帝国暦1180年、青海の節の終わり頃。
激しい西日が差し込む、夕暮れ時の大修道院の修練場。
カァンッ! カンッ!
シュッ、という空気を裂く鋭い風切り音に続いて、小気味良い、しかし確かな重量を持った金属音が、人のまばらな修練場に幾重にも響き渡っていた。
青獅子の学級の生徒、イングリット=ブランドル=ガラテアが、一人で槍の型稽古を行っている音だった。
汗で顔に張り付く金糸のような前髪を気にする素振りも見せず、彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、ファーガス神聖王国の騎士が重んじる伝統的で洗練された構えから、鋭く淀みない刺突を正確に繰り返している。
その横顔には、余裕がなかった。
貧しいガラテア伯爵家を救うため、紋章を持つ自分が政略結婚を受け入れるべきだという重圧。それでも騎士になりたいという切実な夢。そして何より、ダスカーの悲劇で命を落としたかつての婚約者――高潔なる騎士グレンの背中へ追いつかねばならないという狂信的なまでの焦りが、彼女の槍筋をより鋭く、同時にひどく硬直したものにしていた。
「……ふぅっ」
百回目の刺突を終え、イングリットが額の汗を手の甲で拭って構えを解いた時。
修練場の隅で、折れた木剣の破片や、的から外れてひしゃげた矢尻などを黙々と麻袋に集めていたツィリルと、ふと目が合った。
「ツィリル。あなたも槍に興味があるのですか?」
イングリットは、彼が麻袋を持ったまま自分の稽古の様子をジッと見ていたことに気づき、乱れた呼吸を整えながら、生真面目な笑みを浮かべて声をかけた。
「あなたの弓の腕前は素晴らしいと、シャミアさんたちからも聞いています。ですが、実際の戦場では敵に接近され、乱戦になることもあるはずです。良ければ、私が王国の由緒正しき槍の型を教えましょうか?」
年上の女生徒としての、そして騎士を志す者としての、一切の裏表がない真っ直ぐな善意。
だが、ツィリルは拾い集めていた木くずを無造作に麻袋に押し込みながら、一切の遠慮も、申し訳なさそうな素振りも見せずに、首を横に振った。
「いらないよ。イングリットの今の動き、隙だらけで無駄がいっぱいあったから」
「……なっ!?」
イングリットの温かな笑顔が、ピシリと音を立てて固まった。
「む、無駄が多いですって!? 私はファーガスで何年もこの型を……誇り高き騎士の戦い方を、血の滲むような思いで修めてきたんです。戦場を駆け抜けた立派な騎士たちが遺した美しい剣筋の、いったい何が無駄だというのですか!」
彼女にとって「王国の騎士の戦い方」を否定されることは、亡きグレンの人生そのものを否定されるに等しい。
イングリットは翡翠色の柳眉を限界まで吊り上げ、手に持った重い訓練用の槍を握り直し、ツィリルに向かってツカツカと土埃を立てて歩み寄った。
「そこまで言うなら、あなたの戦い方を見せてみなさい! 私の型のどこに隙があるというんです!」
イングリットが刃の潰れた槍を、ツィリルに向けて真っ直ぐに構える。
ツィリルはひどく面倒くさそうに大きくため息をつくと、足元に落ちていた、刃こぼれだらけの短い木剣を片手で拾い上げた。
「……じゃあ、ボクを突いてみて」
「言いましたね? 素人だからといって手加減はしません。怪我をしても恨まないでください!」
イングリットが鋭く踏み込み、腰の回転を乗せた重い刺突を放つ。
木製の槍とはいえ、まともに受ければ骨が砕けるほどの一撃。その軌道はファーガスの教本通り、寸分の狂いもなく完璧で、美しかった。
だが。
ツィリルはその圧倒的な質量を持った穂先を、武器で受け流すことすらしなかった。
彼は自身の木剣を一切振るうことなく、無防備なほど深く、地面すれすれまで自身の重心を沈め込んだ。
「え……っ!?」
完璧な刺突を放ったイングリットの視界から、小柄な少年の姿が一瞬にしてブレて消えた。
彼女の槍の穂先は、空気を虚しく切り裂いただけだった。
「ほら、足元がお留守になってるよ」
イングリットが足元に冷たい気配を感じて視線を落とした時には、すべてが遅かった。
ツィリルは深く沈み込んだ体勢から、イングリットの踏み込んだ前足の膝裏の関節を、自身の足と体重を使って容赦なく刈り払っていた。
「きゃあっ!?」
急所を突かれ、完全に体勢を崩したイングリットは、受け身を取る暇すらなく、修練場の土埃の中へと背中から無様に倒れ込んだ。
ドサッ、と重い音が響き、整えられた制服と金髪が土に塗れる。
肺の空気を吐き出し、むせながら彼女が顔を上げると、ツィリルの持つ短い木剣の先が、彼女の白く無防備な喉元に、ピタリと数ミリの隙間もなく突きつけられていた。
「……ボクが短剣を持ってたら、今のでイングリットは死んでるよ」
逆光の中で見下ろすツィリルの暗い瞳は、どこまでも平坦だった。
「っ……卑怯です! 真正面から打ち合わずに足元をすくうなんて……そんな戦い方、騎士として……っ!」
イングリットは土埃に塗れた顔を歪め、ひび割れた声で叫んだ。
「綺麗に正面から打ち合うのが騎士なの? じゃあ、それでさっきみたいにイングリットが死んだら、誰がイングリットの周りの人を守るの」
「え……」
ツィリルの問いかけに、イングリットの喉がヒュッと鳴って硬直した。
「綺麗な構えとか、騎士の誇りとか……そんなものじゃ、誰も守れないよ。戦いになったら、生き残った方が勝ちなんだから」
「それは……ですが、騎士たるもの、主君や民のために誇り高く戦って散ることも……っ」
「イングリット」
ツィリルは、喉元に突きつけていた木剣を後ろへと無造作に放り捨てた。
そして、泥だらけのまま座り込んでいるイングリットの目の前にしゃがみ込み、ひどく真剣な顔で、彼女の翡翠色の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「騎士の誇りとか、そういう難しいことはボクにはわかんない。……でも、誇りを守るために綺麗に戦って死んだら、イングリットの周りの人は悲しむでしょ」
ツィリルは、土に汚れたイングリットの右手をしっかりと握りしめた。
彼女の手首を掴むツィリルの手は、弓の弦で分厚くひび割れたタコができ、ひどく熱かった。
「ボクだって……イングリットが怪我したり死んだりするのは、絶対に嫌だ。……死んだら、大好きな食堂の美味しいお肉だって、もう二度と食べられないんだから」
「え……っ」
イングリットの肩が、微かに跳ねた。
騎士の誇りという高尚な次元の議論から、突然「食堂の肉」というあまりにも俗っぽく、しかし彼女にとって極めて切実な事実を叩きつけられ、思考が完全に停止する。
「生き残るためなら、泥水だってすするし、敵の足だってすくうよ。パルミラの戦場じゃ、そうしないと死ぬからね。……だから、イングリットも、誇りとか見栄とかで、簡単に死なないで。生きるために泥臭くなるのは、全然恥ずかしいことじゃないよ」
ドクンッ、と。
イングリットの胸の奥で、何かが大きく跳ねた。
幼い頃から狂信的なまでに追い求めてきた、誇り高く散った騎士の幻影。それを、目の前の少年は無骨な手で泥水ごと鷲掴みにし、「生きろ」と強引に引きずり下ろしてくる。
死んではいけない。生き残って、美味しいものを食べて、自分の足で立ち続けろという、あまりにも生々しい生存への欲求。
「あ……」
喉の奥から、自分でも聞いたことのない情けない声が漏れた。
イングリットの顔が、耳の先から首筋まで、一気に夕焼けのような朱色に染まり上がる。
土に汚れた手を振り払うこともできず、彼女はただ、ツィリルの真っ直ぐで暗い瞳に縫い付けられたように動けなくなってしまった。
「……あ。ごめん、手、泥だらけにしちゃった」
ツィリルはイングリットの手の汚れと、彼女の顔が極端に赤くなっていることに気づき、何か自分が乱暴なことをしてしまったのだと勘違いして、少しバツが悪そうにスッと手を離した。
「い、いえ……気にしてません……。……その、あなたの……生き残るための、実践的な戦い方も……一理、あると……思います、から……」
イングリットは激しく視線を泳がせながら、真っ赤な顔で、しどろもどろにそう絞り出すのが精一杯だった。
「ほんと? じゃあ、今度からはボクの真似してね。……ほら、立てる?」
ツィリルは立ち上がると、座り込んでいるイングリットに向けて、もう一度、今度は彼女を引き上げるために、その無骨な手を真っ直ぐに差し出した。
イングリットは一瞬だけ躊躇い、自身の泥だらけの衣服に視線を落とした。
しかし、彼女はすぐにもう一度顔を上げると、今度は自分から、微かに震える手で、ツィリルの差し出された手をしっかりと握り返した。
西日が長く伸びる修練場の片隅。
手から伝わる確かな少年の熱と、土煙の匂いの中、二人はゆっくりと、それぞれの足で立ち上がった。