大司教レアの執務室は、鼓膜が痛くなるほどの厳かな静寂と、巨大な香炉から立ち昇る甘く重い乳香の匂いに満たされていた。
帝国暦1180年、竪琴の節。
「……無事に生還できたこと、女神に深く感謝いたします。モニカ」
玉座に腰掛けるレアが、慈愛に満ちた静かな瞳で眼下の少女を見下ろす。
「はい……。レア様、そして私を救い出してくださった皆様には、どれほど感謝してもしきれません」
教団から支給された真新しい修道服に身を包んだモニカが、深く頭を下げる。
しかし、大司教の御前にありながら、彼女の顔色はシーツのように真っ白に透け、華奢な肩は微かに、だが絶え間なく小刻みに震え続けていた。彼女のすぐ隣では、教師であるメルセデスがその冷え切った手を両手でしっかりと握りしめ、時折、白魔法の微かな温もりを流し込んでいる。
「よくぞ無事に戻ってきてくれたわ、モニカ」
バタン、と。
執務室の重厚な木扉が開き、真紅の外套を翻したエーデルガルトが、一切の躊躇いのない足取りで歩み寄ってきた。
その背後には、音もなく床を滑るようにして、ヒューベルトが影のように付き従っている。
「行方不明になったと聞いて、私も心を痛めていたの。でも、もう安心よ。さあ、私たちの『黒鷲の学級(アドラークラッセ)』に戻っていらっしゃい。これからは、帝国(わたし)が貴方を守るわ」
エーデルガルトが優雅な微笑みを浮かべ、モニカに向かって、白く細い手を差し伸べる。
次期皇帝からの、直々の歓迎と庇護の約束。本来のオックス男爵家の令嬢であれば、感涙に咽びながらその手を取るべき、極めて名誉な場面だ。
だが。
『構わん。あの小娘(エーデルガルト)も、我らの最終的な目的のためのただの『駒』に過ぎんのだ』
その瞬間、モニカの脳髄に、地下牢の暗闇で蠢く魔道士たちが口にした言葉が、黒い泥のようにドロドロと溢れ出した。
目の前で気高く微笑む皇女の顔。その後ろに立つ長身の従者の冷たい瞳。その背後に、自身を鎖で吊るし、刃を突き立てようとしたあの禍々しい異形たちの影が、寸分違わず重なって見える。
「あっ……ぁ……」
モニカの喉が、ヒュッと不自然に引きつった。
差し出された皇女の手を取ろうと持ち上げたモニカの指先が、空中で痙攣したように硬直する。
息が詰まる。肺に酸素が入ってこない。
帝国に戻れば。このままエーデルガルトの差し出す手を取って黒鷲の学級に戻れば、自分はまた、あの血の匂いが充満する冷たい地下牢に引きずり込まれるのではないか。次期皇帝である彼女自身の命令によって。
「……モニカ?」
いつまでも手を取ろうとしないモニカに対し、エーデルガルトの細い眉が微かに動いた。
背後のヒューベルトの瞳が、僅かに細められる。
「あ、あの……エーデルガルト様……っ」
モニカは空中で硬直していた自身の両手を強引に引き戻し、自身の修道服の胸元を力任せに握り込んだ。
心臓が破裂しそうなほどの恐怖。しかし、ここで明確に皇女を拒絶すれば、それこそ自身の命はない。モニカは必死に貴族としての矜持と理性を総動員し、震える唇から言葉を紡ぎ出した。
「もったいないお言葉、深く、感謝いたします……。ですが、私……あの暗く冷たい地下の記憶が、未だに恐ろしくて……っ」
モニカは一歩後ずさり、隣のメルセデスにすがるように身を寄せた。
「私を助け出してくださった、メルセデス先生や、あの方々の側にいないと……時折、呼吸が上手くできなくなることがあるのです。どうか……どうか、しばらくの間だけでも、私を灰狼の学級に置いてはいただけないでしょうか……っ」
それは、己の命を繋ぐため、そして帝国への疑念を完璧に隠し通すための、決死の『婉曲な拒絶』だった。
「……そう。トラウマが深いのね」
エーデルガルトは、差し出していた手を静かに下ろした。
その声に怒りの色は一切ない。だが、引き下がる気配も微塵もなかった。
「でも、黒鷲の学級には歴戦の傭兵である師(せんせい)もいるわ。それに、貴方のご家族も、私のすぐ側にいた方が安心するのではないかしら。私がレア様に特別にお願いして……」
「……この人、昨日も夜中に悲鳴あげて起きてたよ」
部屋の隅にある巨大な香炉。その灰を丁寧に片付けていたツィリルが、手ぬぐいで自身の指先を拭いながら、絨毯の上を音もなく歩み寄ってきた。
「……ツィリル。貴方、どういう意味かしら」
エーデルガルトの紫水晶の瞳が、剣呑な光を帯びる。
一介の従者が、大司教の御前で皇女の言葉を遮ったのだ。背後のヒューベルトから、明確な殺意に似た圧力が放たれる。
しかし、ツィリルはそんな帝国主従の威圧感など、路傍の石ころと同程度にすら意に介さなかった。
彼はただ淡々と、メルセデスの腕の中で震えているモニカの顔色を指差した。
「……無理しないほうがいいよ。アナタ、あのお姫様の前でずっと無理して笑おうとしてるから、さっきからずっと手が震えてるじゃん」
ツィリルは、エーデルガルトの静かな圧力に押し潰されそうになっていたモニカの前に、スッと立ち塞がるようにして歩み出た。
「メーチェの隣はあったかいし、アビスの連中なら、アナタが夜中に泣き叫んでも誰も文句言わない。だから、元気が出るまでウチにいればいいよ」
ツィリルはそれだけ言うと、皇女から完全に視線を外し、玉座のレアに向かって深く、美しい所作で一礼をした。
「……それに、レア様。無理に学級を変えさせて、またこの人が倒れたりしたら、レア様の手を煩わせることになります。今はボクたちが面倒を見るのが一番かと」
「…………」
エーデルガルトは小さく息を吐き、玉座のレアと、モニカを庇うように立つツィリルを交互に見つめた。
ツィリルが「大司教の手を煩わせる」という大義名分を持ち出した以上、これ以上強引に連れ戻そうとすれば、教団との関係に不自然な摩擦を生むことになる。彼女の計算高い理性が、ここが引き際であると正確に弾き出していた。
「……ええ。貴方の言う通りね、ツィリル」
エーデルガルトは完璧な微笑みを再び顔に貼り付けた。
「モニカの回復を最優先すべきだわ。……モニカ、ゆっくり休みなさい。黒鷲の席は、いつでも空けておくから」
「は、はい……! 寛大なお心に、感謝いたします……っ」
エーデルガルトとヒューベルトが踵を返し、規則正しい足音を響かせて執務室から退室していく。
重厚な木扉が完全に閉まり、帝国の気配が消え去った瞬間――モニカは操り人形の糸が切れたように、その場に力なくへたり込んだ。
「モニカさん! 大丈夫!?」
メルセデスが慌てて膝をつき、モニカの背中を優しくさする。
「あ、はぁっ……はぁっ……」
冷や汗に塗れ、荒い呼吸を繰り返すモニカの視線の先。
そこには、何事もなかったかのように再び香炉の灰を片付け始める、小柄な少年の背中があった。
――ガチャリ、と。
モニカの脳裏に、暗闇の地下牢で己を縛る鎖が真っ二つに切り裂かれたあの瞬間の音が、鮮明にフラッシュバックする。
帝国の気高き皇女の圧力すら完全に無視し、自分と帝国の間に完璧な盾となって立ち塞がった、あの小さな背中。
(……この方は……ツィリル様は、私を……っ)
ドクン、ドクン、と。
恐怖で凍りついていた心臓が、異様な熱を帯びて早鐘を打ち始める。
モニカの胸の奥底で、かつてエーデルガルトへ向かっていたはずの『狂信』のベクトルが、音を立てて、全く別の対象へと激しく捻じ曲がっていく。
「……ツィリルくん。モニカさんを庇ってくれて、ありがとうね〜」
メルセデスが微笑みかけると、灰を集めていたツィリルは手を止めて、不思議そうに首を傾げた。
「庇ってないです。ホントに顔色悪かったから」
ツィリルは一切の照れも誇張もなく、事務的に答える。
「……あと先生、その人の心拍数まだ早いから、ちゃんと落ち着かせてあげてくださいね。ボク、大食堂の掃除があるから行きます」
ツィリルはメルセデスにだけ丁寧な言葉を残し、足音もなく執務室を後にした。
「……ツィリル、様……」
モニカは冷たい石床にへたり込んだまま、自身の修道服の胸元を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
彼が残していった、事実だけを突きつける冷淡な言葉の余韻。それが今の傷ついたモニカの心には、絶対的な『安全(庇護)』の感覚として、甘く、劇毒のように侵食していく。
モニカは荒い呼吸を繰り返しながら、彼が消えた重厚な木扉を、いつまでも、いつまでも熱を帯びた瞳で見つめ続けていた。