帝国暦1180年、飛竜の節。
ガルグ=マク大修道院から馬で半日ほど離れた、マグドレド街道に連なる深い森。
木々が鬱蒼と生い茂り、初夏の強い日差しが鋭い『木漏れ日』となって、湿った腐葉土の地面にまだら模様を描き出している。
「……あーあ。せっかく外に出られたってのに、なんだって薬草の採取だの地形の測量だのをやらなきゃならねぇんだ。もっとこう、パーッと暴れられる課題はねぇもんかねえ」
バルタザールが太い腕を振り回し、退屈そうに首の骨をバキバキと鳴らす。
「仕方ないじゃない。私たちはまだ、大司教様から正式に学級として認められたばかりだもの。まずは大人しく地味な任務をこなして、教団のお役に立てるってところを見せないと〜」
メルセデスがふんわりと微笑みながら、足元に群生する薬草を丁寧に摘み取り、籠へと入れていく。
その傍らで、ツィリルは自分の背丈ほどもある麻袋に、周囲の薬草を根こそぎむしり取っては、黙々と手際よく詰め込んでいた。
「あ、あぁ……っ。わ、わたくしのような地を這う羽虫が、このような陽の光を浴びるなど、およそ相応しくない大罪……。どうか、このまま湿った土の底に埋もれさせてくださいませ……」
風が吹き抜け、頭上の枝葉が揺れる。
その隙間から射し込んだ一筋の太陽光がコンスタンツェの制服を照らした瞬間、彼女は悲鳴を上げ、両手で顔を覆ってガタガタと震え始めた。
彼女は降り注ぐ光の帯から逃げ惑うように這いずり、ツィリルの背中が作っている僅かな『影』のスペースへと転がり込んだ。
「……コニー。毛虫、怖かった?」
ツィリルは麻袋の口を紐で縛りながら、足元で震えるコンスタンツェを振り返った。
「ボクの後ろなら安全だけど、あんまり服を引っ張られると歩けないから……手、繋いでて」
ツィリルは、不器用に彼女の震える手を引き寄せると、重い麻袋を軽々と肩に担ぎ直した。
「ひぃっ!? も、申し訳ございませんわぁっ!!」
コンスタンツェは小さな悲鳴を上げながらも、ツィリルの手にすがるようにして自身の身体を小さく丸めた。
ユーリスはその様子を横目で見ながら、短く鼻で笑う。
「にしても……あの高飛車なコンスタンツェが、あんなちっこいのに完全に懐いちまってるんだからな。どういう理屈だか」
「おい。止まれ」
突如。
最後尾を歩いていたエミールの、地の底から響くような低い声が、森の空気をピタリと凍らせた。
先頭を歩いていたツィリルが、即座に足を止め、担いでいた麻袋を音もなく苔の上に下ろす。
「どうしたのですか、エミール様?」
フレンが小首を傾げるが、エミールは剣の柄に手をかけたまま、森の奥――木々の隙間から僅かに覗く、苔むした古い城の遺跡を鋭く睨みつけていた。
「……血の匂いだ。それと、ただの野盗ではない、ひどく淀んだ魔力の気配がする」
エミールの金色の瞳の奥に、仄暗い殺意の炎が灯る。彼の中に潜む『死神』の嗅覚が、遺跡に巣食う異質な悪意を正確に捉えていた。
「魔力……? ここは教団の管理下にある森のはずよ。それに、あのお城は数十年前に放棄されたって……」
メルセデスが不安そうに身を寄せる。
ツィリルは音を立てずに近くの太い木の幹へと跳躍し、枝の隙間から遺跡の入り口を観察した。数秒後、彼は枯れ葉一枚落とさずに地面へと着地し、背中の弓を静かに引き抜く。
「……エミールさんの言う通りです。入り口に三人、見張りがいます。でも、ただの山賊じゃない」
「どういうこと、ツィリルくん?」
「着てる服も靴もボロボロに見せかけてるけど、立ち方が素人じゃない。……ボクが偵察してくるから、先生たちはここで待ってて」
ツィリルは手短に状況を告げ、矢筒から黒鋼の矢を抜き取った。
「待て。俺も行く」
「エミールさんが一緒に来てくれるなら安心です。万が一の時は、ボクが敵を射抜くまで壁になってくださいね」
ツィリルの物怖じしない指示に、エミールは短い呼気だけで応じ、黒い外套を翻した。
ユーリスとバルタザールも、顔を見合わせて武器を抜く。
「面白そうな余興じゃねぇか。俺たちも混ぜろ」
「見つかる前に片付けるよ。……ボクが最初にやるから」
ツィリルは枯れ葉の音一つ立てず、滑るように森の暗がりを駆け抜けた。
遺跡の入り口。見張りの男たちが、不意に風の音に違和感を覚え、顔を上げた瞬間。
シュッ――!!
乾いた風切り音。
ツィリルの放った矢が、中央の男の喉笛を完全に貫通し、悲鳴を上げる隙すら与えずにその命を絶ち切った。
「なっ……敵襲、だ――ッ」
「遅い」
残る二人が腰の剣を抜くより早く。
漆黒の死のオーラを纏ったエミールの剣閃が、男の一人の胴体を半ばから深く斬り裂いた。
噴き出す大量の血飛沫。最後の一人が絶叫しようとした口を、背後から音もなく回り込んだユーリスの短剣が塞ぎ、そのまま深々と頸動脈を抉り取る。
わずか数秒の出来事。
一切の躊躇もなく、確実に敵の命を摘み取る彼らの洗練された連携に、物陰で見ていたハピやコンスタンツェが小さく息を呑む。
「……先生、こっちはもう安全だから、来てください」
ツィリルは血溜まりを一瞥もせず、後方のメルセデスたちに向かって手を振った。
メルセデスは小走りで駆け寄ると、血の匂いが充満する中、ツィリルの無事を確認して安堵の吐息を漏らした。
「……鍵、開いてる。中にまだ誰かいるみたい」
ツィリルが見張りの死体から鍵束を拾い上げ、重い鉄の扉を押し開ける。
城の地下へと続く、石造りの冷たい階段。そこには、先ほどの見張りたちと同じように、踵の揃った規則的な足跡が地下の泥へと続いていた。
「気をつけてね……。罠があるかもしれないわ」
「ボクの歩いたところだけを踏んで」
ツィリルはメルセデスを庇うように彼女の前に立ち、暗闇の奥へと足を踏み入れていった。
地下の最深部。
かつての牢獄として使われていたであろう空間には、禍々しい紫色の魔力陣が浮かび上がり、数人の黒装束の魔道士たちが何やら低い声で言葉を交わしていた。
ツィリルたちは呼吸を殺し、鉄格子の陰からその様子を窺う。
「……オックス家の小娘は、まだ生かして情報を吐かせろ。クロニエの奴が完全に『皮』を被れるまでには、もう少し時間が必要だからな」
「はっ。しかし、よろしいのですか? この娘は、エーデルガルトの……」
「構わん。あの小娘(エーデルガルト)も、我らの最終的な目的のためのただの『駒』に過ぎんのだ」
黒装束の男たちの言葉に。
鉄格子の中、両手首を鎖で天井から吊るされていた少女――鮮やかな赤髪を持つモニカ・フォン・オックスの身体が、ビクリと大きく跳ねた。
(エーデルガルト……殿下が? 皇女殿下が、私を拐ったこの化け物たちと……繋がっているの……?)
極限の恐怖と疲労の中で、モニカの脳内に、その言葉だけがどす黒い呪いのように反響する。
自身の仕えるべき絶対の主君であり、帝国の光。それが、自分をこのような地下牢で切り刻む者たちと裏で手を結んでいる。
鎖の擦れる音。モニカの喉の奥から、絶望に満ちた、声にならない過呼吸の音が漏れ出した。
「もういい。小娘の意識を刈り取れ。次の実験の準備を……」
魔道士の一人が、モニカに向かって禍々しい闇の魔法を掌に集めようとした、その時。
ドスッ……!!
「ガッ……!?」
魔道士の額の中心に、背後の暗闇から飛来した一本の黒鋼の矢が、羽の根元まで深々と突き刺さった。
「な、何者だッ!?」
残りの魔道士たちが慌てて振り返る。
「……エミールさん、バルタザールさん。出番です」
言葉の終わりと同時に、バルタザールの巨大な拳が魔道士の顔面を粉砕し、エミールの剣が闇の障壁ごと敵の身体を両断する。
「おらよッ!」
ユーリスが壁を蹴って跳躍し、後列の魔道士の首に短剣を突き立てる。
ツィリルは冷静に戦況を見渡し、少しでも呪文を詠唱しようとする魔道士の喉元へ、次々と正確に矢を叩き込んでいった。
「あ……ぁ……」
モニカは、目の前で繰り広げられる一方的な殺戮劇を、虚ろな目で見つめていた。
自分を誘拐し、絶望の淵に追いやった恐ろしい化け物たちが、自分よりも年下の少年や、見慣れない制服を着た者たちの手によって、次々と処理されていく。
「……終わりだね」
最後の魔道士がエミールの刃に倒れると、ツィリルは弓を背中に戻し、モニカの吊るされている鉄格子へと近づいた。
彼は腰の短剣を抜くと、モニカの手首を縛り付けていた鎖の留め具を物理的に破壊し、戒めを切り裂いた。
「きゃっ……」
支えを失い、モニカの身体が冷たい石の床へと崩れ落ちそうになる。
それを、ふわりとした温かな腕が、優しく抱きとめた。
「大丈夫よ。もう、怖い人たちはいないわ〜」
メルセデスだった。彼女はモニカの身体を自身の豊かな胸元に抱き寄せると、白魔法の温かな光で、モニカの傷だらけの身体を癒し始めた。
「あ、あなたたちは……? セイロス教団の……騎士、様……?」
モニカが、ガタガタと震える声で尋ねる。
ツィリルは、落ちていた松明を拾い上げ、モニカの顔を静かに見下ろした。
「ボクたちは教団の生徒。……立てる? 怪我してるならボクたちの先生が治すから、大人しくしてて」
「帝国じゃ、ない……」
その言葉に、モニカの瞳から堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
帝国。自分の仕えるべき祖国。
しかし、先ほどの魔道士たちの言葉が事実なら、帝国へ戻れば自分は再び、この闇の中に引きずり込まれる。
「わ、私……帰れない……っ。帰ったら、また、あの人たちに……っ!!」
モニカはメルセデスの修道服を強く握りしめ、パニックを起こしたように泣きじゃくった。
「……コニー。この人、知り合い? 服の紋章、帝国貴族のものみたいだけど」
ツィリルが、後ろでオドオドしていたコンスタンツェを振り返って尋ねる。
「オ、オックス男爵家のモニカ様ですわ……! 行方不明になったと聞いておりましたが、まさかこのような地下に……っ」
「ふーん……」
ツィリルは小さく息を吐き、泣き叫ぶモニカの目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「帰れないなら、レア様に報告して、教団で保護してもらうようにするよ。……アナタが、レア様の敵じゃないならね」
「ほ、本当……? 私を、助けてくれるの……?」
モニカが涙で濡れた顔を上げる。
ツィリルは、かつての自分と同じように怯える彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、不器用に、けれど力強く告げた。
「……泣かないでよ。ボクも昔、死にそうな時にレア様に助けてもらったから。今度はボクたちが、アナタを安全なところに連れて行くよ」
「あ……」
帝国の闇から自分を引き摺り出してくれた、この奇妙な集団。
そして何より、先陣を切って自分を助け出してくれた、この不器用で真っ直ぐな少年の言葉。
「足、震えてるよね。……バルタザールさん、背負ってあげて。暗くて危ないから」
ツィリルはそれだけを言い残すと、松明を持って先陣を切るように、迷いなく暗闇の回廊へと歩き出した。
バルタザールの広い背中に背負われたモニカは、地下の冷たい空気の中で、松明の光を揺らしながら歩くツィリルの小さな背中を、赤く腫れた目で見つめ続けていた。