帝国暦1180年、青海の節の終わり。
ガルグ=マク大修道院の一角に広がる広大な修練場は、真夏の焼け付くような日差しと、むせ返るような土煙、そして異常な熱を帯びた男たちの雄叫びに完全に支配されていた。
事の発端は、数時間前。
黒鷲の学級を受け持つ新任の教師・ベレトがあまりにも多くの女子生徒から慕われていること(と、それに伴う女生徒たちの浮き足立った空気)に対し、行き場のない鬱屈とした思春期の嫉妬を爆発させた一部の男子生徒たちが、「伝統ある風紀遵守のための武闘大会」といういかにもらしい名目で、彼に決闘を申し込んだことだった。
当初は木剣を使った健全な打ち合いになるはずだった。
しかし、その「武闘大会」という血の匂いのする響きを、たまたま通りかかったある男が聞き逃すはずがなかった。
「風紀だか何だか知らねぇが、野郎同士で白黒つけるってんなら、小賢しい武器なんざ捨てて拳で語り合おうぜッ!!」
灰狼の学級が誇る『格闘王』、バルタザールの乱入である。
彼は大会のルールを強引に「武器持ち込み禁止・魔法禁止・最後まで立っていた奴が勝ちの無差別大乱闘」へと書き換え、自身の分厚い上着を脱ぎ捨てると、次々と他学級の男子生徒たちを修練場のど真ん中へと放り投げ始めた。
「うおおおおッ! 拳だけの大乱闘なんて最高じゃないか! オデの筋肉が疼いてるぞォ!」
その狂乱の匂いを嗅ぎつけた金鹿の学級のラファエルが、上半身の制服のボタンを物理的に弾け飛ばしながら、満面の笑みと巨大な筋肉の塊を揺らして乱入する。
「ええい、私はフェルディナント=フォン=エーギル! 武器がなくとも、貴族の矜持と優雅さは決して失わんッ!」
「お、おい、やめないかお前たち! 理由なき喧嘩は……うわっ!? あ、ああ……すまない、つい反射で投げ飛ばしてしまった……!」
制服を泥だらけにしながら応戦を余儀なくされるフェルディナントや、仲裁に入ろうとした結果、自身の持つ異常な怪力で無自覚に生徒を数メートル先まで放り投げてしまうディミトリなど、他学級の級長や生徒たちも、次々とそのカオスの渦の中心へと巻き込まれていく。
さらに。
「はははははっ! 面白い! 剣を使わない喧嘩なんて久しぶりだね! 生徒だろうが騎士だろうが、全員まとめてかかってきな!」
「……拳で人を殴る感覚。悪くない。……ふふ、次だ」
騒ぎを聞きつけてやってきた騎士カトリーヌが、豪快な笑い声を上げながら男子生徒たちを次々と太い腕のラリアットでなぎ倒し、教師であるエミール(イエリッツァ)に至っては、死神のような暗い殺気のオーラを放ちながら、無表情で的確に相手の関節や急所を突く恐るべき軍隊体術を披露し始めていた。
修練場は、もはや風紀どころではない。
ただ純粋な筋肉と暴力、そして汗の飛沫が交差する、むせ返るような乱闘空間と化していた。
「……あーあ。またバルタザールさんが服破いてる。……後で繕うの、ボクなんだけど」
その修練場の端、砂埃の届かない壁際。
洗い立ての白いタオルが山積みになった木籠を抱えながら、ツィリルはひどく呆れたような、心底面倒くさそうな深い溜め息を吐いた。
彼は当然のように乱闘には一切参加せず、ただ「怪我人が出た時用のタオル運びと修練場の清掃」という大司教から与えられた自分の仕事を、淡々とこなそうとしていた。
ボクには関係ない。怪我人が出たらタオルを渡すだけ。
そう思って木籠を地面に置いた、その時。
ツィリルのすぐ横の木箱に、ラファエルに殴り飛ばされた見知らぬ男子生徒が、ドシャァッ! と激しい音を立てて突っ込んだ。
「うわっ……!」
ツィリルが驚いて一歩後ずさった瞬間、視界の端から、太い丸太のような巨大な腕がぬっと伸びてきた。
「おいツィリル! お前も灰色学級の男なら、こんなところで縮こまってねぇで混ざりな! ほらよッ!」
「えっ、ちょ、バルタザール! 離してよ、ボクは仕事中……うわぁっ!?」
バルタザールがツィリルの襟首を片手でヒョイと掴むと、そのまま自身の腕力を活かし、乱闘のど真ん中、砂埃の舞う宙空へと彼を放り投げた。
「オラァッ! ツィリルも勝負だッ!」
ツィリルが空中で体勢を立て直し、着地したその瞬間。
目の前から、戦意を剥き出しにしたカスパルの無慈悲な拳が、顔面目掛けて一直線に飛んでくる。
「……っ!」
ツィリルは身を屈め、パルミラの過酷な戦場で培ってきた純粋な生存本能だけで、その一撃を紙一重で躱した。
彼の体術は、騎士の礼儀でも喧嘩の作法でもない。生きるか死ぬかの実践の泥水の中で研ぎ澄まされた、ただ生き延びるためのものだ。
ツィリルは参加者たちの隙を縫うように低いステップを踏み、背後から飛んでくる別の生徒の蹴りや、カトリーヌの豪快な裏拳を、最小限の動きと体重移動だけでスルスルと避けていく。
(……何やってんの、この人たち。遊びで殴り合うなんて、ほんとバカみたい)
ツィリルは、飛んできた大柄な生徒の突進の勢いをそのまま利用して投げ飛ばしながら、砂埃の中で冷静に周囲を見渡した。
殴り合いを楽しむような、男のプライドや意地は彼にはない。
あんな硬そうな筋肉の塊に自分の拳をぶつければ、痛いのは自分の方だ。突き指でもして怪我をすれば、明日からの修道院の掃除にも、弓の訓練にも支障が出る。
何より、彼は今朝も夜明け前から起きて大広間のモップがけをしており、身体の芯には重い疲労が溜まっていた。こんな無意味な乱闘で体力を使うのは、ただただひどく億劫だった。
「油断大敵だぞォッ!」
「へっ! いい拳持ってんじゃねぇかラファエル! だが、俺の筋肉の方が上だッ!」
ズドォォォォンッ!!
砂埃の中心。ラファエルとバルタザールの、互いの渾身の右ストレートが、一切の防御を捨てて真正面から激突した。
その凄まじい筋肉と質量の衝突から生じた強烈な衝撃波が、爆発のように砂埃を巻き上げて修練場の周囲へと吹き荒れる。
「うわっ……!?」
ツィリルは、その衝撃波の余波と巻き上げられた風をモロに受け、小柄な身体をふわりと宙に浮かされた。
そしてそのまま、衝撃に弾き飛ばされるようにして、修練場の隅にうず高く積まれていた、ペガサス用の新しい干し草の山の中へと、頭から真っ逆さまに突っ込んだ。
ドサッ、と。
音を立てて大量の干し草が崩れ、ツィリルの身体をすっぽりと覆い隠す。
「……あ。ツィリルが飛んでったぞ」
「悪い悪い! 後で食堂で肉でも奢ってやるから許せ! さぁ、続きだァッ!」
干し草の山に一瞥をくれただけで、バルタザールたちは豪快に笑い合い、再び汗の飛び散る乱闘の中心へと戻っていく。
干し草の山に深く埋もれたツィリルは、少しだけ痛む頭をさすりながら、ゆっくりと目を開けた。
幸い怪我はない。起き上がろうと思えば、すぐにでも立ち上がって砂埃を払うことができる。
だが。
「……ここ、ふかふかしてて気持ちいい……」
ツィリルは起き上がるのをやめ、そのまま仰向けになり、太陽の光をたっぷり吸い込んだ干し草の心地よい匂いを嗅ぎながら、ゆっくりとまぶたを閉じた。
(……今戻ったら、またカトリーヌさんとかに投げ飛ばされる。それに、汗臭いし、うるさいし。……タオルの補充は終わってるから、ここで少し休んでても、レア様は怒らないよね)
外からは、フェルディナントの悲鳴や、バルタザールとラファエルが互いの筋肉の仕上がりを大声で讃え合い、意気投合する暑苦しい声が絶え間なく聞こえてくる。
ツィリルは干し草の中に自身の身体を深く沈め込むと、小さく欠伸をしながら、両手で耳を塞いだ。
(……男の人の筋肉の話とか、どうでもいい。……あ、でも、この後コニーにおやつの差し入れ、持っていかないと……)
まぶたの裏に広がる微睡みの中で、ツィリルの意識は、急速に暖かな干し草の海の中へと沈み込んでいく。
カオスと化した風紀遵守の武闘大会は、誰一人立っていられなくなる夕暮れ時まで延々と続いた。
ツィリルは誰にも邪魔されることなく、高い窓から差し込む西日が干し草の山を黄金色に染め上げるまで、そのふかふかのベッドの中で、静かで穏やかな午睡の時間を過ごすのだった。