擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二部
第四章①


ガルグ=マク大修道院。

天を衝くような白亜の尖塔群を仰ぎ見ながら、歴戦の傭兵ジェラルトは、喉の奥にへばりついたような重く複雑な溜息を吐き出した。

 

乾いた土と草の匂いを含んだ春の風が、彼の無精髭を撫でていく。

跳ね上げられた巨大な正門を潜り、磨き抜かれた石畳の回廊へと足を踏み入れた瞬間、外界の喧騒は分厚い石壁によって完全に遮断され、代わりにひんやりとした静寂と、微かな乳香の匂いが一行を包み込んだ。

 

「……まさか、こんな形でここへ戻ってくることになるとはな」

 

ジェラルトの独りごちるような低い声に、彼の半歩後ろを歩いていた若き傭兵――ベレトは、一切の感情を交えずに短く瞬きをしただけだった。

ベレトの深い海のような双眸は、壮麗なステンドグラスや豪奢な彫刻には微塵も向けられていない。等間隔で立つ教団兵の配置、柱の死角、回廊の天井の高さ。未踏の戦場に放り込まれた獣のように、ただ無音の呼吸で周囲の『脅威度』だけを正確に測り続けている。

 

彼らのさらに後方。先刻の盗賊討伐で行動を共にした三人の若者たちが、それぞれ異なる足取りで付き従っていた。

赤を基調とした上質な外套を纏い、背筋を完璧な角度で伸ばして歩く銀髪の少女、エーデルガルト。

青いマントを揺らし、周囲の教団兵に対して生真面目に軽い会釈を繰り返しながら歩く金髪の青年、ディミトリ。

そして、黄色の意匠が施された服を気崩し、弓を肩に担ぎながら、飄々とした足取りで天井の装飾を眺めている青年、クロード。

 

「さあさあ、ジェラルト殿! 久しぶりの我が家だろう! 案内するから、こっちへ……!」

 

先導する教団の騎士アロイスが、ガチャガチャと重い甲冑の音を響かせながら豪快に手招きをした、その時だった。

 

「アロイスさん。そのブーツ、泥が落ちてます」

 

回廊の曲がり角から、大人の身の丈の半分ほどもある巨大な麻袋――薪が限界まで詰め込まれたそれを、両手でひょいと抱え上げた小柄な少年が姿を現した。

 

パルミラ人特有の浅黒い肌。額には薄っすらと汗を浮かべ、着古した作業着の袖をまくり上げたその少年――ツィリルは、麻袋の重量を感じさせない安定した足取りでアロイスの前に立ち止まり、彼の足元をジッと見つめた。

 

「え?」

「……ここ、さっきレア様のためにボクが一生懸命拭いたばっかりなんですけど。アロイスさんが歩いた跡、泥だらけになってます」

 

生真面目な、非難の響きを含んだ声。

アロイスはハッとして自身の足元を見て、大仰に頭を抱えた。

 

「お、おお! すまないツィリル、気が回らなくてな! すぐに清掃の者を……」

「いいです、ボクが後でもう一回拭いておきますから。……それと」

 

ツィリルの暗い瞳が、アロイスの後ろに立つ三人の若者たちへと向けられた。

 

「あなたたちも。泥、落としてから入ってくださいね」

「おっと」

 

クロードが、肩に担いでいた弓を下ろして人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「こいつは手厳しい。盗賊を追い払って大急ぎで戻ってきたから、身だしなみを整える暇がなくてね。悪いけど、許してくれないか、少年」

「忙しいのはわかります。ボクの仕事が増えるのも、別にいいです」

 

ツィリルは麻袋を抱え直しながら、一切の愛想笑いを浮かべることなく、極めて真っ直ぐにクロードの目を見返した。

 

「でも、床が汚れてると、レア様がここを通った時に悲しみますから。お客さんなら、外の芝生で靴の裏、綺麗にしてから入ってください」

 

「えっ……と」

 

クロードの飄々とした笑顔が、少しだけ引き攣った。

相手が貴族だろうが王族だろうが関係ない。「自分が面倒だから」ではなく、「レア様が悲しむから」という絶対的な実利と忠誠のみで動く少年のロジックに、言葉を返す隙が見当たらなかったのだ。

 

「無礼な子ね」

 

クロードの隣で、エーデルガルトが冷ややかな視線をツィリルへと下ろした。

 

「私たちは、アロイス殿に客として案内されてここへ来たのよ。大修道院の従者なら、まずは客人を労う言葉の一つくらいあってもいいのではないかしら」

 

その威圧感は、並の平民であれば竦み上がるほどに鋭い。

しかし、ツィリルは困ったように首を傾げた。

 

「労う……? ボクはレア様の従者です。お客さんの案内や挨拶はアロイスさんたちの仕事なんで、ボクは自分の仕事をやります。……あの、これ重いんで、そこ通ります。ぶつかったら危ないから、少し道を開けてください」

 

「……なっ」

 

エーデルガルトの整った顔が、微かに強張る。

彼女の気高さも、王族としての威厳も、この少年には完全に『別の国の言葉』として素通りされてしまったのだ。

 

「待ってくれ、君」

 

ディミトリが、一歩前に出てツィリルの顔を覗き込んだ。彼の視線は、ツィリルの抱えている麻袋の異常な重量感と、それを支える少年の体幹のブレのなさに向けられていた。

 

「さっきから気になっていたんだが……君も、ここの生徒なのか? 先日の野外演習では見かけなかったようだが」

「生徒……あ、はい。ボクも生徒です」

 

ツィリルは、他愛のない世間話に答えるように淡々と口を開いた。

 

「メーチェ……先生がやってる『灰狼の学級』の生徒です。最近できたばかりだから、あなたたちが知らないだけです。訳ありなんで、合同の演習とかにも呼ばれてないし」

 

「はいろうの、がっきゅう……?」

 

クロードが怪訝な顔で反芻し、ディミトリと顔を見合わせる。

 

「……えっと、メーチェのところにこれ持って行くの急いでるんで、もう行ってもいいですか」

 

ツィリルは、困惑する三人の間を縫うようにして、大広間の奥へと歩み出そうとした。

 

その時。

ずっと後方で無言を貫いていたベレトが、ふと、ツィリルの進行方向を塞ぐように、半歩だけ無音で足を踏み出した。

 

歴戦の傭兵特有の、衣服の擦れる音すら殺した歩法。

気配の消失。

 

ツィリルの足が、ピタリと止まる。

 

「…………」

「…………」

 

ベレトの感情の一切ない虚無の瞳と。

ツィリルの、敵の急所を測る時特有の、暗く沈んだ実利主義の瞳。

 

その二つの視線が、至近距離で音もなく交差した。

互いに剣の柄には手をかけていない。言葉も発しない。

しかし、ただ「すれ違うだけの間合い」に入った瞬間の、互いの筋肉の収縮と、絶対に死角を作らない異常な足の運び。それだけで、二人の皮膚感覚は互いが「ただの子供」でも「ただの傭兵」でもないことを、極めて正確に読み取っていた。

 

「……あなた。ボクに何か用ですか」

 

ツィリルが、麻袋を抱えたまま、重心をほんの数ミリだけ後ろへ引いて低く問う。

 

「いや。……荷物、重そうだなと思っただけだ」

「重いです。だから、通してください」

 

ベレトが静かに右へ半歩動き、道を空ける。

ツィリルは警戒を解かないまま、一切の会釈もせずにその横を通り抜けようとした。

 

「ツィリル。お掃除、ご苦労様ですね」

 

大広間の奥、ステンドグラスの光が降り注ぐ階段の上から、ひどく穏やかで、慈愛に満ちた声が響いた。

純白の法衣を纏った大司教レアが、静かな足取りでこちらへ歩みを下りてくる。

 

「っ、レア様……!」

 

ツィリルの声のトーンが、一瞬で跳ね上がった。

彼は先程までの生意気で無愛想な態度が嘘のように、その場に慌てて重い麻袋を丁寧に下ろし、深く、そして無駄のない美しい所作で片膝をついた。それは、教団の騎士たちですら滅多に見せないほどの、完璧で絶対的な臣下の礼だった。

 

「レア様。ここのお掃除、さっき終わりました。……でも、この人たちが泥の靴で入ってきたから、後でもう一回拭いておきます」

「ありがとう、ツィリル。あなたは本当に、いつも働き者ですね」

 

レアがツィリルの前で立ち止まり、その浅黒い額の汗を拭うように優しく頭を撫でた。

その瞬間、ツィリルの顔に初めて、年相応の綻んだような、心底嬉しそうな笑みが浮かんだ。

 

その極端すぎる態度の変化と、絶対的な忠誠の姿に、三人の若者たちは呆気にとられていた。

 

「あの少年……。ただの無礼な従者かと思えば、大司教様にはあのような態度を。不思議な子だな」

「それに、あの歩き方。荷物で死角が塞がっているはずなのに、あの傭兵と対峙した時、僅かな隙も見せていなかったわ。……灰狼の学級、ね」

 

ディミトリの呟きに、エーデルガルトが紫水晶の瞳を細めて応じる。

 

「まあ、大修道院ってのは、俺たちの想像以上に面白い連中が隠れてるってことさ。……なあ、先生?」

 

クロードが、隣に立つベレトに肩をすくめてみせる。

ベレトは小さく息を吐き、片膝をつくツィリルから視線を外して、階段を下りてくる大司教へと静かに目を向けた。

 

「ようこそ、ガルグ=マク大修道院へ。ジェラルト、そして……ベレト」

 

ステンドグラスの眩い光を背負い、レアが微笑む。

冷たい石造りの大広間に、大司教の静かで重い声が反響し、一行を大修道院の深淵へと招き入れたのだった。

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