容赦のない秋の土砂降りが、漆黒の夜の森を打ち据えている。
泥濘(ぬかるみ)に車輪を取られながらも、古びた幌馬車は猛烈な速度で山道を駆け上がっていた。
御者台で手綱を握る八歳のエミールの手は、雨と自身の血で滑り、すでに皮膚が破れて赤黒く染まっている。それでも彼は、奥歯が砕けそうなほど噛み締め、手綱を決して離さなかった。
「……ッ、ハッ!!」
鞭を打つ。馬の口から白い泡が飛び散る。
その後方。
雨音を切り裂いて、野犬のような怒号と、重い蹄の音が迫ってきていた。
「逃がすな! 紋章持ちの小娘と、当主様に刃向かった狂犬だ!」
「馬の脚を狙え! 殺してでも連れ戻せ!!」
バルテルス家の紋章を掲げた追手の騎兵たち。その数、十騎以上。松明の炎が雨に消されまいと不気味に揺らめき、エミールたちの背後数十メートルの距離まで肉薄していた。
ヒュンッ!!
風切り音。
直後、馬車の後輪に太い矢が突き刺さった。
「っ!?」
車軸が限界を超えた悲鳴を上げ、木材がへし折れる破砕音と共に、馬車が大きく右へ傾く。
エミールの小さな体が御者台から宙へ放り出され、泥水の中を泥塗れになって数メートルも転がった。
「エミールッ!!」
傾いて止まった荷台の中から、メルセデスの絶叫が響く。彼女と母は荷物に守られて致命傷は免れたものの、馬車は完全に大破し、機動力を失っていた。
「……ぁ……ぐ……っ」
泥の中から、エミールが這い上がる。
落下の衝撃で左腕の感覚がない。肩の骨が外れている。口の中は泥と血の味がした。
顔を上げると、すでにバルテルス家の騎兵たちが馬車を半円状に包囲し、槍の切っ先を向けていた。
「……手間をかけさせやがって。クソガキが」
先頭の騎兵が、馬上から冷酷に見下ろす。
「奥様とご息女は馬に乗せろ。……そのガキは両腕と両脚の腱を斬ってから荷台に放り込め。当主様直々に『躾け直す』そうだ」
下馬した数人の重装兵が、剣を抜いてエミールへと近づいてくる。
荷台から這い出たメルセデスが、青ざめた顔でそれを止めようと前に出た。
「やめて! エミールに触らないで!」
「お引き下がりください。」
兵士の一人がメルセデスの腕を乱暴に掴み、泥の中へ引き倒そうとする。
その瞬間だった。
ゴキッ、という異様な音が、エミールの体から鳴った。
彼は外れた自身の左肩を、石だらけの地面に強引に打ち付け、力任せに嵌め直したのだ。
「……ア……ハハ……」
前髪の隙間から覗く、金色の瞳孔。
それは恐怖に震える子供のものではない。極限の絶望と生存本能が、彼の中に眠っていた『死神』の鎖を完全に引きちぎった瞬間だった。
「……触るな」
泥を蹴り上げる音すらなく、エミールが跳んだ。
「なっ――」
メルセデスに手を伸ばしていた兵士の視界から、少年の姿が消える。
次の瞬間、兵士の右膝の関節に、エミールの手にした鋼の剣が深々と突き立てられていた。
「ぎゃああっ!?」
巨体が体勢を崩した隙を逃さず、エミールはそのまま兵士の胸甲の隙間――首の横の動脈へと、刃の根元から全体重を乗せて押し込んだ。
鮮血が夜の雨に噴き上がる。
「こ、のバケモノがッ!」
別の兵士が激高し、エミールの背中へ大剣を振り下ろす。
エミールは振り返りもせず、絶命した兵士の体を肉盾にするように引き寄せた。刃が肉に食い込む鈍い音。その死角から、エミールは獣のように地を這い、男の金的を柄頭で粉砕した。
男が苦悶の声を上げてうずくまった顔面へ、一切の躊躇なく自身の膝を叩き込む。
鼻骨が砕け、二体目の死体が泥に沈む。
「……ァ……殺ス……全テ……肉片ニ……」
血塗れの剣を引き抜きながら、エミールは歪に笑っていた。
彼の脳内はすでに、迫り来る敵をどう『解体』するかの純粋な殺意だけで埋め尽くされている。痛みも、恐怖もない。ただ、目の前の肉を断ち切る歓喜だけが彼を支配し始めていた。
「怯むな! たかが子供一人だ、囲んで突き殺せ!!」
騎兵たちが一斉に槍を構え、馬腹を蹴る。
(――全部、殺す)
エミールが、迫る無数の槍の穂先へと、自ら笑いながら身を投げ出そうとしたその時。
「エミールッ!!」
背後から、ひどく熱く、柔らかい腕が、彼の血塗れの体を力一杯に抱きすくめた。
「……ッ!」
メルセデスだった。
彼女は泥に膝をつき、自身より小さな弟の背中に、その豊満に発育し始めた胸の質量を押し潰れるほどに密着させ、両腕で彼の首と肩をガシリとホールドした。
「だめっ! 行かないで! あなたが死神になんて……なっちゃだめぇっ!!」
雨で透けた薄い修道服越しに、彼女の尋常ではない体温が、氷のように冷え切っていたエミールの背骨へと直接叩き込まれる。
ドクン、ドクンという、メルセデスの早鐘のような激しい心音。
エミールの首筋に、彼女の甘く熟れた体臭と、熱い涙がじっとりと絡みつく。泥と血の悪臭を上書きする強烈な「雌」としての生の熱量、そして姉としての絶対的な庇護の情念。
「……ねえ、さん……ッ」
その圧倒的な体温と匂いに脳髄を殴られ、エミールの瞳孔に再び人間としての理性が引き戻される。
狂気に委ねれば楽になれる。すべてを壊してしまえばいい。
だが、背中にすがりつくこの熱を手放せば、二度と自分は『エミール』に戻れない。
「……ぐ、ぅううおおおおおッ!!」
エミールは喉から血を吐くような咆哮を上げ、迫る騎兵の槍の連撃を、剣の平で必死に弾き返した。
火花が散り、その衝撃でエミールの両腕の筋肉が断裂の悲鳴を上げる。
「姉さん、立って! 母様を支えて! 前へ……走れッ!!」
「エミール……っ!」
「俺が殿(しんがり)だ! 絶対に追いつかせないから、振り返らずに走って!!」
メルセデスはエミールの体を離すと、泥にまみれた母の手を引き、闇の山道へと走り出した。
エミールはその後ろ姿を背に庇いながら、迫り来る兵士たちとの凄惨な撤退戦を繰り広げた。
斬られ、殴られ、血を流し、泥水を啜りながら、それでも彼は致命傷だけは避け、敵の目を潰し、馬の脚を薙ぎ払う。
華麗な剣技など欠片もない。ただ、姉の残した背中の「熱」だけを道標に、死神の力を借りながらも人間として踏み止まる、地獄のような泥仕合。
永遠にも思える血戦と逃走。
肺が焼け焦げ、血液が半分以上流れ出たかのように体が重くなった頃。
雨が、不意に霧へと変わっていた。
深い雲海を突き抜けた証拠だ。
「……あ……」
エミールの霞む視界の先に、天を突く白亜の尖塔群が、薄明かりの中で神々しくそびえ立っていた。
フォドラの喉元。セイロス教団の総本山、ガルグ=マク大修道院の大門。
「着いた……っ。母様、エミール……っ!」
メルセデスが泣き崩れるように門の前へ倒れ込む。母はすでに限界を迎え、意識を失っていた。
「何者だ! 止まれ! 武器を捨て……ッ、ひどい傷ではないか!」
重厚な大門の前に立つ、重装甲のセイロス騎士たちが槍を構えるが、凄惨すぎる三人の姿にすぐさま警戒を解き、駆け寄ってきた。
エミールは、背後に追手の気配が完全に途絶えたのを感じ取った。
バルテルス家の私兵といえど、この絶対不可侵の聖域まで武装して踏み込むことなど絶対にできない。
ここまでだ。ついに、逃げ切ったのだ。
「……頼む。母と……姉、さんを……保護、してくれ……」
エミールは剣を取り落とし、膝から泥の地面へと崩れ落ちた。
薄れゆく意識の中。
駆け寄ってきた騎士たちの向こう側から、緑色の髪を持った厳格な男――大司教補佐セテスが、外套を翻して歩み寄ってくるのが見えた。
「帝国からの逃亡者か。事情は後で聞く。まずは治療院へ急げ!」
セテスの力強い声と、騎士たちに抱き上げられる姉の無事な姿をその瞳に焼き付け。
泥と血に塗れた八歳の少年は、ついに深い暗闇の中へと意識を手放した。