初夏の日差しが、修道院の郊外に広がる演習場を容赦なく照りつけている。
踏み荒らされた青草の青臭い匂いと、乾いた土埃が風に乗って舞い上がっていた。
黒地の真新しい外套――教団から支給されたばかりの『教師』の衣服に袖を通したベレトは、使い慣れた傭兵の剣の柄に手を置いたまま、模擬戦の準備が進む平原を無言で見下ろしていた。
「……まさか、お前がここの教師になるとはな」
背後から、擦れたような低い声。
ジェラルトが歩み寄り、忌々しそうに無精髭の生えた太い顎を掻いた。
「断れる空気じゃなかった。……あの大司教の目は、最初から決めていたようだった」
「ああ」
ジェラルトは短く鼻を鳴らし、周囲の教団兵たちの視線が届かないことを確認してから、声をもう一段階、地面を這うように潜めた。
「……いいか。気をつけろよ、お前。俺も騎士団に戻ることになっちまったが、あのレア様ってのは、どうも底が見えねぇ。昔からな。……何事もなきゃいいが」
「気をつける」
乾いた風を切り裂くように、硬質なブーツの足音が二人の会話を遮った。
「師(せんせい)。こちらにいらしたのね」
豪奢な真紅の外套を翻し、迷いのない足取りで歩み寄ってきたのはエーデルガルトだった。
その後ろには、芝生の上を歩いているにも関わらず一切の足音を立てないヒューベルトが、影のように付き従っている。
「これからの学園生活、そして最初の課題である各学級対抗の模擬戦……貴方の傭兵としての力、存分に頼らせてもらうわ。私の『黒鷲の学級(アドラークラッセ)』を、必ず勝利へ導いてちょうだい」
「……善処する」
ベレトの短い返答に、エーデルガルトは満足げな笑みを浮かべた。
彼女の紫水晶の瞳は、目の前の教師ではなく、すでに平原の向こう側で陣形を組んでいる青獅子と金鹿の生徒たち――いかにして盤面の敵を叩き潰すかという、闘争の図面へと向けられていた。
「そういえば……もう一つ、新しい学級ができたと聞いたけれど」
エーデルガルトがふと、平原の端、深い木陰が落ちる一角へと視線を流した。
ベレトも無言でそちらを見遣る。
青、黄、赤の鮮やかなマントを羽織った生徒たちが太陽の下で木剣を打ち合わせる中。
その喧騒から完全に切り離された日陰の長椅子に、指定の制服を思い思いに着崩した数人の生徒たちが、退屈そうに身を寄せ合っていた。
アビスから引き上げられた、灰狼の学級の面々だ。
「……彼らは、私たちと同じ新入生なのだろう? なぜ合同演習の輪に入ってこないのだね?」
手入れの行き届いた木槍を素振りしていた黒鷲の生徒、フェルディナントが、木陰の集団を見て怪訝そうに呟く。
「さあ? なんか訳ありの連中らしいけど。近寄りがたい雰囲気だよねー」
ヒルダが日傘を回しながら、遠巻きに彼らを眺めている。
日向の生徒たちが放つ、無意識の好奇と偏見の視線。
「……本当に、ごめんなさい」
木陰の長椅子で。
メルセデスは自身の純白の修道服の裾を両手で強く握りしめ、ひどく申し訳なさそうに眉を下げていた。
「わたくしの力が足りないばかりに、あなたたちをあの演習に参加させてあげられなくて……。セテス様は『身元の不確かな者たちに、正式な生徒と剣を交えさせるわけにはいかない』って……」
「気にすんなよ、先生。元々、俺たちは教団の連中から歓迎されてねぇのさ」
ユーリスが、手元の投げナイフを指先で弄びながら自嘲気味に鼻で笑う。
「あのお偉いさん方にしてみりゃ、俺たちは地下から這い出してきたドブネズミと同類だ。太陽の下で剣を振らせてもらえるなんて、最初から期待しちゃいねぇよ」
「だからって……せっかく、同じ学校の生徒になったのに……これじゃあ……」
メルセデスの碧い瞳が伏せられ、その豊かな胸元が小さく震えた。
ザッ、ザッ、ザッ。
その重苦しい空気を断ち切るように、規則的で、無骨な音が足元から響いた。
「先生。足、少しどけてください。そこ、掃けないです」
長椅子のすぐ横。
大人の身の丈ほどもある大きな竹箒を持ったツィリルが、メルセデスの足元に溜まった枯れ葉と土埃を、一定のリズムで掃き集めていた。
「えっ? あ、ごめんなさい、ツィリルくん……」
メルセデスが慌てて革靴を引く。
ツィリルは「いえ」と短く応じると、彼女の純白の修道服に埃が舞わないよう、手首の角度を微かに調整して、優しく砂をちりとりに集め始めた。
「ツィリルくん。……あなたも、悔しくないの?」
メルセデスが、日向の平原を一瞥もせずに黙々と箒を動かす少年の小さな背中を見つめながら問いかけた。
「せっかく生徒になったのに、お掃除ばかりで、あんな風に剣を振る機会をもらえなくて」
ツィリルの手が、ピタリと止まる。
彼は竹箒を握り直すと、振り返ることなく、極めて事務的な、温度のない声で答えた。
「別に、悔しくないです。ボク、教団の騎士になりたいわけじゃないし。それに、あっちの馬小屋の掃除もしないといけないから、演習とか出てる暇ないです」
「…………」
「あんなチャンバラのお遊びより……ボクは、先生がボクに『字』を教えてくれる時間の方が、ずっと大事ですから」
ツィリルは、照れる様子など微塵も見せず、ただ純粋な『実利』の事実としてそれを口にした。
「ボク、字が読めないから。このままだと、お使いのメモも読めなくて、いつかレア様に迷惑をかけちゃうかもしれない。……だから、剣の練習より、字の読み方を教わる方が、ボクには絶対に必要なんです」
レア様の役に立つため。
それが、彼が自身の「字が読めない」という最大のコンプレックスを晒してまで、メルセデスから文字を習う唯一にして絶対の理由だった。
だが。
「……っ」
メルセデスの顔が、首筋から耳の先まで、一瞬にして沸騰したように赤く染まり上がった。
『レア様のため』という彼の前提など、今の彼女の脳髄には一文字も届いていない。ただ「あんなものより、自分が教える時間の方が彼にとって一番大事だ」という事実だけが、彼女の狂気的な母性と庇護欲のど真ん中を完璧に撃ち抜いていた。
メルセデスは周囲にユーリスたちがいることすら完全に忘れ、衝動的に長椅子から立ち上がると、箒を持つツィリルの背中に正面から覆い被さるように、その両腕で力強く抱きしめた。
「せ、先生……?」
「うふふ……ごめんなさいね。でも、なんだか急に、ツィリルくんの髪の毛の匂い、嗅ぎたくなっちゃって〜」
ツィリルの背中の骨が軋むほどの強い拘束。
メルセデスはツィリルの後頭部に自身の柔らかな頬を押し当て、そのまま彼の首筋に顔を埋め、大きく息を吸い込む。むせ返るような白檀の重い香りが、ツィリルの周囲の土埃の匂いを一瞬にして完全に塗り潰した。
「……あっぶな。今、すげーため息出そうになったし」
ハピが口元を片手で塞ぎ、肺の奥から漏れ出そうになった空気をギリギリで飲み込んだ。
ため息をつけば魔獣が来る。だが、目の前の光景は、魔獣を呼び寄せるリスクを冒してでも深い溜息をつきたくなるほどの異様さだった。
「ほんと、見てらんない。ハピのため息より、メーチェの愛情表現の方がよっぽどホラーじゃん」
「ひぃっ……お、お姉様のあの目……っ」
壁際のコンスタンツェは、ツィリルを己の胎内に取り込もうとするかのようなメルセデスの姿に、本能的な恐怖と、そして得体の知れない強烈な羨望がないまぜになり、さらに自身の身体を小さく丸めて震えていた。
「……変な連中ね」
修練場の入り口からその様子を観察していたエーデルガルトが、小さく呟いた。
彼女の紫水晶の瞳は、メルセデスの異様な執着ではなく、無表情のままその腕の中に収まっている小柄な少年――ツィリルへと向けられていた。
「あの子……私たちが修道院に到着した時、大広間で大司教の足元に跪いていた従者ね。確か、灰狼の学級の生徒だと聞いていたけれど」
エーデルガルトは、ヒューベルトとベレトを伴って、木陰のツィリルの元へと真っ直ぐに歩み寄った。
その足音に気づいたメルセデスが、名残惜しそうにツィリルから離れてふんわりと微笑む。
「貴方たちは、合同演習には参加しないの?」
エーデルガルトが、箒を持つツィリルを見下ろして問うた。
「アビスという過酷な環境を生き抜いた実力があるのなら、少しは骨のある相手になるかと思ったのだけれど」
皇女としての矜持に満ちた眼差し。
だが、ツィリルの目は彼女の顔ではなく、彼女の足元――先ほど自分が掃き清めたばかりの石畳についた、生々しいブーツの泥汚れの方をジッと見つめていた。
「……出ません。呼ばれてないし、ボクはここの掃き掃除があるんで」
「掃除? 貴方、教団の生徒になったのでしょう? なぜ剣を磨くことより、箒を振ることを優先するの。それでは、上に立つ者には決してなれないわ」
エーデルガルトの言葉は、強者に対する彼女なりの期待の裏返しだった。
しかし、ツィリルはひどく面倒くさそうに眉を下げた。
「上に立つとか、ボクにはどうでもいいです」
一切の野心も、熱もない声。
「フォドラの貴族たちも、パルミラの連中も、みんな自分の力を自慢して、偉そうに戦ってばっかりで……ボクは、そういうのには全く興味ないです。ボクの居場所は、レア様が拾ってくれたここだけですから」
「…………」
「だから、あなたがどんだけ偉い人でも、ボクがレア様のために綺麗にした場所を汚すなら、ただの邪魔な人です。……退いてくれませんか」
エーデルガルトの紫水晶の瞳が、僅かに見開かれた。
覇道、変革、身分。彼女が背負うその全てが、この少年には微塵の価値も持たないただの『ノイズ』として切り捨てられたのだ。
「無礼な……! エーデルガルト様に向かって、その口の利き方は……ッ」
背後のヒューベルトが限界に達し、手元の闇魔法の触媒に指をかけた。
ユーリスが瞬時に長椅子から腰を浮かせ、投げナイフの柄に手を伸ばす。
「いいえ、ヒューベルト。下がりなさい」
エーデルガルトは片手で従者を制すると、ツィリルの暗い瞳を見据えたまま、静かに一歩後ずさった。
怒りではない。理解を絶する異質な生態に対する、純粋な警戒だった。
「……邪魔をして悪かったわね。貴方なりの戦いがあることは理解したわ」
エーデルガルトは踵を返し、再び陽光の降り注ぐ修練場の中央へと歩き去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ツィリルは何事もなかったかのように、再びザッ、ザッ、と等間隔で竹箒を動かし始めた。
「先生。あの子……少し、底が知れないわね」
エーデルガルトは隣を歩くベレトに、小さく囁いた。
「権力への野心も、強者への恐怖すら持たない人間は、こちらの理屈が一切通用しない。……時に、誰よりも厄介な敵になるわ」
ベレトは無言で頷き、背後の木陰を一度だけ振り返った。
彼らは陽光の下の演習には参加していない。
しかし、その場にいる誰よりも強烈で、歪で、決して交わることのない『個』の集団として、大修道院の影の中で確実にその根を張り始めていた。