帝国暦1180年、青海の節。
マグドレド街道での凄惨な任務を終えたガルグ=マク大修道院は、連日降り続く冷たい雨と、ひどく重苦しい空気にすっぽりと包み込まれていた。
教団に反旗を翻したガスパール城主・ロナート卿の討伐。
それは、大修道院で学ぶ多くの生徒たちにとって、山賊や野盗ではない、明確な意志を持った『人との殺し合い』の初陣であり、これまで疑うことのなかった己の信じる正義が、根底から大きく揺らぐ出来事だった。
大聖堂の裏手。灰色の空から降り注ぐ雨に打たれ続ける、小さな慰霊碑の立ち並ぶ一角。
その最も端にある名もなき墓標の前で、青獅子の学級の生徒であるアッシュは、傘も差さずに泥だらけの地面に一人でひざまずいていた。
「……ロナート様。どうして、こんなことに……」
アッシュの青白い頬を、冷たい雨水に混じって、大粒の涙がとめどなく伝い落ちる。
孤児だった自分を拾い、実の子のように温かく育ててくれた養父。騎士としての誇りと、民を守るための優しさを手取り足取り教えてくれた、誰よりも尊敬する恩人。
その彼が、信じるべき教団に突然弓を引き、そして昨日、討伐軍の手によって無残に命を落とした。彼を討ち取ったのは、他でもない、自分の学級の級長であるディミトリや、共に学んだ級友たちだ。
自分が本当に信じるべきものは、女神と教団だったのか、それとも養父だったのか。
ぐちゃぐちゃに絡み合った感情の整理が全くつかず、アッシュは冷たい泥の中に顔を伏せ、声を殺して咽び泣いた。
「……こんなところでいつまでも泣いてると、風邪ひくぜ。アッシュ」
不意に、頭上から絶え間なく降り注いでいた雨粒が遮られた。
水溜りに落ちる雨音が変わり、アッシュがゆっくりと顔を上げると、アビスの『灰狼の学級』の級長であるユーリスが、黒い傘を差しかけていた。
そしてそのすぐ隣には、彼と同じように地味な色の傘を差したツィリルが、木製の手桶と使い古された雑巾を持って立っている。
「ユーリス、さん……ツィリル……」
「……慰霊碑の掃除に来たんだけど。そんな泥の中に座ってたら風邪ひくよ。それに、そこだとボクも掃除できないし」
ツィリルは、冷たい雨粒からアッシュを庇うように傘を差し掛けたまま、淡々と言った。そこには彼なりの、不器用で真っ直ぐな気遣いが滲んでいる。
アッシュはハッとして、泥だらけの手で目元を乱暴に拭う。慌てて立ち上がろうとしたものの、雨水を吸って鉛のように重くなった衣服と、すっかり冷え切った足のもつれにより、再び泥濘の中に力なく膝をついてしまった。
「ご、ごめんなさい……僕、すぐに退きますから……っ。でも、僕……どうしたらいいか分からなくて……っ」
「……クリストフのことだな」
ユーリスが、傘の柄を握る手に少しだけ力を込め、アッシュの義兄であり、数年前に教団によって暗殺未遂の罪で処刑された男の名前を静かに口にした。
「ロナート卿が勝ち目のない乱を起こしたのは、クリストフの無念を晴らすためだ。……やり切れねぇよな。お前にとっちゃ、教団もロナート卿も、どっちも絶対の恩人だ」
「ユーリスさんは……クリストフ兄さんを知ってるんですか……?」
「ああ。昔、俺が路地裏を這いずり回ってた頃に、少しだけ世話になったことがある。……アビスみたいなドブ泥の底の連中まで気にかける、呆れるほどお人好しな騎士だったよ」
ユーリスの言葉に、アッシュの必死に堪えていた涙腺が再び決壊する。
「ロナート様も、兄さんも……本当に、本当に優しかったんです。でも、二人は教団に逆らって、死んでしまった……。僕がずっと目指していた騎士って、一体何だったのか……っ」
アッシュの絶望に満ちた叫びが、激しい雨音に溶けて、大聖堂の分厚い壁に虚しく吸い込まれていく。
ユーリスは痛ましそうに、紫色の目を伏せた。言葉の慰めなど、今の彼には微塵も届かないと分かっていたからだ。
「……アッシュ」
手桶を地面の泥の上に無造作に置いたツィリルが、アッシュの目の前に音もなくしゃがみ込んだ。
アッシュが涙で霞む視線を向けると、ツィリルは一切の同情も、憐れみもない、ただただ真っ直ぐで暗い瞳で彼を見つめ返していた。
「ロナート様って人が、どうして教団に逆らったのか、ボクは知らない。でも……死んだ人は、キミがここでどれだけ泣いても、絶対に生き返ったりしないよ」
「……っ」
その残酷なまでの事実の突きつけに、アッシュは息を呑んだ。
「教団の敵になったなら、殺されるのは当たり前でしょ。パルミラの戦場でも、アビスでも、殺し合いになれば弱い方が死ぬ。それだけだよ」
「ツィリル……お前、いくらなんでも言い方ってものが……」
ユーリスが苛立ったように傘の縁を上げ、止めに入ろうとするが、ツィリルは全く構わずに、泣き崩れるアッシュの瞳から視線を外さずに言葉を続けた。
「でもさ。キミに色んなことを教えてくれた、その『優しい騎士』の人たちのことは、死なないんじゃないの」
「え……?」
アッシュの喉から、呆然とした掠れ声が漏れる。
「ロナート様って人が死んでも、その人がキミに優しくしてくれたっていう事実は、消えないでしょ。……キミがここでずっと泥の中で泣いて、騎士になるのをやめちゃったら、その人たちがキミにくれた優しさまで、全部無駄になっちゃうよ」
ツィリルはしゃがみ込んだまま、ひどく淡々と事実だけを紡ぐ。
「……それは、すごくもったいないと思う」
ツィリルの言葉には、巧みな慰めも、教義の建前も、騎士道への理解も一切なかった。
ただ、自分がパルミラの孤児から教団の従者として、その日を生き延びるためだけに培ってきた「もらった恩は、自分が生きて返すしかない」という、ひどく泥臭く、不器用な生存の哲学だけがあった。
「もったい、ない……」
「そう。ボクもレア様に拾ってもらった命だから、レア様のために一生懸命、毎日掃除してる。……キミも、その人たちからもらったものがあるなら、いつまでも泣いてないで立ってよ」
ツィリルはそう言うと、懐から取り出した、使い古された自分の手拭いを、アッシュの泥だらけの手にぐいっと強引に押し付けた。
「キミがこんなとこで風邪ひいて死んだら、その人たち、きっともっと悲しむと思うから。……これ貸すから、顔と手、綺麗にしてから帰って」
「ツィリル……」
アッシュは渡された粗末な手拭いを、泥だらけの両手で強く握りしめた。
雨で冷たくなっていたはずの手拭いが、ツィリルの体温で微かに温かい。その小さな、けれど確かな温もりが、絶望で完全に冷え切っていたアッシュの心臓に、細く、しかし絶対に切れない『現実への楔』として深く打ち込まれた。
自分がここで泣いて立ち止まれば、養父や義兄の教えまで、この泥の中で一緒に死んでしまう。
彼らが遺してくれた優しさと信念を証明できるのは、今、こうして彼らの恩を受けて生きている自分だけなのだ。
「……ありがとう、ツィリル。僕……もったいないこと、するところだった」
アッシュは渡された手拭いで、自身の泥だらけの顔を力強く拭った。
まだ両目は真っ赤に腫れ上がっているものの、彼は濡れた地面を蹴り、しっかりと自分の足で立ち上がった。
彼の中の、教団と養父との間で引き裂かれた迷いが、完全に消え去ったわけではない。
しかし、その翡翠色の瞳の奥には、再び己の足で歩き出そうとする、確かな意思の光が灯っていた。
「どういたしまして。……じゃあ、ボクはここの掃除があるから。ユーリス、手伝ってよ」
「へいへい。お前は本当に、相変わらず空気を読まねぇで他人の一番痛い核心を突く野郎だぜ」
ユーリスが苦笑しながら、泥の上に置かれた手桶を拾い上げる。
アッシュは、傘を肩に乗せ、すぐさま持ってきた雑巾で慰霊碑の泥を無心に拭き始めるツィリルの小さな背中へ向けて、深く、静かに頭を下げた。
雨音だけが響く大聖堂の裏手。アッシュは手拭いを強く握りしめたまま、確かな足取りで、自身が帰るべき青獅子の教室へと歩き出した。