「ははっ、マジかよ。随分とえげつない手を使ってくるじゃねぇか!」
暗がりの中、シェズが楽しげな声を上げながら身を翻した。
彼がさっきまで立っていた石畳の隙間には、ツィリルの放った黒鋼の矢が深々と突き刺さり、羽の部分が微かに震えている。ツィリルは懐に飛び込む直前、足元に置いた弓を蹴り上げて一瞥もせずに矢を放っていたのだ。
「……外した。やっぱり、普通の人間じゃないね、アンタ」
ツィリルは弓を拾うことを諦め、短剣を両手に逆手で構え直した。
シェズの動きは、ただの筋肉による素早さの限界を超えていた。泥濘む石畳を蹴る音すらさせず、空間そのものを滑るように移動する異様な体術。ツィリルは、全身の筋肉をバネのように収縮させ、その刃の軌道にギリギリのところで食らいついていた。
「随分と小慣れた手つきだな。ボウヤは戦場なんか知らないって顔をしてるが……その泥臭い殺し方はどこで覚えた?」
「シャミアさんやカトリーヌさん、それにエミール先生の特訓から逃げ回るうちにね。綺麗に戦おうとしたら、ボクが殺されちゃうから」
「……はっ。どんな地獄の掃除係だ、そりゃ」
シェズは口角を上げ、再び双剣を低く構え直した。
しかし、ツィリルはその言葉を待たずに、水路の床に溜まった泥水を、ブーツのつま先でシェズの顔面に向けて思い切り蹴り上げた。
「おっと!?」
泥水がシェズの視界を物理的に遮った一瞬の隙。
ツィリルはその死角へと身を沈め、シェズの右足の腱を正確に狙って左手の短剣を薙ぎ払う。
キンッ!!
だが、シェズの左の剣が、まるで最初からそこにあったかのように、ツィリルの刃を正確に弾き落とした。
「惜しいな! だが、その手はさっきの初撃で見たぜ!」
「……っ!」
強烈な力で弾かれた反動により、ツィリルの体勢が右側へと大きく崩れる。その無防備な顔面へ、シェズの右の剣が容赦なく迫る。
避ける時間も、刃で受ける余裕もない。ツィリルはとっさに左腕の分厚い革の籠手を盾にし、顔を庇うようにしてその斬撃を受け止めた。
ガツンッ、という鈍い衝撃音と共に火花が散り、左腕の骨の髄にまで達しそうな激しい痛みが走る。
(……重い。見た目より、ずっと力が強い)
ツィリルは痛みに顔をしかめながらも、衝撃を利用してすぐさま後方へ跳躍し、距離を取って体勢を立て直した。
少しでも重心がブレれば、瞬く間に両断される。
「ツィリル! 無理をするな、俺が代わる!」
後方で、分厚い鉄格子の扉を破壊しようと紫色の魔法陣を展開していたユーリスが、焦燥を含んだ大声を上げた。
そのすぐ横で、モニカも震える手で魔道書を開き、炎の魔法の熱を手のひらに収束させようと構えを取る。
「手出ししないで、ユーリス! モニカも、下がってて!」
ツィリルはシェズの双剣の切っ先から一切視線を外さずに叫んだ。
「こいつの動きは速すぎる。魔法を撃っても避けられて、逆に隙を突かれるだけだ。ボクがこいつを引きつけるから……エミール先生! 早くその扉を開けて!」
「……指示をするな。言われずとも、今、終わる」
鉄格子の前に立つエミールが、両手で握りしめた巨大な死神の鎌の刃先に、禍々しい闇のオーラを限界まで収束させていく。
ギリギリ、ギリッ……と、分厚い鉄の閂が、魔法の圧力に耐えかねて軋み音を立て、内側へ向かってひしゃげ始めていた。
「ははっ、仲間を信じて背中を預ける、か。いい連携じゃねぇか。……だが、俺も雇われの身なんでな。門番の仕事はきっちりこなさせてもらうぜ!」
シェズの姿が、ランタンの灯りの中でフッと完全にブレて消失した。
次に彼の足音が鳴ったのは、ツィリルの後方――扉の破壊に集中しているエミールたちへ向かう直線上の空間だった。
「しまっ……!」
「悪いな、まずは後衛の魔道士から潰させてもらう!」
シェズの右の剣が、完全に無防備なエミールの背中へと鋭く振り下ろされる。
しかし。
ガキィィンッ!!
「……っ!?」
シェズの目が見開かれた。
彼の振り下ろした渾身の剣を、下から交差させた二本の短剣で受け止めていたのは、先ほどまでずっと後方にいたはずのツィリルだった。
彼はシェズの筋肉の動きから瞬間移動の軌道を完全に先読みし、エミールを庇う位置へと自ら飛び込んでいたのだ。
「……アンタの動き、速いけど、狙いが分かりやすすぎるよ。ボクの大事な仲間に、指一本触れさせない」
ツィリルは両手の短剣をクロスさせ、限界まで前傾姿勢をとって自身の全体重を乗せ、シェズの双剣の圧力を必死に抑え込む。
激しい負荷に耐えかね、ツィリルの左肩から、先日イングリットを庇った際に負った縫合直後の傷口が開き、温かい赤い血が教団の制服をどす黒く濡らし始めていた。
「お前……自分も傷を負ってるってのに、なんでそこまで必死に刃を止められる。たかが、おやつの時間を邪魔されただけだろ!?」
至近距離で刃と刃を押し合いながら、シェズが怪訝そうに眉をひそめて問いかける。
「おやつだけじゃない。……フレンは、ボクたちにいつも優しくしてくれた。美味しい紅茶を淹れてくれて、笑いかけてくれた、ボクたちの大事な友達だ」
ツィリルは、シェズの力に押し潰されそうになりながらも、決して短剣の交差を解かなかった。
「ボクの目の前で、ボクの大事な人たちが泣いたり、いなくなったりするのは……絶対に嫌なんだ。そのためなら、アンタの剣の百発くらい、受けてやる!」
ギリィッ、と刃が擦れ合う音が極限まで高まった瞬間。
「……もらった」
ツィリルは、双剣を抑え込んでいた両手の力をフッと完全に抜いた。
突然抵抗を失ったシェズの体勢が、前のめりに大きく崩れる。ツィリルはその崩れたバランスの隙間を縫うようにして、自らシェズの懐へと身を投じた。
すれ違いざま、シェズの右の刃が、ツィリルの脇腹の布地を裂き、浅く肉を切り裂く。
だがツィリルは痛みに顔の筋肉を一切動かすことなく、前のめりになったシェズの首筋へと、逆手に持った短剣の冷たい切っ先をピタリと押し当てた。
「……動かないで。動いたら、切るよ」
静かな宣告。
シェズの双剣もまた、体勢を立て直してツィリルの背中を捉えられる位置にあったが、ほんの一瞬だけ早く、ツィリルの刃の冷たさがシェズの頸動脈に直接触れていた。
「……ははっ。参ったな。俺の負けだ、少年。……まさか、肉を切らせて骨を断つなんて真似を、本気でやってくるとはな」
シェズは小さく息を吐き出すと、両手の双剣をチャキリと音を立てて腰の鞘に収めた。
彼もまた、すでに勝敗が決した状況で無駄に命を散らすような真似はしない。両手を軽く肩の高さまで上げ、降伏の意思を示した。
ズガァァァンッ!!
その直後。エミールの放った死神の鎌の一撃が、ついに分厚い鉄格子の扉を蝶番ごと完全に粉砕した。
重い鉄塊が水路の床に崩れ落ち、盛大な水飛沫と泥が周囲に高く跳ね上がる。
「……開いたぞ。ツィリル」
エミールが鎌を片手で軽々と持ち上げ、殺気を燻らせながら、扉の奥の深い暗闇を睨みつける。
「開いたか。……なら、俺の門番としての仕事はここまでだ。契約不履行で報酬は減額だろうが、命があっただけマシってもんだな」
シェズはツィリルの短剣の切っ先からゆっくりと後退し、距離を取った。
「……アンタ、フレンに酷いことはしてないよね」
ツィリルが、短剣を逆手に構えたまま油断なくシェズを睨みつける。
「俺はしてねぇよ。だが……奥にいる覆面の魔道士どもは、どうだかな。さっきから、妙に血生臭い匂いと、気味の悪い詠唱の響きがここまで聞こえてきてたしな」
シェズは肩をすくめ、忌々しそうに粉砕された扉の奥へ視線を向けた。
「俺の雇い主は、こんな『血の儀式』みたいな真似は望んじゃいなかったはずだが……ま、俺の知ったこっちゃねぇな。……ほら、早く行ってやれよ。お前の大事な友達が、待ってるんだろ?」
「……うん。ユーリス、モニカ、エミール先生。行くよ」
ツィリルはシェズから視線を外し、血の滴る脇腹の傷口を片手で強く押さえながら、迷うことなく粉砕された扉の奥――血と泥の匂いが渦巻く深部へと足を踏み入れた。
暗闇へと迷いなく飛び込んでいく少年の小さな背中を、シェズは無言のまま見送っていた。