぜ」
シン、と。
地下の隠し部屋の空気が、物理的に凍りついた。
エーデルガルトは、自身が精魂込めて意匠を凝らした(そして密かに命名までした)渾身の武具を真っ向から完全否定され、口を半開きにしたまま石像のように固まってしまった。
「そ、そんな……。この禍々しいフォルムと、大鎌が放つ絶望感こそが……教団に恐怖を植え付けるためには必要不可欠……」
「いや、恐怖を植え付ける前に俺が死ぬって」
ぐうの音も出ない、命を懸けて生き抜いてきた傭兵としての極めて合理的で冷酷な視点。
エーデルガルトの透き通るような白い頬から耳の裏にかけて、ジワジワと、沸騰するような朱色が染め上がっていく。
皇女としての威厳と、自身の美的センス(少しばかり誇大妄想の気があるそれ)をド直球で否定された気まずさが混ざり合い、彼女はすがるような目で、すぐ背後に控える従者へと視線を向けた。
「ヒ、ヒューベルト! 貴方も何か言ってあげなさい! この武具の恐ろしさを……っ!」
しかし。
ヒューベルトは、部屋の隅にある燭台の微かな煤の汚れを観察するかのように、完全に視線を明後日の方向へと逸らしていた。
腕を後ろで組み、姿勢を正したまま、見事なまでの『無言』を貫いている。
彼もまた、戦場を知る冷徹な軍師として、先程からのシェズの指摘が「1000%正しい」ことを痛感していた。ここで主君のデザインセンスを庇えば傭兵としてのシェズの信頼を失い、かといってシェズに同調すれば主君のプライドに致命傷を負わせる。
彼が弾き出した最適解。それは『完全なる風景への同化(無視)』だった。
「ヒューベルト……っ! 貴方、目を逸らしたわね……っ!!」
エーデルガルトが小声でギリッと睨みつけるが、ヒューベルトは「……コホン」と低く一つ咳払いをするだけで、絶対に主君と目を合わせようとしなかった。
その、帝国の命運を握るはずの重々しい主従のやり取りを見て、シェズは堪えきれずに吹き出した。
「はははっ! なんだかよく分からねぇけど、面白い主従だな」
「わ、笑い事ではないわ……っ」
「まぁ、そんな落ち込まないでくれよ、雇い主殿」
シェズは軽く笑いを収めると、自身の腰にある使い慣れた二振りの剣の柄をポンと叩いた。
「その大げさな鎧や仮面がなくても、俺はあんたの敵をきっちり斬る。……仕事の腕には自信があるんでね」
(『……まったく、悪趣味な鉄屑だね。あんなものを着せられたら、運命共同体である僕の美意識まで疑われてしまうよ。君が断ってくれて安心した』)
ふと、シェズの脳内の奥底――白い空間の彼方から、微かな冷笑を含む中性的な声が響いた。
彼の中に眠る存在、『ラルヴァ』の意識が、呆れたような声を上げていたのだ。
「それに、頭の中で『あんな重いだけの鉄屑、着る価値もないよ』って、相棒も言ってるしな」
「……相棒?」
「ああ、こっちの話だ。気にしないでくれ」
シェズは自身の頭を軽くトントンと叩き、飄々とした態度で肩をすくめた。
エーデルガルトは、小さく、本当に小さくため息をついた。
真っ赤に染まっていた耳を亜麻色の髪で隠すようにして、一度目を伏せる。そして数秒後、再び顔を上げた時――彼女の顔からは、先程までの動揺と気まずさが完全に消え失せていた。
「……はぁ。分かったわ。貴方の流儀を尊重しましょう。武具はそのまま、貴方の使い慣れたものを使用しなさい」
一切の腹立ちを見せず、自身の提案を否定されても瞬時に相手の意見の合理性を呑み込む。
ただの我が儘な姫ではない。その切り替えの早さと、上に立つ者としての器の大きさに、シェズも内心で微かに評価を改めていた。
この雇い主は、信用できる。
「助かるぜ。で、俺の最初の任務は?」
「まもなく、教団の本拠地であるガルグ=マク大修道院にて、士官学校の新たな一年が始まるわ」
エーデルガルトの紫の瞳に、再び冷たく鋭い覇王の光が灯る。
石室の空気が、一段階重く沈み込んだ。
「貴方には、私の『直属の傭兵』として大修道院へ潜伏してもらう。教団の暗部を探り、士官学校の生徒たちの動向を監視し……いずれ来るべき戦いのための、盤石な布石を打ちなさい」
「了解だ。……期待以上の働きをしてやるよ、エーデルガルト皇女」
シェズは短く応じると、踵を返し、鉄扉へ向かって歩き出した。
重い扉が開かれ、傭兵の足音が冷たい地下回廊の闇の中へと消えていく。
再び静寂が降り降りた隠し部屋。
残されたエーデルガルトは、自身の最高傑作である禍々しい髑髏の仮面をじっと見つめ、ポツリと呟いた。
「……ヒューベルト。貴方、やっぱりこの鎧、実戦向きではないと思っていたの?」
「…………。左様でございますね。強いて申し上げるのであれば、少しばかり……肩の突起が、主張しすぎているかと」
「……貴方、後で覚えていなさい」
地下の冷たい石壁に、次期覇王の微かな恨み言と、従者の弁解めいた低い咳払いだけが、虚しく吸い込まれていった。