擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第十一章②

帝国暦1180年、翠雨の節。

ガルグ=マク大修道院のふもとに広がる薄暗い宿場町は、朝から絶え間なく降り続く冷たい雨のヴェールに、すっぽりと包み込まれていた。

 

分厚い雲が太陽を遮り、夕暮れよりも暗く沈んだ人気のない裏路地。

雨だれを凌ぐ狭い軒下で、灰狼の学級の級長であるユーリスが、濡れて額に張り付いた紫色の前髪を片手で乱暴に掻き上げながら、静かに口を開いた。

 

「……裏は取れたぜ。あの成金貴族が用意するって言ってた多額の持参金、ありゃ真っ赤な嘘だ。奴の家は無謀な事業に手を出して完全に首が回らなくなっててな。イングリットの持つ『ダフネルの紋章』を利用して、裏社会のパトロンに売り飛ばしてひと儲けしようと企んでやがった」

 

ユーリスの口から淡々と紡がれた、泥水のように濁った真実。

それを聞いたイングリットは、一瞬にして全身から血の気を失った。彼女は雨に濡れた冷たいレンガの壁に背中を預けるようにして、力なく崩れ落ちそうになる。

 

「そんな……っ。領民を救うための援助など、最初から……」

 

イングリットの口から、掠れた、ひどく虚ろな声が漏れる。

愛する故郷の領地のため。長年抱き続けた騎士への夢も誇りもすべて捨てて決意した自分の覚悟が、ただの醜悪な詐欺と人身売買に利用されようとしていた事実。己の浅はかさが、彼女の心を容赦なく泥水の中へ引きずり下ろしていく。

 

「……やっぱり。あんな手紙、破り捨てて正解だったね」

 

隣に立っていたツィリルが、一切の感情を交えない、ただの事実の確認として短く呟いた。

彼は自責の念に押し潰されそうになっているイングリットの震える肩に、ポンと無造作に手を置くと、ユーリスの方へと真っ直ぐに向き直った。

 

「ユーリス。その悪い男、今はどこにいるの」

「今頃は、俺が街に流した偽の情報に釣られて、教団の騎士団の網に自分から喜んで突っ込んでる頃だろうさ。……だが、少し厄介なことになってな」

 

ユーリスは路地裏の暗がりへと鋭い視線を投げた。

 

「奴が前金で雇った荒くれの別働隊が、イングリットを強引に攫おうと、今この街のあちこちを嗅ぎ回ってる」

「……片付けるよ」

 

ツィリルは腰に帯びた短剣の柄に、静かに手をかけた。

 

「ああ、俺も手伝う。だが、数が多い。俺が裏道を回ってあぶれ者共を引っ掻き回してくるから、ツィリル、お前はイングリットを連れて修道院へ真っ直ぐ戻れ」

「わかった。ユーリスも、気をつけて」

 

ユーリスが雨音に紛れ、闇に溶けるように路地裏の奥へと消えていく。

 

「……イングリット。帰るよ。ボクの後ろを歩いて」

「あ……待って、ください。ツィリル……」

 

イングリットの足は、極度のショックと疲労で鉛のように重くなっていた。

 

「私……私は、なんという愚かな……。相手の素性も確かめず、ただ領地のためにと盲目になって……」

「そんなこと、今ここで考えても仕方ないよ。雨に濡れたら風邪をひくから、早く修道院に戻らないと」

 

ツィリルは足を止めず、振り返ってイングリットを促した。

 

その時だった。

 

「――見つけたぞ! 例の紋章持ちの小娘だ!!」

 

激しい雨音を切り裂き、路地の反対側から、薄汚れた外套をまとった数人の男たちが濁流のように雪崩れ込んできた。その手には、雨に濡れて鈍く光る剣や、ひどく錆びついた鉈が握られている。

 

「チッ、ガキが一緒にいやがる。女は傷つけるなとのお達しだが、ガキは殺して構わねぇ! やっちまえ!!」

 

「っ……ツィリル、下がって! 私が……!」

 

イングリットが咄嗟に腰の剣を抜こうとする。しかし、激しい精神的な動揺で指先が白く強張り、震え、雨に濡れた剣の柄をうまく掴むことができない。

 

「イングリット。動かないで」

 

ツィリルの声は、雨音よりも低く、静かだった。

彼はイングリットの肩を乱暴に突き飛ばすようにして自身の背後――壁際の安全な死角へと強引に押し込むと、一切の躊躇いなく、男たちの群れへと真っ直ぐに飛び込んだ。

 

「死ねやァッ!!」

 

先頭の男が咆哮と共に大きく踏み込み、ひどく錆びた鉈を頭上から力任せに振り下ろす。

ツィリルはその暴力的な軌道を最後まで見極め、半歩だけ身体をずらして水流のように躱した。空を切った鉈が石畳に激突して火花を散らすと同時に、ツィリルは極端に身を沈め、男の膝裏の関節をブーツの硬い踵で的確に蹴り砕いた。

 

ゴキリという骨の軋む音と絶叫。体勢を崩して前のめりになった男の首筋へ、ツィリルは逆手に持った短剣の柄を、一切の力みなく正確に叩き込んだ。

 

「な、なんだこのガキ……っ!?」

「囲め! 囲んで串刺しにしろ!!」

 

男たちが一斉にツィリルへと殺到する。

イングリットは壁際に身を潜めたまま、息を呑んだ。

 

泥水が跳ね、刃が交錯し、冷たい雨の中で鈍い打撃音が響き続ける。

彼の動きは、修練場で見せた時以上に無駄がなく、的確に男たちの急所を穿ち、呼吸を奪っていく。パルミラの過酷な戦場で生き抜いてきた彼にとって、これはただの『命の奪い合い』だった。

 

しかし、狭い路地裏での乱戦の中。

一人の男が、ツィリルの足払いを喰らって倒れた仲間の身体を強引に踏み越え、死角を抜けて、壁際で動けずにいるイングリットへと一直線に向かっていった。

 

「もらったァッ!!」

「あ……っ!」

 

男の泥に汚れた手が、イングリットの腕を乱暴に掴もうと伸びた、その瞬間。

 

「……イングリットに、触るな!!」

 

背後から凄まじい速度で泥水を蹴り立てて踏み込んできたツィリルが、イングリットを庇うように、彼女と男の間に強引に割り込んだ。

 

ドンッ! と。

男の握っていたナイフが、ツィリルの左肩の肉を浅く切り裂き、生温かい血飛沫が冷たい雨の中に舞った。

 

「ツィリルッ!?」

 

「……っ」

 

ツィリルは一瞬だけ苦痛に顔を歪めたが、声は上げなかった。

彼は自らの肩を斬らせた勢いをそのまま利用し、右手の短剣を男の肩口に深々と突き立て、全体重をかけて石畳へと縫い留めた。

男がくぐもった悲鳴を上げ、泥水の中で痙攣するように動かなくなる。

 

静寂が戻った裏路地に、激しい雨音と、ツィリルの荒い呼吸の音だけが残された。

 

「はぁ……はぁ……。……もう、大丈夫。全部片付けたよ」

 

ツィリルは短剣を男の肩から引き抜き、鞘に収めると、イングリットの方へとゆっくりと振り返った。

雨に濡れた彼の左肩からは、赤い血が絶え間なく滲み出し、教団の制服をどす黒く染めながら滴り落ちている。

 

「あ、あなた……肩が……血が……っ! 私を庇って……っ」

「こんなの、かすり傷だから平気。それより……」

 

ツィリルはイングリットに歩み寄ると、彼女の両肩を、土と微かな血に汚れた両手で、ギュッと力強く掴んだ。

 

「どこか、怪我してない? 痛いところ、ない?」

「わ、私は……どこも。それより、あなたの肩を早く……っ」

 

「……よかった」

 

イングリットのその返事を聞いた瞬間。

それまで極限まで張り詰めていたツィリルの全身から、不意にすべての力が抜け落ちた。

 

彼は掴んでいたイングリットの肩にそのまま全体重を預け、前方へと倒れ込むようにして、彼女の華奢な肩口に自身の額を乗せた。

 

「ツィ、ツィリル……?」

「……すごく、怖かった」

 

雨に濡れた彼の前髪から滴る水滴が、イングリットの衣服に冷たく染み込んでいく。

だが、密着した彼から伝わってくる体温と血の匂いは、火傷しそうなほどに熱かった。

イングリットの肩口に押し付けられた彼の小さな身体は、微かに、けれど確かな震えを帯びている。

 

「……あの男の手がイングリットに触れるのを見た時、心臓が止まるかと思った」

 

ツィリルの声は、ひどく震えていた。

先ほどまで、複数人の男たちを相手に一切の表情を変えることなく刃を振るっていた彼が、今はただ、イングリットの制服の布地を不器用な指先で強く握りしめている。

 

「イングリット。……もう、勝手に一人で遠くに行こうとしないでよ。ボクの目の届かないところで、キミがいなくなったり、誰かに傷つけられたりするのは……絶対に嫌だ」

「……っ」

 

ツィリルの額から伝わる熱が、冷え切っていたイングリットの身体の芯をひどく強く揺さぶる。

 

「ボクが守るって言ったでしょ。……だから、ずっとボクの側にいてよ」

 

その震える声が耳元に届いた瞬間、イングリットの胸の奥で、張り詰めていた何かが静かに決壊した。

 

冷たい雨の中で自責の念に押し潰されそうになっていた彼女を繋ぎ止めたのは、気高い騎士道の教えでも、教団の権威でもない。ただ、身を挺して自分を守り、自分を失うことを恐れて震えている、この等身大の少年の確かな体温だった。

 

「あ……」

 

イングリットの大きな翡翠色の瞳から、温かい涙が一筋だけ溢れ出し、雨に濡れた冷たい頬を伝い落ちた。

彼女は、自身の肩に身を預けて震えるツィリルの背中にそっと両腕を回し、その泥と血に汚れた服を、自身の指先が白くなるほどに強く、強く握りしめた。

 

「……はい……ツィリル。私……私は、もう……どこへも行きません……っ」

 

降りしきる雨の音だけが響く裏路地。

イングリットは、自分を抱きしめる少年の熱からもう二度と離れないように、彼の肩に自身の顔を深く埋め、声を殺して泣き続けた。

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