帝国暦1180年、翠雨の節。
冷たい雨の降りしきる宿場町の裏路地から、ガルグ=マク大修道院へ無事に帰還した一行。
夜の大修道院は水を打ったように静まり返っていた。
石造りの壁に囲まれた医務室の中には、すり鉢で潰されたばかりの傷薬のツンとした青臭い香りと、消毒用の強いアルコールの匂い、そして机の上に置かれたガラス張りのランタンから漏れる、暖かなオレンジ色の灯りが満ちていた。
高い位置にあるすりガラスの窓を打つ雨音は、路地裏で響いていた暴力的な響きから、ひどく穏やかで規則的なものへと変わっている。
「……ツィリル。まだ、痛みますか? 止血帯、強く巻きすぎていませんか……?」
清潔な白いシーツが敷かれたベッド。その端に腰掛けるツィリルのすぐ横で、イングリットが彼の左肩から胸ぐらにかけて真っ白な包帯を巻きながら、微かに掠れた声で問いかけた。
教団の制服の上着を脱いだツィリルの左肩には、男のナイフによって抉られた浅くない裂傷が走り、縫合されたばかりの傷口の周囲には赤黒い血のにじみが残っている。
イングリットは、その傷跡に直接触れないよう細心の注意を払いながら包帯を交差させていくが、彼女の生真面目な指先は、ツィリルの肌に触れるたびに、小刻みに、そしてどうしようもなく震えていた。
「そんなに強く巻かなくても、血はもう止まってるよ。ボク、かすり傷だって言ったじゃん」
ツィリルは、自身の肩口で震え続けるイングリットの青白い手元を見下ろし、普段と変わらない平坦な声で言った。
「い、いいえ! かすり傷だとしても、雨水や路地裏の泥が入れば破傷風になります! 傷口が膿めば熱も出ますし、最悪の場合は……っ」
イングリットの早口な声が、ふいにヒュッと詰まった。
彼女の大きな翡翠色の瞳から、拭っても拭っても透明な涙が溢れ出し、彼女自身の衣服の膝元や、石造りの床へとポロポロと音を立てて落ち、濃い染みを作っていく。
「あなたは……私を庇って……っ、私のせいで、こんな……っ」
顔を歪め、ボロボロと涙をこぼし続けるイングリット。
「イングリット、泣かないでよ。あなたが怪我しなくて済んだんだから、ボクはこれでよかったの」
「ですが……っ! あなたは、ご自分の命を何だと……っ」
「それに」
ツィリルは、自身の胸元で包帯の端を握りしめたまま震えているイングリットの両手を、自分の無骨な右手でそっと、上から包み込むようにして押さえた。
「イングリットの手、あったかいね。……なんだか、痛みが引く気がする」
「え……っ」
イングリットの息が止まった。
ツィリルの硬く、弓の弦の摩擦で分厚いタコができている手。そこから伝わってくるのは、ひどく高く、脈打つような生々しい体温だった。
雨の路地裏での凄惨な光景が、イングリットの脳裏に蘇る。
血飛沫を上げながら自分と凶刃の間に割り込んできた、小さな背中。
泥に塗れ、鉄の匂いが充満する死地の中で、彼は確かに自分の命を投げ打ってでも彼女を守り抜いた。
その事実の重さと、今、自分の両手を覆っている確かな熱。
イングリットの胸の奥で、数時間前まで彼女を雁字搦めに縛り付けていた『家名への責任』や『領民のための自己犠牲』という冷たく重い鎖が、音を立てて崩れ落ちていく感覚があった。
「……はい。私が、傷が塞がる最後まで……きちんとあなたの手当てを、しますから……っ」
イングリットは目元を真っ赤に染め、涙声のまま、ツィリルの右手を両手でそっと握り返した。
「あらあら。お取り込み中だったかしら?」
不意に、医務室の重い木製の扉がコンコンと軽くノックされ、隙間から黒鷲の学級のドロテアがひょっこりと顔を出した。
彼女の靴音は雨に濡れて微かにくぐもっていたが、ランタンの灯りに照らされた二人の密着した様子を見て、彼女はクスリと、どこか安心したような柔らかな笑みをこぼす。
「あ、ドロテア……! い、いえ、これはその、決して怪しいものではなく、包帯の締まり具合を確かめていただけで……っ!」
イングリットが弾かれたように慌てて飛び退こうとする。しかし、ツィリルが彼女の手をしっかりと握ったまま離さないため、イングリットは結局ベッドの横で中腰の姿勢のまま、不自然に硬直する形になった。
「ドロテア。ユーリスから話は聞いた?」
ツィリルが、イングリットの手を握ったまま、普段通りの淡々とした声でドロテアに尋ねる。
「ええ、バッチリよ」
ドロテアは医務室の中に入り、扉を静かに閉めた。
「ユーくんが、裏道のルートを使って教団の騎士団に情報を回してくれたわ。あの詐欺師の成金貴族、街から逃げ出そうとしたところを、まんまと網にかかって捕縛されたそうよ。余罪もたっぷりあるみたいだし、当分は地下牢から出てこれないわね」
ドロテアはそこで一度言葉を区切り、イングリットへ向けて優しく微笑んだ。
「もちろん、ガラテア家への持参金の話も完全に白紙。……グリットちゃん、もう自分を安売りして、あんな顔も知らない男のところに行く必要はなくなったのよ」
ドロテアの口から告げられた、完全なる終息の報告。
それを聞いた瞬間、イングリットの肺から、深く、長く、震えを帯びた安堵の息が吐き出された。彼女はそのまま膝の力が抜け、ヘナヘナとベッドの傍らの床にしゃがみ込みそうになる。
「ドロテア……本当に、何と感謝してよいか……。あなたや、ツィリルたちがいなければ、私は今頃……」
「私にお礼はいいわ。私は可愛い女の子のために、少しお節介を焼いただけだもの。……それより」
ドロテアはツィリルと、彼に手を握られたまま耳の先まで真っ赤にしているイングリットを交互に見つめ、楽しそうに目を細めた。
「それにしても……あの真面目で堅物なグリットちゃんが、ツィリルくんにすっかり懐いちゃって。さっき修道院の門に帰ってきた時なんて、ツィリルくんの服の裾をギュッと握って、半歩後ろから絶対に離れようとしなかったじゃない?」
「なっ……! そ、それは……っ!」
図星を突かれ、イングリットは顔から火が出そうなほど狼狽え、激しく視線を泳がせた。
「彼は……私の恩人です! 命懸けで私を守ってくれた彼に、報いたいと思うのは、騎士として当然の……っ」
「恩義とか、騎士とか、そういうのいらないよ」
必死に取り繕おうとするイングリットの言葉を、ツィリルの容赦のないタメ口が、一切の遠慮なく斬り裂いた。
「えっ……」
「ボクは、イングリットが怪我して死ぬのが嫌だったから、勝手にやっただけ。……それに、イングリットがボクの側を歩いてくれるのは、悪くないよ。ボクも、キミが勝手に見えないところにいなくなるのは嫌だから」
ツィリルはイングリットの手を静かに引き寄せ、もう一度、彼女の翡翠色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「あの悪い男は捕まったけど、あなたが一人でいたら、また別の悪いやつが来るかもしれないでしょ。……だからイングリット、これからも勝手にいなくなったりしないでよ」
ツィリルの真っ直ぐな暗い瞳が、イングリットを射抜く。
照れ隠しでも、相手を試すような駆け引きでもない。ただの事実の突きつけ。
「あ……ぅ……っ。は、はい……っ」
イングリットの口から、微かな掠れ声が漏れた。
彼女はそれ以上の反論や、騎士としての建前を口にすることを完全に諦めた。彼女はツィリルの手に自身の両手をしっかりと重ね合わせると、こくりと、深く静かに首を縦に振った。
「ふふっ。私のグリットちゃんを助けてくれて、本当にありがとうね、ツィリルくん」
ドロテアは艶やかな笑みを浮かべながら、小さく肩をすくめた。
「あの子、根が真面目すぎて、今回みたいに何でも一人で抱え込んじゃうから。……あなたがちゃんと、目を光らせておいてあげて」
「うん。言われなくても、そうするよ」
ツィリルの淀みない、一切の迷いもない即答。
それを真横で聞いたイングリットの顔はさらに限界まで赤く染まった。彼女は激しい羞恥と、それ以上の圧倒的な安堵のあまり、ツィリルの無事な右肩の辺りに、己の顔をすっぽりと埋めるようにして顔を隠した。
「ドロテアまで……からかわないでください……っ」
くぐもったイングリットの抗議の声に、ドロテアのくすくすという優しい笑い声が重なる。
冷たい雨の降る翠雨の節の夜。
ランタンの暖かな光と、薬草の青臭い匂いに満たされた医務室の片隅で。
重い呪縛から解放された青獅子の令嬢は、確かな少年の体温と、心地よい雨音の静寂の中に、深く身を委ねていた。