擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第六章②

帝国暦1180年、花冠の節。

レスター諸侯同盟領の北端に位置するエドマンド辺境伯領、その最奥に広がる名もなき深い森。

 

一寸先も見えないほどの白く濃い霧の中、自重で木々をへし折るような地鳴りと、耳膜を直接引き裂くような異形の咆哮が、夜の闇に幾重にも響き渡っていた。

 

「……ああ……あなたが、“彷徨えし獣”ですね……」

 

泥濘に足を取られ、ドレスの裾をひどく汚したマリアンヌは、大樹の根本に力なくへたり込み、目の前に迫る巨大な影を虚ろな目で見上げていた。

 

『彷徨えし獣』。

通常の魔獣の倍以上はある異常な巨体。全身を覆う漆黒の体毛は泥と血に濡れて固まり、背中からは禍々しい骨の棘が無数に突き出している。そして、その胸元には、赤黒く明滅する巨大な紋章石が埋め込まれていた。

 

『……おぬし、我が紋章を宿すか。ここに何をしに来た?』

 

獣の口から、地を這うような、しかし確かな「人」の言葉が響いた。

マリアンヌは弾かれたように顔を上げる。

 

「我が紋章……? あなた、もしかして……モーリス、様……?」

 

千年前、十傑から堕ち、魔獣と成り果てた自らの先祖。

その生きる姿を目の当たりにし、マリアンヌの瞳から涙が溢れ落ちる。自身の血に流れる呪いが、決して妄想などではなく、今まさに目の前で絶望的な質量を持って立っているのだ。

 

『わ、わしの獣の血が騒ぐ……。こうなっては己では止められぬ……! おぬしの血肉を、喰らうまで……ッ!』

 

モーリスの意志を塗り潰すように、紋章石が激しく明滅する。

獣が苦しげに絶叫のような咆哮を上げ、巨大な顎を開いてマリアンヌへと襲い掛かろうとした、その時。

 

ヒュッ――ドスゥッ!!

 

濃霧を切り裂くような鋭い風切り音と共に、黒鋼の矢が、魔獣の巨大な眼球の隙間へ深々と突き刺さった。

 

「ガアアアアアッ!?」

 

脳を揺らす激痛に、魔獣が咆哮を上げて大きくのけぞる。

マリアンヌが驚いて目を開けると、いつの間に駆けつけたのか、彼女のすぐ目の前の泥濘の中に、小柄な背中が立ち塞がっていた。

 

「……見つけた。勝手にいなくならないでよ。探すの、すっごく大変だったんだからね」

 

ひどく荒い呼吸を繰り返し、肩で息をしながら、素早く二の矢を番えているのは、ツィリルだった。

教団の制服は泥と破れた木の葉でひどく汚れ、頬や手の甲には茨で切った無数の生傷から血が滲んでいる。ここまでどれほど無茶な速度で、視界の悪い夜の森を駆け抜けてきたのかが一目でわかる有様だった。

 

「ツ、ツィリルさん……!? どうして……ダメです、私に近づかないで! 私の側にいたら、あなたまで呪いに……っ!」

「呪いとか、見えないものはボクにはどうでもいい!」

 

ツィリルは振り返り、真っ直ぐにマリアンヌの瞳を射抜いた。

その目は、いつものような無愛想で無関心なものではない。明確な焦りと、強烈な熱を帯びていた。

 

「キミがどんな血を引いてるかとか、そんなのボクには関係ない。でも……キミがこんな暗い森の奥で、バケモノに食べられていなくなるのは……ボク、絶対に嫌だ」

 

ツィリルは弓を強く握りしめ、泥に塗れたマリアンヌへと言葉を叩きつけた。

 

「そんなの、ボクの胸がすごく痛くなる……だから、助けに来たんだ」

 

同情でも、教団の正義でもない。彼の中に芽生えた、ひどく不器用で、純粋で、身勝手な執着。

自分に向けられたその剥き出しの熱と事実に、マリアンヌの凍りついていた心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。

 

『グルルル……おぬしらの気配、血に飢えた魔獣どもが嗅ぎつけたようだぞ……!』

 

モーリスの苦しげな警告と同時に、周囲の濃霧の中から、無数の巨狼たちが涎を垂らしながら姿を現す。

しかし、ツィリルの背後の暗闇から、彼を追って泥だらけになりながら駆けつけた『灰狼の学級』の面々が、次々と武器を構えて足音を踏み鳴らした。

 

「オラァッ!! 俺の拳を味わいなッ!」

 

横合いの茂みから弾丸のように飛び出してきた巨大な影――バルタザールが、モーリスの振り下ろす丸太のような前脚を、自身の両腕の籠手で真正面から受け止めた。

ズドォォン! と、足元の泥濘がクレーターのように陥没し、バルタザールの太い腕の筋肉が限界まで軋んで悲鳴を上げる。

 

「……へっ、さすがに重ぇな! だが、ここで退いちゃあレスターの男の名が廃るぜ!」

「バル兄、無理すんな。……おらよッ!」

 

バルタザールが強引に受け止めた死角から、ユーリスが音もなく滑るように泥の上を駆け抜け、魔獣の関節の隙間へ強烈な雷の魔法を至近距離から叩き込む。

強烈な紫電の痺れに魔獣の動きが鈍った瞬間、上空の枝葉の間から、高飛車な高笑いが降り注いだ。

 

「オーッホッホッホ! ヌーヴェル家の偉大なる魔術、とくと味わいなさいませ!」

「……コニーがうるさい。はぁ、面倒だけどやるし」

 

木の上からコンスタンツェの放つ巨大な火球と、ハピの指先から放たれる収束された闇の波動が、同時に魔獣の背中へと直撃し、分厚い毛皮を豪快に焼き焦がす。

 

「あ、あなたたちは……どうして……」

 

マリアンヌが呆然と呟く。彼らは皆、正規の教団の騎士でもなければ、自分と同じ学級の生徒でもない。ただの『訳ありの集まり』のはずだった。

 

「うふふ、当たり前じゃない。ツィリルくんが必死な顔で『マリアンヌさんがいない』って大雨の中に飛び出していったんだもの。私たちも、放っておけるわけないわ〜」

 

いつの間にかマリアンヌの傍らに膝をついていたメルセデスが、ふんわりと微笑みながら、温かな白魔法の光でマリアンヌの擦りむいた膝と凍える身体を癒していく。

 

「それに……あの獣の匂い、ただの魔獣ではないからな」

 

ゆっくりと歩み出てきたエミールが、手にした巨大な死神の鎌を低く構えた。

彼の金色の瞳孔は、目の前の強大な獲物に対する純粋な殺意だけで、三日月のように細められている。

 

「エミールさん! あいつの右足の動きが鈍い! そこを狙って!」

「……指図をするな」

 

エミールはツィリルの言葉に低く返しつつも、一切の無駄のない踏み込みで泥を蹴り、正確に魔獣の右足の腱を狙って漆黒の刃を一閃させた。

ブシュッ、と黒い血が間欠泉のように噴き出し、巨体が大きくバランスを崩して傾く。

 

「今だ!」

 

ツィリルは再び弓を引き絞るのではなく、それを背中に回し、腰の短剣を抜いて魔獣の懐へと飛び込んだ。

圧倒的な体格差。まともに一撃でも食らえば、小柄な彼の身体など即座に肉塊に変わる。しかし、パルミラの戦場で生き抜いてきたツィリルの動きに、一切の躊躇や恐怖はない。

 

彼は魔獣の振り乱す鋭い爪を紙一重で躱し、バルタザールとユーリスの猛攻によって完全に剥き出しになった胸元の急所――赤黒く脈打つ紋章石の核へと、自身の全重力と加速を乗せて短剣を突き立てた。

 

「落ちろ……ッ!!」

 

ガキィィン!!

という極めて硬質な音と共に、短剣の刃が紋章石の表面に食い込み、致命的なヒビを入れる。

 

『ガ、アアア……ァァ……』

 

魔獣の暴虐な動きが、ピタリと止まった。

そして、その禍々しい瞳から獣の狂気と濁りがすっと消え去り、千年前の『人』としての穏やかな光が宿る。

 

『よ、よくぞやった……これで、千年の悪夢が、ようやく終わる……』

 

崩れ落ちる巨体の口から、安堵に満ちた掠れた声が漏れた。

 

『我が紋章を継ぐ者よ……この体が朽ちたなら、剣は……おぬしに……』

 

ドォォン、と重い地響きを立てて倒れ伏した魔獣の身体が、みるみるうちに光の粒子となって風化していく。

濛々と立ち込める土煙と霧の中。やがてその場には、人の骨と、赤黒く妖しい光を放つ一本の剣だけが残された。

英雄の遺産『ブルトガング』。

 

「……はぁ、はぁ……」

 

ツィリルは額の汗と泥を手の甲で拭い、荒い息を整えながらその剣を拾い上げた。

予想以上の重量。彼はそれを両手でしっかりと抱え直し、未だに大樹の根本に座り込んだまま震えているマリアンヌの元へと歩き寄ると、その剣の柄を彼女の方へと真っ直ぐに差し出した。

 

「これ。あいつが消えた後に残ってたよ。キミのお父さん……先祖の人の、剣でしょ」

「私……の……」

「呪いとかよく分からないけど。これを持っていれば、次にバケモノが出た時、キミ自身で身を守れる。……だから、キミが持っていて」

 

ツィリルは、マリアンヌの泥だらけの冷え切った手を自身の手で包み込み、ゆっくりと、しかし力強くその剣の柄を握らせた。

 

「それに、もう一人で勝手にいなくならないで。ボク、本当に心臓が止まるかと思ったんだからね」

 

ツィリルは、照れ隠しのように少しだけ視線を逸らし、ホッと安堵の息を吐いた。

 

剣の重み。そして何より、彼の手から伝わってくる確かな熱と、その不器用で真っ直ぐな言葉の重みが、マリアンヌの極限まで凍りついていた心を一気に溶かしていく。

 

呪われた血。誰にも必要とされない、消えるべき自分。

そんな自分のために、彼らは泥だらけになって総出で追いかけ、命懸けで強大なバケモノから守り抜いてくれた。

そして彼は、真っ直ぐに目を見て「いなくなるのが絶対に嫌だ」と告げてくれた。

 

「あ……あぁ……っ」

 

マリアンヌの目から、今度こそ大粒の涙がとめどなく溢れ出した。

彼女はブルトガングを強く抱きしめたまま、ツィリルの胸元に縋り付くように顔を埋め、子どものように声を出して泣き崩れた。

泥と涙が混ざり合い、これまで彼女の心の奥深くに縛り付けられていた『呪いへの絶対的な恐怖と孤独』が、ボロボロと音を立てて崩れ去っていく。

 

「メーチェ、この人泣き止まないんですけど……ボク、何か悪いこと言いましたか?」

 

ツィリルが困ったように、背後で控えるメルセデスを見上げて敬語で尋ねる。

 

「うふふ、ツィリルくんは何も悪くないわ。今は、気が済むまで泣かせてあげて〜」

 

メルセデスが優しく微笑みながら歩み寄り、自身の着ていた厚手の外套を脱いで、雨に打たれる二人の背中へ傘のようにふわりとかけた。

 

バルタザールが泥を払い、ユーリスが短剣を収め、ハピが小さく欠伸をする。

コンスタンツェの高笑いすらも吸い込んでいくような、深く静かな夜の森。

 

降りしきる雨の音の中、マリアンヌのしゃくり上げるような泣き声と、彼女の背中を不器用にポンポンと叩くツィリルの小さな手の音だけが、いつまでも温かく響き続けていた。

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