擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第十章①

帝国暦1180年、翠雨の節。

まとわりつくような高い湿度が、大修道院の石造りの連絡回廊に重く滞留する昼下がり。

 

「あーもう、重い、重いー……。こんなの、私に一人で運ばせるなんて、クロードくんの鬼、悪魔、薄情者……」

 

金鹿の学級のヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルが、備品の詰まった重い木箱を胸の前に抱え、額に汗を滲ませながら大げさな溜息を吐いて歩いていた。

日陰の回廊とはいえ、真夏の空気は少し動くだけで体力を削り取っていく。彼女の視線の先には、両手いっぱいに真っ白な洗い立てのシーツを高く抱え、修道院の奥から足早に歩いてくる小柄な少年――ツィリルの姿があった。

 

ヒルダの唇の端が、にやりと吊り上がる。

 

「あ、ツィリルくーん! ちょうどよかったぁ〜」

 

ヒルダは木箱を抱えたまま、わざとらしく「あっ」と声を上げてふらりとよろけ、ツィリルの進路を塞ぐようにして石畳の上に立ち塞がった。

 

「……こんにちは、ヒルダ。箱、落とすよ。ちゃんと持たないと危ないって」

 

ツィリルはピタリと足を止め、抱えたシーツの山から顔を半分だけのぞかせて、ヒルダの演技がかった手元を冷ややかな目でジッと見つめた。

 

「ねぇ、お願い〜。これ、金鹿の教室まで運んでくれない? 私、腕が生まれたての子鹿の脚みたいにプルプルしてて、もう本当にちぎれちゃいそうなんだよねぇ……」

 

ヒルダは上目遣いでツィリルの顔を見つめ、胸元に木箱を引き寄せながら、甘く、少しだけ艶のある声を出した。

ゴネリル家の令嬢としての容姿と、この無防備な仕草。大抵の相手であれば、彼女のこの声色を聞いただけで、喜んでその重い荷物を受け取る。彼女は今まで、生来の勘の良さとこの立ち回りで、面倒なことをすべて他人に任せて要領よく生きてきた。

 

「キミの腕は、そのくらいの木箱じゃちぎれないでしょ。……それに、ボクは今からこのシーツを干しに行かないといけないから、ヒルダの荷物は運べないよ」

 

ツィリルは、ヒルダの甘い視線や作り込まれた仕草に一切動じることなく、無表情のまま短く首を横に振った。

 

「えぇ〜? ほんの少しだけじゃん。ツィリルくん、男の子なんだから、か弱い女の子を助けてくれてもいいんじゃない〜?」

 

ヒルダはさらに一歩距離を詰め、ツィリルの鼻先に、自身の纏う甘い香水の香りをふわりと漂わせる。

 

「か弱くないでしょ。ヒルダ、この前修練場で、ボクより重い斧を片手で軽々振り回してたよね。ボク、見てたから知ってるよ」

「……っ、あれは……っ」

「それに、ボクは教団の仕事をしてるの。金鹿の教室の荷物は、ヒルダの仕事だよね。自分の仕事くらい、自分でやってよ」

 

ツィリルの口から淡々と紡がれる事実の羅列が、ヒルダの計算し尽くされた逃げ道を一つ残らず塞いでいく。

ゴネリル家の元使用人であり、過酷な戦場を生き抜いてきた彼にとって、ヒルダの「か弱いアピール」など、パルミラの空を飛ぶ鳥の羽ばたきよりも意味のないものだった。

 

ヒルダが反論の言葉に詰まり、思わずむっと口を尖らせた、その時。

 

「……あの、ヒルダさん。ツィリルさんを、困らせないで……ください」

 

回廊の角の陰から、震える、けれど必死に声を張るような掠れた声が響いた。

灰狼の学級の制服に身を包んだマリアンヌが、自身の両手を胸の前でギュッと握り締め、おどおどとしながらも、ヒルダを見据えて立っていた。

 

「マ、マリアンヌちゃん? どうしたの、顔真っ赤にして……」

「ツィリルさんは、いつも修道院の皆のために、朝早くから休む間もなく働いているんです。だから、その……手伝いが必要なら、私が運びますから」

 

マリアンヌはツィリルの隣にサッと小走りで並び立ち、彼を背中へ庇うようにして、ヒルダの前に立ち塞がった。

ツィリルに深い絶望の淵から救い出され、彼に心酔している彼女にとって、彼が自分の仕事以外で負担を強いられている状況は、どうしても黙って見ていられなかったのだ。

 

「ええっ!? ダメダメ、マリアンヌちゃんにそんな重いもの、持たせられないよー!」

 

ヒルダは慌てて木箱を後ろへ引き、マリアンヌの細い腕から荷物を遠ざけた。

ヒルダは面倒くさがりだが、決して冷酷なわけではない。むしろ、マリアンヌのような自己主張の苦手な少女のことは、放っておけずに普段からよく世話を焼いているのだ。そんなマリアンヌの細腕に、備品が詰まった重い木箱を預ける気など、ヒルダには毛頭なかった。

 

「で、でも、ツィリルさんの時間を奪うわけには……!」

「だからってマリアンヌちゃんが持つことないでしょ! 私が自分でやるから大丈夫だってば!」

 

マリアンヌはツィリルを守るために必死に木箱へ手を伸ばし、ヒルダはマリアンヌを守るために必死に木箱を遠ざける。

全く噛み合わない善意と気遣いが交差して、回廊の真ん中で、二人の少女の間に奇妙な膠着状態が生まれ始める。

マリアンヌの肩が小刻みに震え、ヒルダが困り果てて大きなため息をつこうとした、その瞬間。

 

「二人とも、廊下の真ん中で立ち止まらないでよ。……通れないから、邪魔」

 

ツィリルが、抱えていたシーツの山を近くの窓枠の空きスペースにドサリと置き、もみ合う二人の間にスッと無音で割り込んだ。

 

「ツ、ツィリルさん……でも、彼女が……」

「マリアンヌ」

 

ツィリルは、極度の緊張と必死さで顔を強張らせているマリアンヌの前に立ち、彼女の視線を自分へと向けさせた。

 

「えっ……」

「そんな怖い顔、しないで。せっかく最近笑うようになったんだから、前の暗い顔に戻っちゃダメだよ。……ボクは、キミが笑ってる顔の方がいいと思うし」

 

ツィリルの口から出たのは、計算された慰めでもキザな台詞でもなく、彼が純粋にそう思っただけの、ただの事実の指摘だった。

けれど、その一切の裏表がない言葉と、自身を見つめる真っ直ぐな暗い瞳の熱に、マリアンヌの必死な強張りは一瞬にして溶け落ち、彼女の青白かった顔が、耳の先まで一気に朱色に染まり上がった。

 

「あ、ぅ……っ。は、はい……っ」

 

マリアンヌは両手で熱を持った自身の顔を覆い、すっかり大人しくなって、コクコクと頷きながら一歩後ろへ下がる。

 

それを呆然と見ていたヒルダに向かって、ツィリルはゆっくりと振り返った。

 

「ヒルダ。ボクは、キミの仕事の代わりはしないよ」

「……分かってるわよ。ケチ」

 

ヒルダが肩をすくめ、諦めて木箱を持ち直そうとした。

しかし。

 

ツィリルは、ヒルダが抱えている木箱の『片側』の取っ手を、空いた手で下からグッと力強く掴み上げた。

 

「えっ……?」

 

ヒルダが驚いて瞬きをする。

 

「でも、一人で運べないなら、半分だけボクが持つよ。……これなら、ヒルダの腕もちぎれないよね」

 

ツィリルは彼女の荷物を『奪う』のではなく、『共に持つ』という、極めて現実的で合理的な解決策を提示した。

 

「ボクがシーツ干す場所、金鹿の教室のすぐ近くだから。……ほら、早く歩かないと日が暮れちゃうよ」

 

ツィリルはそう言うと、ヒルダと向かい合う形で箱の片側を持ち上げ、歩き出しを促した。

 

「あ、ちょっと、待ってよ……っ」

 

ヒルダは慌てて箱の逆側の取っ手をしっかりと握り、ツィリルの歩幅に合わせて横歩きで歩き始めた。

結果として、彼女は自分で荷物を運ぶ羽目になっている。彼女の「誰かに丸投げする」という目論見は完全に失敗に終わったのだ。

 

なのに。

木箱の板越しに伝わってくる、彼の手の確かな力強さと、引っ張られるような推進力。

彼は、自分の容姿や愛嬌に一切媚びず、甘やかしもしない。けれど、見捨てて突き放すわけでもなく、最も対等で、理にかなった形で負担の半分を背負ってくれた。

 

そして何より、先ほどマリアンヌに向けた、あの真っ直ぐで嘘のない瞳。

 

(な、なにこれ……。ただの生意気な元使用人の子供だと思ってたのに……)

 

ヒルダの胸の奥で、今までどんな貴族の男から歯の浮くような台詞を囁かれた時にも鳴ったことのない、ひどく不規則で大きな鼓動が、トクン、と鳴った。

 

「……ツィリルくん」

「何? 前見て歩かないと、転ぶよ」

「……ふふっ。なんでもなーい」

 

ヒルダは、いつも男を意のままに操る時に使う完璧な作り物の笑顔ではなく、ごく自然な、少しだけ体温の上がった柔らかな笑みをこぼした。

 

決して自分に靡かず、甘い言葉も吐かない。ただ事実だけを見て、自分の足で泥臭く立ち続けている絶対的なブレなさ。

ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリルの怠惰な心に、この年下の少年に対する、今まで感じたことのない強烈な興味と好奇心が、静かに、けれど確実に根を下ろした瞬間だった。

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