擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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プロローグ③

重厚な白亜の扉が、軋み一つ立てずに両開きに開かれた。

ステンドグラスから差し込む七色の光が、磨き上げられた大理石の床を冷たく彩っている。

 

「大司教様。お連れいたしました」

 

セテスの低く厳格な声に背を押され、メルセデスとエミールは、広大な『大司教の間』へと足を踏み入れた。

治療院で泥と血を落とし、教団の清潔な衣服を与えられたものの、エミールの小さな体にはまだ痛々しい真っ白な包帯が幾重にも巻かれている。

 

二人の視線の先。

光の渦の中心に、その女は立っていた。

 

セイロス教団大司教、レア。

 

彼女が振り返り、薄緑色の瞳が姉弟を捉えた瞬間。

エミールの全身の産毛が、粟立つように逆立った。

 

(――ッ!?)

 

エミールの奥底で、つい数日前に血の味を覚え、暴れ回ろうとしていた『黒い泥(死神)』が、突如として悲鳴を上げて最深部へと縮み上がったのだ。

 

殺気ではない。敵意でもない。

 

ただ、むせ返るような白檀と百合の甘い香りと共に放たれる、底無しの熱量。人間という器に収まりきっていない、途方もない重力の塊が、ただそこに存在しているだけで、エミールの細胞に『絶対に逆らえない捕食者』であることを刻み込んでくる。

 

メルセデスもまた、その圧倒的な引力に膝の力が抜けかけ、思わず息を呑んだ。

 

「……よくぞ、生き延びてこのガルグ=マクへ辿り着きましたね。可哀想な迷い子たち」

 

静寂の空間に、絹を撫でるような声音が響いた。

レアはゆっくりとした足取りで階段を下り、緊張で凍りついているメルセデスの眼前で立ち止まった。

純白の美しい手が伸び、メルセデスの頬をそっと包み込む。

 

「あっ……」

 

メルセデスの口から、熱い吐息が漏れた。

触れられた指先から伝わってくるのは、異常なほどの熱だった。ただの体温ではない。魂そのものを物理的に撫でられているような、抗いようのない慈愛の質量。

 

「あなたに宿るその光……ラミーヌの血ですね。その稀有な力のゆえに、卑しい欲望の毒牙に晒されてきたのでしょう」

 

レアの親指が、メルセデスの目尻に浮かんだ涙を優しく拭う。

 

「もう、怯える必要はありませんよ。女神の懐たるこの地は、決してあなたたちを悪意には触れさせない」

「レア様……私、たちは……っ」

 

メルセデスは堪えきれず、その温かな手に縋り付くようにして大粒の涙をこぼした。

 

レアは静かに微笑むと、今度はその隣で、小さな獣のように身を固くしている八歳の少年――エミールへと視線を移した。

 

「傷だらけになりながら、家族を守り抜いた気高き少年」

 

レアはエミールの前で静かに膝をつき、彼と視線を合わせた。

 

「……ですが、あなたの心の奥底には、その幼さに似合わぬ……ひどく冷たく、暗い影が巣食っているのを感じます」

 

「っ……!」

 

エミールは後ずさりそうになる足を、必死に床に縫い付けた。

見透かされている。自分の中にある、人を肉片に変える歓喜の衝動を。

 

レアの白い手が、エミールの胸元――心臓の位置にそっと触れた。

衣服と分厚い包帯越しであるにも関わらず、心臓を直接握られたかのような、火傷しそうなほどの熱がエミールの胸郭を貫いた。

 

「俺は……」

 

エミールの小さな口から、かすれ、震える声が漏れた。

 

「姉さんと母様を、ここに置いてくれるなら……俺が、何でも殺すから……っ」

 

それは、生きるために怪物に成り果てようとする、傷ついた子供の悲痛な叫びだった。

 

「俺を使って……! 邪魔な奴は、俺が全部、肉の塊にするから……だから、姉さんたちを……ッ」

「愚かなことを言ってはいけません」

 

ピシャリと。

レアの静かだが、絶対的な響きを持った声が、少年の悲鳴を遮った。

 

彼女はエミールの小さな肩を両手で引き寄せ、その豊かな胸の奥深くに、少年の頭を強く抱きしめた。

 

「あっ……」

 

エミールの顔が、レアの衣服に沈み込む。

むせ返るような白檀の香りと、息が詰まるほどの巨大な母性の質量。エミールの内側で暴れようとしていた死神の衝動が、その絶対的な『光』の密閉空間の中で、完全に動きを封じられた。

 

「命を、自身の魂を粗末に扱う者を、女神ソティスは愛しません。……あなたはその暗闇を自ら繋ぎ止め、正しき光の下で剣を振るう騎士となるのです」

 

レアはエミールの背中を、赤子をあやすように優しく撫でた。

 

「バルテルス男爵には、私から直接書状を送りましょう。これより先、あなた方三人に指一本でも触れることは、このセイロス教団……ひいては女神に対する『明確な反逆行為』と見なすと」

 

セテスが背後で静かに頷いた。

それは、帝国の有力貴族に対する事実上の最後通牒。一介の貴族が、フォドラ全土の信仰を束ねる絶対権力に逆らえるはずがない。

血眼になって追跡していた義父の呪縛が、この言葉一つで完全に粉砕された瞬間だった。

 

「レア様……! ああ、女神様……!」

 

メルセデスは大理石の床に膝をつき、震える両手を組んで深く祈りを捧げた。

エミールもまた、レアの腕の中から解放されると、初めて他者に対して心からの畏怖と忠誠を刻み込むように、深く、深く頭を垂れた。

 

「メルセデス。あなたのその豊かな慈愛の心は、いずれ多くの者を救うでしょう。王都フェルディアに、優れた魔道学院があります。あなたがもう少し成長したら、私が推薦状を書きましょう。そこで学び、いずれ……このガルグ=マクへ戻っていらっしゃい」

 

 

レアのその決定が、後に魔道学院において、没落し孤独に沈む貴族の令嬢(コンスタンツェ)との数奇な因縁を結ばせることになる。 そして、教団の庇護下に入ったエミールには、自身の中の「死神」を制御し、真の力へと昇華させるための、騎士としての苛烈な日々が待ち受けていた。

 

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