数日間にわたって大修道院を厚く覆っていた雨雲が、ようやくその形を崩し始めた。
雲の裂け目から初夏の眩しい陽光が幾筋も降り注ぎ、ガルグ=マク大修道院の壮麗な玄関ホールを明るく照らし出している。天井近くに嵌め込まれた色鮮やかなステンドグラスを透過した光が、磨き抜かれた大理石の床に幾何学模様の影を落としていた。
エドマンド辺境伯領の深い森での死闘を終えた一行は、美しい玄関ホールに似つかわしくない、ひどく泥に塗れた姿で帰還を果たした。
全員の衣服は濡れた腐葉土と魔獣の赤黒い返り血で汚れ、強烈な鉄の匂いと獣の異臭を放っている。しかし、誰一人欠けることなく歩を進める彼らの足取りは、石畳を力強く踏みしめ、確かな響きを持っていた。
マリアンヌの両手には、教団が支給した厚い麻布で何重にも厳重に巻かれた細長い荷物が、まるで自身の半身であるかのようにしっかりと抱き抱えられている。
「……私、未だに信じられません」
マリアンヌは、隣を歩く小柄な少年――ツィリルに向けて、ぽつりと乾いた唇を動かした。
「あの巨大な獣の体の中から、人の骨と、この剣が出てくるなんて……。多分、あの獣の本当の正体は……」
「……そこまでだ」
不意に、陽光の届かない大理石の太い柱の陰から、ひどく粘り気のある、這いずるような声が響いた。
図書室でマリアンヌを壁際に追い詰め、執拗に問い詰めていたあの壮年の紋章学者だった。彼の濁った両目は、数日前の図書室の時よりもさらに充血し、眼窩の縁までどす黒い狂気で縁取られている。
「君の失踪と時を同じくして、エドマンド領の『彷徨えし獣』が何者かによって討伐されたという報告が入った。……だが、それで君自身が獣ではないという理屈にはならない。そもそも、討伐された巨大な魔獣が、本当に伝承にある彷徨えし獣だったと決まったわけでは……」
学者が忌々しげに言い募りながら、自身の神経質な指先をこすり合わせ、マリアンヌへとじりじりと近づいてくる。
だが、マリアンヌは数日前の図書室の時のように、自身の両腕を抱きしめて震えたり、怯えて顔を背けたりはしなかった。
彼女の顔から、微かに残っていた逃避の色が消える。
マリアンヌは静かに、けれど深く、ホールの冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ。そして、自らの泥に汚れた両手で、胸に抱えていた長剣の分厚い布を、パラリと解いた。
バサッ、というくぐもった音と共に、麻布が床の大理石へと滑り落ちる。
「……なっ!? そ、その剣は……!」
学者の声が、ひっくり返ったように甲高く跳ね上がった。
赤黒く、まるで乾いた血そのもののような妖しい光を放つ片刃の長剣。
骨を思わせる禍々しくも美しい意匠。そして何より、柄の根元に埋め込まれ、脈打つ心臓のように赤黒く明滅する巨大な紋章石。それを見た瞬間、学者の血走った両目が、眼窩からこぼれ落ちんばかりに限界まで見開かれた。
「そ、その紋章石に刻まれているのは……紛れもなく『獣』の……十傑モーリスの紋章! し、しかし、千年前の乱でとうの昔に失われたはずの魔剣を、なぜ……なぜ、討伐されたただの獣が持っている……?」
学者はぶつぶつと上擦った声で呟きながら、自身の頭を両手で抱え込み、よろめくように後ずさった。
「いや、待て……モーリスの伝承によれば、彼は魔獣と成り果てる最後の瞬間まで、己の剣を決して手放さなかったとされている……。つまり……あの暗い森を徘徊していた魔獣こそが……千年もの間、殺戮の衝動に苦しみながら彷徨い続けていた、モーリス本人……!」
学者の顔から、サァッと血の気が引き、青白い土気色へと変わっていく。
彼が執拗にマリアンヌを「夜な夜な獣に姿を変え、人を喰らっている存在」だと疑っていた根拠と前提そのものが、目の前の圧倒的な物的証拠によって、音を立てて根本から粉砕された瞬間だった。
「……おじさん。難しい昔の話は、ボクにはよく分からないけど」
呆然と立ち尽くし、小刻みに震え始めた学者の前に、ツィリルがスッと無音で進み出た。
彼は一切の感情を交えない、氷のように冷たく、ひどく暗い瞳で、落ちくぼんだ学者の目を真っ直ぐに見据えた。
「でも、これで分かったでしょ。この人は、『彷徨えし獣』なんかじゃなかった。全部、おじさんの思い込みだったってことだよね」
「……っ」
「これで、おじさんが探してた答えが出たなら、もう、この人に付き纏う理由はないよね? ……これ以上、この人を泣かせたら、ボクが許さない」
静かで、低く、けれど絶対に揺らぐことのない少年からの宣告。その言葉の底には、有無を言わさぬ純粋な暴力の匂いが潜んでいた。
学者はギリッと強く唇を噛み締め、屈辱と敗北感に顔の筋肉を醜く歪めた後、深く、肺の中の空気をすべて絞り出すように一度だけため息を吐いた。
「……すまない。私が……完全に間違っていた。今日のところは、これで失礼する」
学者は自身の敗北を認め、肩を落とし、ツィリルの刺すような視線から逃げるようにして、大広間から足早に立ち去っていった。その靴音が完全に遠ざかるまで、ホールには静寂が落ちていた。
学者の姿が完全に視界から消えたことを見届けた後。
マリアンヌは深く息を吐き出し、自身の胸元に、英雄の遺産『ブルトガング』を大切に引き寄せた。
「千年以上も、昏い森を彷徨い続け……ずっと、苦しんでいたのですね。……終わらせてあげられて、本当に良かったです」
「そうだね。これで、誰もあそこの森で危ない目に遭わなくて済むよ」
「それに……」
マリアンヌはゆっくりと顔を上げ、自身のすぐ隣に立つツィリルを真っ直ぐに見つめ返した。
「私自身、ずっと手足を縛り付けられていた重い鎖から、ようやく解放されたような気持ちがします。……私に流れている血は、もう恐ろしい獣の血じゃない。ただの、人の血に戻ったのですから」
彼女の青白かった頬を、恐怖や悲しみではない、温かく透き通った涙が一筋だけ伝い落ち、泥の跳ねた首筋へと消えていった。
「ツィリルさん……本当に、ありがとうございました。あなたがいなければ……私一人では、一生自分自身を呪って、この命を嫌い続けていたに違いありません」
「ボクは、弓を撃っただけだよ。でも……キミが笑ってくれて、ボクも嬉しい」
ツィリルが照れ隠しのように自身の後頭部を掻きながら、ふわりと、年相応の少年らしい笑みを浮かべる。
その、一切の嘘や裏表がない純粋な笑顔に向けられ、マリアンヌの心臓が甘く、そしてひどく激しく高鳴った。
***
数時間後。大修道院の最上階、大司教レアの執務室。
香炉から立ち昇る乳香の白い煙が、窓から差し込む西日を受けてゆっくりと揺蕩っている。
「……そう。それが、あなたの出した答えなのですね、マリアンヌ」
玉座に座るレアが、慈愛に満ちた、静かで深い瞳で眼下の少女を見つめる。
新しい修道服に身を包み、泥をすっかり落としたマリアンヌの隣には、金鹿の学級の級長であるクロードが、いつものように飄々と腕を組んで立っていた。
「いやぁ、驚いたのなんのって。数日間も行方不明だったと思ったら、戻ってきた途端に突然『灰狼の学級に編入させてください』って、先生と俺に深く頭を下げてくるんだからさ」
クロードは黄色のマントを揺らして肩をすくめながらも、その口元には微かな、心底面白がるような笑みが浮かんでいた。
「クロードさん……今まで多大なるご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。……私は、私を本当の暗闇の中から連れ出してくれた、あの方たちの側で……これからの日々を生きていきたいのです」
クロードの言葉に、マリアンヌは両手を前で組み、深く頭を下げた。
「謝るなよ。士官学校に入学してきた時や、昨日まで金鹿の学級(うち)にいた時よりも……今の君の方が、ずっと『生きてる』って顔をしてる。先生も俺も、君の背中を押す以外の選択肢はないさ。……なぁ、ツィリル?」
クロードが、執務室の壁際で香炉の灰を布で片付けていたツィリルへと、ニヤリと笑いかけた。
「……ボクに振らないでよ。クロードみたいに、上手いこと言えないんだから」
ツィリルは手元の香炉を拭く手を止めず、少しだけ気まずそうに視線を床へと落とし、ぽつりとこぼした。
「でも……うん。今の顔の方が、ずっといいと思う」
ツィリルは香炉の灰を払い終えると、真っ直ぐにマリアンヌへと視線を向けた。
マリアンヌと目が合うと、彼は小さく、けれど確かな意思を持って頷いた。
「……マリアンヌがボクたちの教室に来てくれるなら、ボク、すごく嬉しいよ」
それは、建前も、政治的な駆け引きも、何一つ混じり気のない、彼自身の純粋な本音だった。
「同じ教室にいれば、キミが夜中に怖い夢を見ても、ボクがすぐに飛んでいって助けられる。……キミのことはボクが守るから、ずっとボクの側にいて」
ドクンッ、と。
マリアンヌの全身の血が、一瞬にして沸き立つような激しい熱を帯びた。
誰かに「側にいてほしい」と真っ直ぐに求められる喜び。自身の存在を、忌まわしい呪いとしてではなく、必要なものとして肯定される圧倒的な救済。
その強烈な熱に当てられ、彼女の青白かった顔が、首筋から耳の先まで、夕焼けのように真っ赤に染まり上がっていく。
「ツィリル、さん……っ。はい……私、あなたのためなら……どんなことでも……っ」
周囲の目も何もかもを忘れ、とろけるような熱い視線を交わし合う二人を見て、クロードはやれやれと大仰に肩をすくめ、玉座のレアは慈愛に満ちた微笑みを深くした。
「よろしい。今日より、マリアンヌ・フォン・エドマンドを、灰狼の学級の生徒として正式に迎え入れましょう」
大司教の静かな承認の声が、香炉の煙の舞う執務室に響き渡った。
かくして、花冠の節の終わり。
己の呪いを完全に断ち切り、自分の足で歩むことを決めた令嬢が、アビスの灰色の教室の扉を、迷いなき手で押し開いたのだった。