帝国暦1180年、青海の節の半ば。
ガルグ=マク大修道院の敷地内にそびえ立つ、巨大なガラス張りの温室。その透明な天井からは、目が眩むような鋭く強い真夏の日差しが、逃げ場のない室内へと容赦なく降り注いでいた。
むせ返るような濃い緑の匂いと、水をたっぷりと吸った腐葉土の湿気。
呼吸をするだけで肺にまとわりつくような熱気が立ち込める通路を、小柄な少年――ツィリルが、自身の体重とさして変わらないであろう分厚い麻袋を右肩に担ぎ、額に汗を滲ませながら黙々と歩みを進めている。
「……はぁ、あぁっ。わたくしのような路傍の石ころ以下の羽虫は、このような燦々と輝く太陽の下を歩く資格など、万に一つもございません……。どうか、どうかこのままツィリルさんの足元に張り付く泥の染みとして、誰にも踏まれず一生を終えさせてくださいませ……」
ズリッ、ズリッ、と。
肥料の麻袋を担いで歩くツィリルの背中の真後ろ。彼が落とす僅かな『影』のスペースにすっぽりと身を収めるように這いつくばりながら、コンスタンツェがこの世の終わりのような掠れた声でひたすらに呟き続けている。
強烈な直射日光を浴びたことで、彼女の精神は極端な卑屈状態へと完全に反転していた。
「コニー。泥の染みになったら一緒に歩けないじゃん。それに、ボクの服の裾をあんまり引っ張られると転んじゃうから、気をつけてよ」
ツィリルは肩の重い麻袋を担ぎ直し、振り返って少しだけ困ったように眉を下げた。
だが、邪魔だと言って彼女の青白い手を振り払うことはせず、コンスタンツェの身体が日向に晒されないよう、彼女の這いずる速度に合わせて極端に歩幅を殺して進んでいた。
温室の最奥。
色とりどりの南国の花がむせ返るような香りを放ち、大人の背丈を優に超える巨大な観葉植物が壁のように立ち並ぶ、死角となった木陰のベンチに差し掛かった時。
「……あ」
ツィリルは、ふと足を止めた。
そこには、金鹿の学級の生徒である小柄な少女、リシテアがいた。
彼女の膝の上には、食堂からこっそりと持ち出したであろう、真っ白なクリームと鮮やかな赤い果物がたっぷりと乗った、ホールのままの巨大なケーキが置かれている。彼女は自分の顔ほどもある大きさのケーキを前に、大きな銀色のフォークを両手で強く握りしめ、目をキラキラと輝かせながら、まさに至福の表情で最初の一口を口へ運ぼうとしていたところだった。
「ひゃあっ!?」
ツィリルと、その後ろで這いつくばるコンスタンツェとバッチリ目が合った瞬間。
リシテアは短い悲鳴を上げて弾かれたようにベンチから飛び上がり、顔を耳の先まで真っ赤に茹で上げて、慌てて背後にケーキの皿を隠そうとした。
「ち、違いますっ! こ、これは決して、私が子供だから甘いものに目がないとか、そういうことではなくてですね! 紋章学の極めて複雑な理論を構築するためには、脳に莫大な糖分を緊急に補給する必要不可欠な事態であり……ッ!」
「別に何も聞いてないけど。……でも、美味しそうなケーキだね」
リシテアの早口で必死な言い訳を、ツィリルは全く意に介さず、肩の麻袋をドサリと石畳の上に下ろして短く息をついた。
「……あぁ、なんと羨ましい……」
ふと、ツィリルの背後の影から、コンスタンツェのひどく沈み込んだ声が響いた。
彼女はツィリルの足元から顔だけのぞかせ、リシテアの背後に隠されたケーキを幽鬼のような虚ろな目で見つめながら、自嘲気味に深い息を吐く。
「そのような甘く蕩けるような幸福……わたくしのような日陰者には、一生縁のない光ですわ。……それにしても、気をつけることですわよ。そのままでは、あなたの命など儚い影のように、短く燃え尽きてしまうでしょう……。わたくしの無価値な命と、同じように……」
コンスタンツェにとっては、ただ目の前の巨大なケーキを指して「そのまま甘いものばかりを偏食していては」という一般的な健康への忠告を、日陰特有の陰気な言い回しで述べただけだった。
だが。
ガチャンッ!
鋭い金属音が、温室の湿った空気を切り裂いた。
リシテアの手から大きな銀色のフォークが滑り落ち、硬い石畳を甲高く叩いたのだ。
「え……?」
リシテアの顔から、一瞬にしてすべての血の気が引いていく。
林檎のように真っ赤だった頬は蝋人形のように白く染まり、彼女の瞳孔が限界まで見開かれた。
『命が短く燃え尽きる』。
その何気ない言葉の羅列は、彼女の心の最も深い暗闇に封印されていた最大のトラウマ――忌まわしき血の実験によって二つの紋章を宿された代償として、自らの寿命が極端に短いという絶対的な恐怖を、あまりにも残酷に、そして無遠慮に抉り出していた。
「な、なんで……なんで、そのことを……?」
「リシテア……?」
尋常ではない彼女の様子に、ツィリルが怪訝そうに首を傾げる。
リシテアの華奢な身体がガタガタと激しく震え始め、恐怖と、それを覆い隠そうとする激しい怒りが入り混じったような目で、コンスタンツェとツィリルを鋭く睨みつけた。
「どこで知ったんですか……っ! 私が……もう長くは生きられないってこと! 私が、短い命だからって……子供扱いして、哀れみに来たんですか……っ!?」
「えっ? い、いえ、わたくしはただ、そのままお菓子ばかり召し上がっていては……」
「嘘です! やっぱり、知ってるんでしょう!? 私が……私には、もう時間がないってこと……っ!」
リシテアの目から、堰を切ったように大粒の涙がボロボロと溢れ出した。
誰にも知られたくなかった。
必死に大人ぶって、天才として振る舞って、残されたわずかな時間で両親を安心させるための結果を残そうと、睡眠時間すら削って焦り続けていたのに。
自分の短い寿命を、見下され、こんな風に憐れまれることが、彼女にとって何よりも恐ろしかった。
「……わ、私は……っ」
恐怖と過呼吸で視界が歪み、リシテアの膝から力が抜けそうになった、その時。
「リシテア」
ツィリルが、崩れ落ちそうになるリシテアの目の前にスッと無音で歩み寄り、彼女の震える両肩を、土で汚れた両手でしっかりと、力強く掴んだ。
「え……」
「どこで知ったって……コニーもボクも、キミの寿命のことなんて何も知らないよ。あの人は、日向にいるとああやって自分のことまで悪く言うだけだから。……誰も、キミのことなんか哀れんでない」
ツィリルの暗い瞳は、決して嘘を吐いているようには見えなかった。
ただ真っ直ぐに、目の前で泣き叫んでいる彼女という事実を心配する、純粋な少年の思いだけがそこにあった。
「で、でも……私は……っ」
「キミの寿命が短いって、本当なの?」
ツィリルの真っ直ぐな問いに、リシテアはビクッと肩を震わせ、力なく俯いて小さく頷いた。
「……はい。私、長くは生きられないんです。だから、早く大人になって、立派になって……両親を安心させなきゃいけないのに……っ」
ぽろぽろと涙をこぼし、自身の無力さに震えるリシテア。
すると、ツィリルは彼女の肩から手を離し、今度は彼女の小さく震える両手を、自身の土で汚れた手でギュッと包み込んだ。
「……あったかいね」
「えっ……?」
「手、あったかいし、脈もちゃんと動いてる。ボクが戦場やアビスで見てきた死にそうな人は、もっと氷みたいに冷たくて、こんな風に大声で怒ったり泣いたりできなかったよ」
ツィリルは、少しだけ頬を赤く染めながらも、絶対に視線を逸らさずにリシテアの潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ボクには、紋章とか寿命とか、難しいことは分からない。でも……キミが早く死んじゃうなんて、ボクは絶対に嫌だ。そんなの、悲しすぎるから」
「ツィリル……くん……」
「だから。もし、キミの寿命を短くしてる悪いやつがいるなら、ボクがそいつをぶっ飛ばす。病気なら、レア様やメーチェに頼み込んで、絶対に治してもらう」
ツィリルは、彼女の白い手を握る力をさらに強めた。
その、弓の弦でタコができた不器用でごつごつとした手から伝わってくる圧倒的な熱が、リシテアの血液ごと凍りついていた恐怖を、芯からじわじわと融解させていく。
「キミの髪の毛が、真っ白のお婆さんになるまで。ボクがずっと側にいて、絶対に死なせないように守るから」
「おばあ、さん……」
「だから。そんな風に泣きながら、無理して急いで大人になろうとしなくていいよ。……ほら、ケーキ、ぬるくなっちゃうよ」
ツィリルは最後に、握っていた手をそっと離し、ふわりと年相応の優しい笑みを浮かべた。
リシテアの頭の中で、幼い頃から常にギリギリに張り詰めていた狂おしい糸が、プツン、と音を立てて切れた。
お婆さんになるまで、側にいる。
それは、明日をも知れぬ命の砂時計に怯え続けていた彼女にとって、何よりも欲しかった、けれど絶対に手に入らないと諦めていた『未来への確約』だった。
見えない呪いも、血の代償も。そのすべてを腕力と気合でねじ伏せてでも自分を生かすと、この少年は一切の嘘偽りなく、真っ直ぐに宣言してくれたのだ。
「あ……ぅ……っ」
リシテアの顔が、首筋から耳の先まで、火が出そうなほど真っ赤に染まり上がる。
絶望の涙は完全に止まり、代わりに、今まで生きてきて一度も感じたことのない強烈な胸の高鳴りが、彼女の小さな身体の隅々までを支配していた。
「ツ、ツィリルくんの……ばか……っ。あんなこと、いきなり言うなんて……っ」
「ボク、何か変なこと言った?」
「変です! 変ですけど……っ、その……ありがとう、ございます……っ。お婆さんになるまでって……絶対、約束、ですからね……っ!」
リシテアは真っ赤に茹で上がった顔のまま、ツィリルの土のついた手を両手でギュッと握り返し、そのまま彼の胸元にポスッと額を押し付けた。
「……あ。うん。約束だよ」
ツィリルは少し照れくさそうに視線を泳がせながら、空いた手で、リシテアの真っ白な髪をひどく不器用に撫でた。
「……まぁ、ツィリルさん。いつの間にか、また新たなご令嬢を籠絡なさって……。わたくしも、ツィリルさんにそのように優しく撫でていただきたいですわ……」
背後の影の中から、コンスタンツェが羨ましそうに自分の衣服の袖を噛んで恨み言を漏らしていることなど、今の二人の耳には全く入っていなかった。
むせ返るような温室の熱気の中、甘いケーキの匂いと共に、ただ確かな体温の交換だけが、静かに続いていた。