帝国暦1180年、角弓の節。
地上では秋の気配が色濃くなり、吹き抜ける風が落ち葉を巻き上げる夕暮れ時。
しかし、陽の光が一切届かないガルグ=マク大修道院の地下深く――巨大な地下街『アビス』の片隅にある灰狼の学級の教室には、季節の変化とは無縁の、淀んだ冷たい湿気だけが常に滞留していた。
普段であれば、その日の授業を終えた生徒たちの雑談や、乾いたチョークの音が響いているはずの時間。
だが、今日の教室を支配していたのは、ロウソクの火が爆ぜる音さえ鼓膜に刺さるような、ひどく張り詰めた重い静寂だった。
「……フレンちゃんが淹れてくれた紅茶、すっかり冷めちゃったわね〜。地上の図書室に本を返しに行くだけって言っていたのに、いくらなんでも遅すぎるわ……」
教師であるメルセデスが、教卓の上に置かれた二つの可愛らしい陶器のティーカップを見つめながら、困ったようにハの字に眉を下げた。
カップの縁から立ち昇っていたはずの温かな湯気はとうの昔に消え失せ、水面には地下の埃が微かに浮いている。
「先生。フレンは、おやつの時間を絶対に忘れたりしないです。それに、今日は珍しいお菓子があるって、朝からすごく楽しみにしていましたから」
教室の隅。木箱の上に腰掛け、自身の矢筒に新しい矢を一本ずつ無駄のない動きで補充していたツィリルが、一切の感情を交えない、ただの事実の確認として淡々とした声を出した。
彼は新しく張り替えたばかりの弓の弦を指先で弾き、その硬く高い音を耳で確認すると、壁際で腕を組んでいる級長のユーリスへと真っ直ぐに視線を向けた。
「ユーリス。これは絶対におかしいよ。フレンがただ迷子になったり、寄り道したりしてるだけじゃない。……誰かに、連れ去られたんだと思う」
ツィリルのその言葉に、教室内の空気が一瞬にして凍りついた。
「攫われた……!? まさか、わたくしたちの輝かしき学友を、この大修道院の敷地内で攫うような命知らずがいるとでも……!?」
コンスタンツェが、手にしていた鉄扇をバチンッ! と鋭い音を立てて閉じ、勢いよく席から立ち上がった。
そのすぐ隣で、モニカもスッと顔を強張らせ、無言のまま懐の魔道書へと右手を滑り込ませる。
「……ツィリル。俺も同じ意見だ」
ユーリスは腕を組んだまま、冷たい石壁に後頭部を預け、長く重い息を吐き出した。
「ついさっき、地上の見回りに行ってたバルタザールの奴からアビスの入り口に連絡があった。マヌエラ先生も、医務室から忽然と姿を消してるらしい。……何者かが、大修道院の内部にまで入り込んで、手際よく二人を攫っていったって考えるのが自然だ」
「なら、すぐにセテスさんに知らせないと……!」
マリアンヌが青ざめた顔で席を立ち、地上へと続く階段へ向かおうとしたが、ユーリスがそれを片手で制した。
「いや、ダメだ。あのおっさんにフレンが行方不明になったなんて伝えてみろ。理性を吹っ飛ばして大パニックを起こし、騎士団を総動員して大修道院を完全封鎖するぜ。……そうなったら、どうなると思う?」
「……私たちアビスの住人が、真っ先に疑われて尋問される。地下への出入りも完全に禁じられるよね……」
ハピが、机に突っ伏したままの気怠げな姿勢で、ユーリスの言葉を正確に引き継いだ。
「そう。俺たちが身動きを取れなくなって、騎士団が的外れな場所をひっくり返してる間に、フレンが修道院の外に運び出されたら、もう二度と追いつけねぇ」
「……そんなの、絶対にダメだ」
ツィリルは木箱から立ち上がり、カチリ、と硬い金属音を立てて、腰のベルトに二振りの短剣を固定した。
「フレンは、ボクたちの教室の大事な生徒だよ。ボクが目を離してる間に、誰かに怪我でもさせられたりしたら……絶対に嫌だ」
ツィリルの声は低く、平坦だった。
だが、その暗い瞳の奥には、パルミラの戦場で培われた、敵対するものを確実に排除するための極めて純粋で冷徹な殺意が宿っていた。
彼はためらうことなく、手入れを終えた弓を背負い、出口へと歩き出す。
「セテスさんが大声出して騒ぎ始める前に、ボクたちで見つけて取り返そう。……ユーリス、どこを探せばいい?」
「地上から外に出るルートは、すでにバルタザール達に完全に封鎖させてる。となれば、敵が今も身を潜められるのは……地下の旧水路か、完全に封鎖された廃棄区画のどっちかだ」
その時。
教室の重い木製の扉が、ギィィィッ……と、ひどく不快な軋み音を立てて開かれた。
「……血の匂いは、まだしない」
漆黒の分厚い外套に身を包んだエミールが、自身の背丈を超える巨大な死神の鎌を片手で無造作に引きずりながら、音もなく教室へと入ってきた。
ガリッ、ガリッ、と、鎌の刃先が石畳を削る冷たい音が室内に響く。
彼の金色の瞳孔は、すでに暗闇の中で獲物を探す捕食者のように細く収縮していた。
「エミール先生。匂いって……何ですか」
ツィリルが短い敬語で問いかけると、エミールは足を止め、短く「ああ」と頷いた。
「旧水路の奥深くから……腐った泥の臭いに混じって、闇の魔道の残滓が微かに漂っている。……俺の勘だ。間違いない」
「闇の魔道……っ。まさか、あの時の……っ!」
エミールの言葉を聞いた瞬間、モニカの肩がビクッと大きく跳ねた。
かつて地下の暗闇で長期間監禁され、絶望的な孤独を味わわされたトラウマ。それを引き起こした者たちの禍々しい気配がすぐ近くにあると知らされ、彼女の顔から一瞬にして血の気が引き、懐の魔道書を握る指先がコントロールを失ったように小刻みに震え始める。
過呼吸気味になりかけた、その時。
「モニカ。大丈夫だよ。ボクがいるから」
ツィリルがすかさずモニカの横に移動し、彼女の震える肩にポンと無造作に手を置いた。
「えっ……」
「アイツらが相手なら、容赦しない。息の根を全部止めて、フレンを絶対に連れて帰ってくる。……だから、安心してここで待ってて」
ツィリルの硬い手から、ひどく生々しい体温が伝わってくる。
彼の言葉には、根拠のない慰めも、虚勢も一切なかった。ただ「敵を排除し、味方を連れ帰る」という、生存と闘争に基づいた絶対的な事実の宣言だけがあった。
「ツィリル様……っ。はい……!」
ツィリルの真っ直ぐな瞳と、肩から伝わる圧倒的な熱に、モニカの全身の震えは嘘のようにピタリと止まった。
彼が「容赦しない」と断言したのなら、もう何も恐れることはない。モニカは深く深呼吸をし、自らの魔道書を握る手にしっかりと力を込めた。
「……行くぞ」
エミールが、引きずっていた巨大な鎌を乱暴に肩に担ぎ直し、冷え切った殺気を放ちながら出口へと振り返った。
「あのやかましい小娘……俺との平穏な茶の時間を邪魔したばかりか、今日の菓子の味まで泥に落としてくれたこと、ひどく腹立たしい。……攫った者共は、俺の鎌で悉く微塵に斬り刻んでやる」
物騒極まりない言葉を吐き捨てた直後、エミールの漆黒の外套が大きく翻った。
彼はユーリスの案内を待つことすらなく、誰よりも早く、迷いのない大股な足取りで、闇の気配が漂う廊下の奥へと歩き出した。
その歩く速度と、柄を握りしめる腕の筋肉の隆起が、彼がフレンに対して抱き始めている不器用な情動を明確に物語っていた。
「先生。ボクたちは今から、旧水路にフレンを探しに行ってきます。先生は、ここに残って怪我の治療の準備をしておいてください。……もしセテスさんが来たら、適当に誤魔化しておいて」
ツィリルが、教卓の前に立つメルセデスを真っ直ぐに見上げて指示を出した。
「わかったわ、ツィリルくん。……どうか、気をつけてね。あなたも、フレンちゃんも、絶対に無事で帰ってきて」
メルセデスが祈るように胸の前で両手を組む。
「うん。約束する」
ツィリルは最後に力強く頷き、エミールとユーリスの背中を追って、深い闇に包まれた旧水路の奥底へと、足音ひとつ立てずに姿を消していった。
教団の大人たちが騒ぎ出すより早く。冷たい湿気と死の匂いが漂う地下迷宮で、極秘の奪還作戦が静かに幕を開けた。