擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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時系列をかなり歪めているけど許してヒヤシンス


第六章①

帝国暦1180年、花冠の節。

分厚い雨雲が大修道院の天を衝くような尖塔群をすっぽりと覆い隠し、ステンドグラスから差し込むはずのうららかな陽光を完全に奪い去っていた。

 

大図書室の奥深く。

窓ガラスを絶え間なく打ち据える重い雨音と、湿気を吸って膨張した古い羊皮紙やカビの埃っぽい匂いが、迷路のように入り組んだ書架の間に重く、粘り気を持って立ち込めている。

 

「……隠しても無駄だぞ。君の紋章は、あの忌まわしきモーリスの……『獣の紋章』なのだろう」

 

天井まで届く巨大な本棚が立ち並ぶ、光の届かない行き止まりの空間。

床に落ちた暗い影の中で、金鹿の学級の生徒であるマリアンヌ・フォン・エドマンドが、冷たい石造りの壁に背中を押し付け、自身の両腕を強く掻き抱くようにして激しく震えていた。

 

「ち、違います、私は……っ。ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

 

彼女を壁際へと追い詰めているのは、大修道院に出入りしている壮年の紋章学者だった。

かつてマリアンヌの実父に執拗に付き纏い、その血の秘密を暴こうとしていた男。彼の濁った両目は、学術的な探求心というよりは、異端を暴き立てて己の功名心をすり減らそうとする、歪みきった正義感と狂気で赤く血走っていた。

 

「とぼけても無駄だ。わたしはすべてを知っているのだからな。君の養父であるエドマンド辺境伯がいくら金を積んで事実を隠蔽しようと、私の目は絶対に誤魔化せん! さあ、おとなしくこの私にその血を調べさせ……」

 

ドンッ。

 

学者の粘着質な囁きを、ひどく無骨で、乱暴な物音が断ち切った。

すぐ横の閲覧用の机の上に、うず高く積まれた分厚い歴史書や皮装丁の魔道書が、無造作に叩きつけられた音だった。

 

「……すいません、邪魔です。そこ、ボクが本を戻す棚なんですけど」

 

学者が弾かれたように振り返る。

そこには、片手にまだ数冊の重い本を抱え、ひどく不機嫌そうに眉をひそめた小柄な少年――ツィリルが立っていた。

 

「な……何だお前は? 悪いが私は今、極めて重要な研究の最中で……」

「そんなのボクには関係ないです」

 

ツィリルは学者の苛立ちを真っ向から切り捨て、壁際で顔面を死人のように蒼白にして震えているマリアンヌへと、暗く沈んだ瞳を向けた。

 

「それに。嫌がってる女の子を壁の隅っこに追い詰めて、そんな大声でネチネチ問い詰めて……大人なのに、恥ずかしくないんですか? やめた方がいいと思いますけど」

「なっ……! ええい、たかが教団の小間使い風情が、私の高尚な研究を俗な言葉で侮辱する気か!」

 

学者が顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げる。その口から飛んだ唾が、古い本棚の背表紙に付着した。

 

「侮辱とかよくわからないですけど。……これ以上大声出すなら、今すぐセテスさんに言いにいきますよ」

 

ツィリルは抱えていた本を机に置き、一切の感情を交えない、氷のように冷たい声で告げた。

 

「『怪しい大人が生徒をいじめてて、ボクの片付けの仕事の邪魔をします』って。……行きますか?」

 

ツィリルが一歩、無音で前に出る。

学者は、眼前の小柄な少年の瞳の奥に、理屈や言葉、あるいは大人の権力といったものが一切通じない、刃物のような純粋な凄みを感じ取り、ビクッと肩を震わせた。大司教の補佐であり、修道院の規律を厳格に取り仕切るセテスの名を出されたこともあり、彼の歪んだ気勢は完全に削ぎ落とされた。

 

「チッ……! 今日は引いてやろう。だが、いずれ必ず尻尾を掴んでみせるぞ、忌まわしき獣の末裔よ……!」

 

学者は呪詛のように低く吐き捨てると、ツィリルの刺すような視線から逃れるようにして、図書室の出口へと足早に去っていった。

 

静寂が戻った書架の奥。

残されたのは、窓を叩く雨音と、マリアンヌの過呼吸のような荒い息遣いだけだった。

彼女は両手で自身の顔を覆い、カタカタと、まるで猛吹雪の中に裸で放り出されたかのように小刻みに震え続けている。

 

「……行ったよ。大丈夫?」

 

ツィリルは残りの本を机に置き、マリアンヌの前にしゃがみ込んだ。

先ほどの大人に向けた冷淡な敬語から一転、同年代に対するいつもの飾らないドライなタメ口で問いかける。

 

「ち、違います……私は、そんな恐ろしいものじゃ……っ」

「顔色、すごく悪いよ。具合悪いなら、マヌエラ先生のところに……」

 

ツィリルは、マリアンヌの震える肩へ、弓の弦で硬くタコができた手を無造作に伸ばした。

 

「触らないで……っ!!」

 

バシッ、と。

雨音に紛れて、ひどく乾いた破裂音が書架の間に響き渡った。

 

マリアンヌが弾かれたように顔を上げ、ツィリルの差し出した手を、自身の両手で全力で払いのけたのだ。

 

「あっ……」

 

一瞬の静寂。

我に返ったマリアンヌが、自らが力一杯弾き飛ばしてしまったツィリルの手と、彼の顔を交互に見比べ、絶望的なまでに瞳孔を見開いた。

 

ツィリルは、弾かれた右手を空中に浮かせたまま、怒るどころか、ただ不思議そうに目を丸くして彼女を見つめていた。

 

「ご、ごめんなさい……ごめんなさいっ! 私に、近づかないで……!」

「どうして? 手、氷みたいになってるよ」

「私は、呪われているんです……! 獣の血が……私の側にいると、あなたまで不幸になってしまう……っ。だから、お願いですから、私を一人にして……っ!!」

 

マリアンヌの目から、堰を切ったように大粒の涙がボロボロと溢れ落ちる。

 

自身の忌まわしい運命。愛する養父にすら恐れられ、誰かを傷つけてしまうかもしれないという絶対的な恐怖。

彼女は自身の呪いに目の前の少年を巻き込むまいと、ツィリルに背を向け、激しい雨が窓ガラスを叩きつける図書室の廊下へと、逃げるように走り去ってしまった。

 

「あ……」

 

パタパタという足音が遠ざかり、図書室には再び重い雨音だけが残された。

 

ツィリルはその場にしゃがみ込んだまま、赤くなった自分の右手をジッと見つめた。

マリアンヌの残していった『不幸になる』『呪われている』という言葉。パルミラの過酷な戦場で親を失い、その日を生き延びるためだけに泥水を啜って足掻いてきた彼にとって、目に見えない呪いなどという概念は、まるで別の国の言葉のように現実味がなかった。

 

ただ、一つだけ、彼の網膜に強烈に焼き付いたものがある。

 

彼女の、あの涙に濡れた顔。

それは、死に対する恐怖ではない。生きることそのものに絶望し、自分自身の存在をこの世界から消し去ってしまいたいと願う者の、ひどく脆く、空っぽの目だった。

 

「……不幸になるとか、呪いとか、よく分かんないや」

 

ツィリルは小さく呟き、弾かれた右手を、ギュッと強く握り込んだ。

 

「でも……あんな顔のまま一人にしたら、絶対ダメだ」

 

ツィリルは机の上に無造作に置かれたままの歴史書を、乱暴に腕に抱え直した。

そして、彼が自身のアイデンティティとして、本来であれば絶対に疎かにしないはずの「本を棚の正しい位置へ完璧に戻す」という大司教からの仕事を完全に無視し、近くの空いているスペースへ強引に本を押し込んだ。

 

誰かのために、己の職務を放棄する。

それは、彼の中の絶対的な優先順位が、生まれて初めてレア以外の何かに向けて書き換えられた瞬間だった。

ツィリルはすぐさま踵を返し、マリアンヌが消えた廊下の奥へと向かって、一直線に駆け出した。

 

***

 

雨は、夜になっても一向に止む気配を見せなかった。

大修道院の地下深く、アビスに続く秘密の通路の奥にある『灰狼の学級』の教室。

 

バンッ! と、乱暴に扉が開け放たれる。

 

「……おいおい、酷い濡れ鼠じゃねぇか。どうしたんだい、ツィリル。そんなに慌てて」

 

教卓に腰掛け、短剣の手入れをしていたユーリスが、目を丸くして顔を上げた。

入り口に立っていたのは、頭の先からブーツの爪先まで完全にずぶ濡れになったツィリルだった。彼の荒い呼吸に合わせて、衣服から雨水がボタボタと床に滴り落ちている。

 

教室の奥では、バルタザールが酒瓶を片手に退屈そうにあくびをし、ハピは机に突っ伏して眠気を堪えている。コンスタンツェだけが、地下の暗闇の中で活力を取り戻し、高飛車な笑いを響かせる準備をしていた。

 

「ユーリスさん。バルタザールさん」

 

ツィリルは自身の顔から滴る雨水を手で拭うこともせず、血を吐くような切実な声で言った。

 

「金鹿の、マリアンヌって女の子が……いなくなった。どこを探してもいない」

「は? 金鹿の生徒が失踪した? そりゃまた穏やかじゃねぇな。だが、それが俺たちと何の関係が……」

「あのままじゃ、あの子、死んじゃうよ」

 

ツィリルの言葉に、ユーリスの短剣を磨く手がピタリと止まった。

 

「あの子の目、パルミラの戦場で死んでいった孤児たちと同じだった。自分が生きてちゃいけないって、本気で思ってる顔だった。……ボクは、あんな顔のまま誰かが死ぬのを、もう見たくない」

 

それは、大司教レアの従者としてではなく、一人の血の通った少年としての、純粋な叫びだった。

ユーリスは小さく息を吐き、教卓からふわりと飛び降りた。

 

「……レア様第一主義のお前が、仕事を放り出してまで他人のために走り回るとはな。大層な惚れ込みようだ」

「惚れてるとか、そういうんじゃない。ただ、放っておけないだけ」

「同じことさ」

 

ユーリスは腰の鞘に短剣を収め、教室の奥で酒をあおっていた巨漢を振り返った。

 

「バルタルザール。酔いは回ってるか?」

「安心しな。ちょうど血が騒いできたところだ。……野外での人探しなんざ、俺たち日陰者の十八番だからな」

 

バルタザールが首の骨を鳴らしながら立ち上がる。

 

「面倒だけど、死人がでたら目覚め悪いし。行きますか」

「オーッホッホッホ! このコンスタンツェ=フォン=ヌーヴェルの輝かしい魔術で、迷える子羊を闇の中から救い出してみせましょう!」

 

ハピが気怠げに立ち上がり、コンスタンツェがマントを翻して高笑いをする。

 

「行くぜ、ツィリル。お前が見込んだ女だ、何としても生きて連れ戻すぞ」

「……うん!」

 

***

 

同時刻。

大修道院から遠く離れた、レスター諸侯同盟領の北端に位置するエドマンド辺境伯領の深い森。

 

マリアンヌ・フォン・エドマンドは、誰にも告げず、単身でその呪われた土地の最奥へと足を踏み入れていた。

夜な夜な『彷徨えし獣』が出没し、人を喰らうという噂が絶えない、狂気と血の匂いが染み付いた黒い森。

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