帝国暦1180年、翠雨の節。
うだるような夏の刺すような暑さが急に和らぎ、時折、灰色の空から冷たい雨が石畳を濡らしては止む、気まぐれな天候の時期。
ガルグ=マク大修道院の中庭で、ツィリルは濡れて重くなった落ち葉を、竹箒を使って一定のリズムで掃き集めていた。
周囲に人の気配はなく、サァッ、サァッ、という湿った葉が擦れる規則正しい音だけが、静かに響き渡っている。
「……ツィリルくん。ちょっと、いいかしら」
不意に、少し沈み込んだような声が背後からかかった。
ツィリルが振り返ると、黒鷲の学級の生徒であるドロテアが、いつもの華やかな笑顔を完全に消し去り、ひどく困ったように眉を下げて立っていた。
「ドロテア。ボク、今ここの落ち葉を集めてるんだけど。何か用?」
ツィリルは箒を持つ手を止めず、チラリと彼女を見上げた。
彼にとって、相手が貴族であろうと人気者の歌姫であろうと関係ない。教団の大人以外には容赦なくタメ口を使う、彼のいつもの無愛想な態度だった。
「ええ。お仕事中にごめんなさいね。実はね……グリットちゃんのことなんだけど」
「グリットちゃん……イングリットのこと?」
その名前に、ツィリルの竹箒を動かす手がピタリと止まった。
「そう。ここ数日、あの子の様子がずっとおかしいの。故郷のガラテア家から手紙が届いてから、食事の時もずっと一人で思い詰めたような顔をしていて……。私、気になって少し探りを入れてみたのよ。そしたら……どうやら、あの子の家に『縁談』が持ち上がってるみたいなの」
「縁談……。結婚するってこと?」
「そうよ。それも、相手は商人の身から金で爵位を買ったような、同盟領の新進貴族。多額の持参金と引き換えに、家名に箔をつけるためにダフネルの紋章を持つグリットちゃんをもらい受けようとしている……そんなきな臭い話よ。私、歌姫だった頃にその男に言い寄られたことがあるから分かるの。あれは絶対にろくな男じゃないわ」
ドロテアは嫌悪感に顔を顰め、周囲に誰もいないことを確認してから、声を一段低くした。
「相手の持参金の出所だって怪しいものよ。うちの先生(ベレト)に相談して、教団の力で相手の素性を探ってもらおうと思ったんだけど……先生、今節の課題と教団の仕事でずっと出払っていて、全然修道院で捕まらないのよ」
ドロテアは深いため息をつき、ツィリルの暗い瞳をジッと見つめた。
「だから、アビスの裏道や情報に詳しい灰狼の学級の皆さんと、ツィリルくんに……相手の男の素性を、こっそり調べてくれないかしらって、お願いに来たの」
「ふーん……」
ツィリルは竹箒の柄に顎を乗せ、少しだけ首を傾げた。
「貴族の家の結婚とか、お金の話なんて、ボクにはよく分からないよ。イングリット本人が、その男のところに行くって決めたなら、ボクたちが口出しすることじゃないんじゃない?」
「……あの子が心から望んでるなら、私も止めないわ。でもね、あの子……」
ドロテアは自身の胸元をギュッと握り締め、ひどく痛ましそうに目を伏せた。
「自分が犠牲になることで頭がいっぱいになって、もう心が死んでるみたいな顔をしてるのよ。もし嫁に行けば、あの子はもう大修道院には戻ってこない。ずっと目指してた騎士になる夢も全部諦めて、遠くの領地で一生を過ごすことになるわ」
心が死んでいる。
騎士の夢を捨てる。
ドロテアのその言葉を聞いた瞬間、ツィリルの瞳から、先ほどまでの「無関心」な色が完全に消え去った。
夕暮れの修練場で、泥だらけになりながら、自らの意思で生き残るために立ち上がった彼女の姿が脳裏をよぎる。
「……それは、ダメだ」
「え?」
「イングリットが、あんなに一生懸命振ってた槍も全部捨てて、泣きながら知らない場所に行くなんて……ボクは嫌だ。そんなの、何のために生きてるのか分かんないじゃん」
ツィリルは竹箒を壁に無造作に立てかけた。
「ドロテア、イングリットは今どこにいるの」
「えっ……あ、青獅子の教室に、一人で残ってたはずだけど……」
ツィリルはドロテアの返事を聞き終わるか終わらないかのうちに、中庭の濡れた石畳を蹴って駆け出していた。
ドロテアは一瞬呆然と立ち尽くした後、慌てて自身の衣服の裾を掴み、少年の小さな背中を追った。
***
青獅子の学級、教室。
西日が差し込む静かな空間の窓際の席で、イングリットは故郷から届いた分厚い羊皮紙の手紙を、微かに震える両手で何度も、何度も読み返していた。
(……これで、ガラテア領の民は飢えを凌ぐことができる。私のこの身一つで、皆が救われるのなら……騎士になる夢など、些末なこと……)
イングリットがギュッと目を閉じ、自分自身を無理やりに納得させるように、血が滲むほど強く唇を噛み締めた、その時。
バンッ!
誰もいないはずの教室の扉が、勢いよく開かれた。
「えっ……? ツィリル? それに、ドロテアも……どうしたのですか、二人とも血相を変えて……」
驚いて席から立ち上がるイングリットの前に、少し息を切らせたツィリルが、一直線に歩み寄る。
「イングリット。その手紙、結婚の話でしょ」
「なっ……なぜ、それを……!」
イングリットは弾かれたように手紙を背中に隠したが、ツィリルは彼女の目の前まで距離を詰め、一切の逃げ道を塞ぐように立ち塞がった。
「お金のために、その顔も知らない男のところに行くの?」
「……ドロテアが、話したのですね」
イングリットはドロテアの顔を見てすべてを悟り、諦めたように肩を落として伏し目がちに頷いた。
「……はい。相手の方は、莫大な持参金をガラテア家に提示してくれました。私の領地は、とても貧しいのです。領民を飢えから救い、家を存続させるためには、私がいかなくては……」
「行きたいの?」
ツィリルの容赦のない、氷のように冷たい問いかけが、イングリットの言葉を真っ二つに斬り裂いた。
「え……?」
「イングリットは、本当にその男のところに行きたいの? ここで騎士になるのをやめたいの?」
「それは……! ですが、私には貴族としての、領民を守る義務が……っ」
「そんなの、知らないよ」
ツィリルは、背中に手紙を隠したままのイングリットの震える右手を、自身の両手でしっかりと、力強く握りしめた。
「っ……ツィリル……」
「ボクには、貴族の義務とか難しいことは分からない。でも、イングリットが今、すごく嫌そうな、今にも泣きそうな顔をしてるってことだけは分かるよ」
イングリットの肩が、ビクッと跳ねる。
「前に修練場で言ったでしょ。ボクの目の前で、イングリットが怪我したり死んだりするのは絶対に嫌だって。……心だけ死んだみたいになって、遠くの知らない場所で毎日泣きながら生きていくのも、ボクは同じくらい絶対に嫌だ」
ツィリルの硬い手から、ひどく高い体温が伝わってくる。
「嫌なことを無理やりやらされて生きるのは、パルミラの奴隷と同じだ。イングリットは奴隷じゃないでしょ。自分の足で立てる、立派な騎士になるんじゃなかったの?」
イングリットの喉が、ヒュッと鳴った。
貴族の義務。領民への責任。そんな彼女を雁字搦めに縛り付ける重い鎖を、この少年は「そんな顔をして生きるのは間違っている」という、極めて純粋で残酷な事実の突きつけだけで、いとも容易く引きちぎろうとしてくる。
「……っ、でも、私が行かなければ、領民たちが……っ」
「その男が悪いやつなら、ドロテアから聞いた話を元にして、ボクたちが素性を調べて追い払うよ。そしたら、持参金なんかなくても、別の方法を考えればいい。……アビスの皆も、絶対に手伝ってくれる」
ツィリルは、決して彼女の手を離さなかった。
「だから。勝手に自分の夢を捨てて、いなくなったりしないで」
「ツィリル……でも、そんな危険なことに、あなたたちを巻き込むわけには……っ」
「巻き込んでちょうだいな。グリットちゃん」
入り口で静かに様子を見守っていたドロテアが、優しい微笑みを浮かべてゆっくりと歩み寄ってきた。
「ツィリルくんの言う通りよ。無理して笑って、自分を安売りするなんて絶対ダメ。……悪い虫は、私たちが綺麗に追い払ってあげるから」
「ドロテア……」
イングリットは、強く握られたツィリルの手と、ドロテアの優しい顔を交互に見つめ……やがて、今までせき止めていた膨大な感情が決壊したように、大きな翡翠色の瞳から、大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
「……っ、ありがとう、ございます……。本当は……私……騎士に、なりたい……っ。行きたくない、です……っ」
イングリットは顔を伏せ、ツィリルの握る手に自身の額を押し付けるようにして、ポロポロと音を立てて泣き崩れた。
ツィリルはそんな彼女を慰めるような気の利いた言葉を口にすることはなく、ただ彼女が落ち着くまで、その無骨な手で彼女の震えをしっかりと受け止め続けていた。
夕陽が長く伸びる青獅子の教室。
見えない呪縛から解放された少女の泣き声だけが、静かに、いつまでも響いていた。