帝国暦1180年、角弓の節。
陽の光が一切届かない、ガルグ=マク大修道院の地下旧水路の最奥部。
ランタンの光さえ届かない暗がりの中、冷たい泥水に濡れた石造りの祭壇の上には、意識を失ったフレンが横たわっていた。彼女の細い手足は、無骨な麻縄で祭壇の四隅のリングに固く縛り付けられている。
その周囲を囲むように、禍々しい鳥の嘴のようなペストマスクで顔を覆った魔道士たちが数人、薄暗い部屋の中心に描かれた赤黒い光を明滅させる魔法陣を取り囲み、耳障りな低音で詠唱を続けていた。
「……フレンッ!」
粉砕された扉の破片が泥水に沈むよりも早く。
誰の指示を待つこともなく、一直線に祭壇へと駆け出したのはエミールだった。
漆黒の分厚い外套が風を切り、彼が右手に引きずる死神の鎌の柄が、濡れた石畳と激しく擦れて火花を散らす。
「な、何だ貴様らは!? ええい、血の採取は済んだ! 早くそれを転送陣へ放り込め! 迎撃しろ!」
祭壇のすぐ横に立っていた魔道士の一人が、赤黒い液体の入った小さな小瓶を背後の明滅する魔法陣へと放り投げながら、もう一方の手に握った杖をエミールに向けて突き出し、闇の魔法の呪文を口走ろうとした。
「……遅い」
兜の奥から、獣の唸り声のような低い呼気が漏れる。
「……死ね」
石造りの小部屋に、突風が巻き起こった。
エミールの太い両腕によって限界まで振り被られ、水平に薙ぎ払われた巨大な死神の鎌が、空気を圧縮して叩き斬るような凄まじい風切り音を立てた。
重い黒鋼の湾曲した刃は、魔道士たちの掲げた金属製の杖ごと、彼らの胴体を一切の抵抗もなく真っ二つに薙ぎ払った。
「ぎゃあああッ!?」
「ひ、ひぃぃっ! ば、化け物……ッ!」
「化け物で構わん」
エミールの金色の瞳孔が、極限まで細く収縮する。
彼は返り血を浴びることすら厭わず、倒れ込んだ魔道士の胸ぐらを踏みつけ、さらに二度、三度と、物言わぬ肉塊になるまで無慈悲に鎌を振り下ろした。
「……貴様らが俺の茶の時間を奪ったという、その事実だけが、万死に値する……ッ」
彼が日常の中で唯一心を許している、メルセデスとフレンと共に過ごす、穏やかなティータイム。
その平穏な時間を不当に奪われ、茶と菓子の味を泥に落とされたことに対する純粋な怒りだけが、今のエミールの暴力のすべてを突き動かしていた。
ツィリルとユーリス、そしてモニカたち灰狼の生徒が後続の魔道士たちを抑え込み、退路を塞いで炎の魔法と短剣で処理していく。
その一方的な蹂躙の音を背に受けながら、エミールは誰よりも早く、フレンの眠る冷たい石の祭壇へと到達した。
「フレン」
エミールは血で濡れた巨大な鎌を石畳の上にガシャンと無造作に落とすと、腰から抜いた護身用の短剣で、彼女の細い手足を縛っていた麻縄を素早く、しかし決して肌を傷つけないように慎重に切断した。
そして、泥に汚れた自身の分厚い両手で、彼女の小さな身体をそっと抱き起こす。
首筋に二本の指を当て、脈拍のリズムを確認する。
さらに、彼女の細い白い腕に固く巻かれた止血の布切れと、そのすぐ下にある、鋭利な刃物で穿たれたような真新しい傷跡を見つけた。
(……何かされた後か。さっきの小瓶……)
だが、フレンの唇の色はそれほど悪くない。
胸の上下運動も、首筋から伝わる心臓の鼓動も、一定の力強さと規則正しさを保っている。貧血で命を落とすような量ではなく、本当にわずかな採血だったと分かる。
(……命に別状はない)
エミールは短くホッと息を吐き、血と泥で汚れた自身の手のひらを漆黒のマントの裏側で擦って拭うと、彼女の少し冷たくなった白い頬を、自らの手の甲で軽く、優しく叩いた。
「フレン。起きろ。こんな冷たい石の上で寝ていたら、風邪を引くぞ」
「ん……んん……」
フレンがゆっくりと、薄緑色の長い睫毛を微かに震わせて目を開けた。
「あ、れ……? わたくし、地上の図書室で、急に甘い香りがして……」
「賊に攫われて、地下のこの水路に寝かされていたのだ。……だが、もう案ずるな」
フレンの焦点が徐々に合い、目の前にいる泥と血にまみれた、しかしいつもより必死な色を湛えた騎士の兜越しの瞳を映し出す。
「エ、エミール……先生? どうして、あなたがここに……それに、あなた、腕から血が……っ!」
「こんなかすり傷、どうということはない。それより、お前の身体の方が冷え切って危ない。……しっかり捕まっていろ」
エミールは、泥水に濡れた自身の分厚い外套を脱ぎ捨てると、下に着ていた比較的乾いている軍服の上着を乱暴に脱ぎ、フレンの小さな肩にしっかりと掛けた。
そして、彼女の膝裏と背中に両腕を回し、その身体をいとも容易く横抱きに持ち上げた。
「きゃっ……!?」
「手がひどく冷たくなっている。早く戻って、メルセデスの淹れた温かい紅茶を飲まねばな」
エミールの太い腕の力強さと、薄手のシャツ越しにダイレクトに伝わってくる、彼自身の脈打つような熱い体温。
フレンは自分がどれほど恐ろしく、生命の危機に瀕した状況に置かれていたかを頭で理解すると同時に、この無骨で不器用な男が、自分のために本気で怒り、血を流してこの暗闇の底まで助けに来てくれたという事実に、胸の奥がギュッと強く締め付けられた。
「あ、あなたが……わたくしを、助けてくださったのですか……?」
「俺だけではない。ツィリルたちも、お前がいなくなってひどく怒っていたからな」
エミールの背後では、ツィリルたちが残党の魔道士を完全に無力化し、旧水路には再び重く冷たい静寂が戻っていた。
「……終わったぜ。エミール先生、フレンの様子はどうだ?」
ユーリスが、自身の紫色の前髪に付着した微かな血の匂いを顔の前で払いながら近づいてくる。
「怪我はない。だが、石の祭壇に寝かされていたせいで身体がひどく冷え切っている。早く戻ろう」
「そうだな。……おいお前ら、早くフレンを俺たちの教室に運ぶぞ。セテスのおっさんにバレたら、アビスの完全封鎖騒ぎになりかねねぇ」
ユーリスの指示に、ツィリルとモニカも無言で頷き、水路の出口へと急ぐ。
「……エミールさん。わたくし……」
エミールの腕の中で、フレンが震える両手を彼の首の後ろに回し、その胸元に自身の顔をギュッと深く埋めた。
「どうした? どこか痛むのか?」
「いえ……違います。ただ……あなたの体温が、とても温かくて……安心、したのです……」
フレンの閉じられた瞳の端から、安堵の涙がポロポロとこぼれ落ち、エミールのシャツの胸元に温かい染みを作っていく。
「……そうか。俺の体温で安心するというのなら……教室に帰るまでずっと、こうして抱えていてやろう。だから、もう泣くな」
エミールは、首に回された彼女の細い腕の感触に少しだけ戸惑いながらも、空いた手で彼女の背中をポンポンと不器用なリズムで撫でながら、旧水路の出口へと急いだ。
***
――数十分後。灰狼の学級、教室。
「フレンちゃん! ああ、無事でよかった……っ!」
教室の重い扉が開くなり、待機していたメルセデスが小走りで駆け寄り、エミールの腕からフレンを受け取って力強く抱きしめ、分厚く温かいウールの毛布で彼女の身体をすっぽりとくるんだ。
教室の隅のストーブには赤々と火が焚かれ、中央の木製のテーブルの上には、湯気を立てる極上の紅茶が注がれたティーカップと、焼き立ての甘い匂いを漂わせるクッキーが用意されている。
「さあ、身体が冷えないうちにこの紅茶を飲んで。ツィリルくんも、早くその腕の傷の手当てを……」
「ボクは後でいいよ。先にフレンに温かいものを飲ませてあげて……」
バンッ!!!
ツィリルが言いかけたその時、教室の重い木製の扉が、蝶番から外れんばかりの凄まじい勢いで開け放たれた。
「フ、フレンッ!! 私の愛しいフレン!! どこだ!!」
血相を変え、普段はきっちりと整えられている緑色の髪を振り乱したセテスが、肩で大きく息を荒げながら教室に転がり込んできた。
彼の首元のネクタイは大きく歪み、額には冷や汗が滲んでいる。彼がこれほどまでに理性を失い、取り乱した姿を見せるのは、大修道院の中でも極めて異例のことだった。
「きゃっ!? お、お兄様!?」
「おお……おおおおフレン! 無事だったか! いつまで経ってもお前が地上の部屋に戻らないから、私はてっきり何者かに誘拐されたのではないかと……っ!」
セテスはメルセデスの横に駆け寄り、毛布にくるまれたフレンの肩を両手で力強く抱きしめた。
「あ、あのね、お兄様。わたくしは……」
フレンが旧水路での真実を話そうとした瞬間。
「……セテス殿、ひどく騒がしいですね。せっかくのお茶会が台無しではないですか」
メルセデスの背後で、自らの腕の傷に包帯を巻いていたエミールが、兜を脱いだ素顔のまま、しれっとした顔で口を挟んだ。
「なっ……! お前たち、こんな地下でお茶会をしていたというのか!? こんな夜更けまで、フレンを地上へ帰しもしないで……っ!」
セテスが眉間を深く寄せ、エミールとツィリルを鋭く睨みつける。
「はい。メルセデスが珍しい異国の茶葉と菓子を用意してくれましたから。フレンはそれを食べるのを朝からとても楽しみにしておりまして、時間が経つのを忘れていたようです」
エミールは、瞬き一つせず、息をするように自然に事実を完全に捻じ曲げ、平然と答えた。
「な……っ」
「それに、ボクがずっと一緒にいたんだから、フレンが迷子になったり誘拐されたりするわけないじゃないですか。……いくら心配でも、大袈裟に騒ぎすぎです、セテスさん」
ツィリルもまた、エミールの嘘に便乗し、セテスに向けて容赦のないドライな事実を突きつけた。
「ぐぬぬ……っ! ええい、エミール! ツィリル! いくら君たちが護衛していたとはいえ、夜更けまで連絡もなしにお茶会など、非常識極まりない! ……だが、フレンに怪我がなく、本人が楽しんでいたと言うのなら……」
セテスは不承不承ながらも、ツィリルの「自分が一緒にいた」という言葉と、フレンの無事な姿を前に、怒りの矛をゆっくりと収めていった。
背後の暗がりでは、ユーリスやモニカが背を向け、必死に肩を震わせて笑いを堪えている。
「……エミールさん。ふふっ」
フレンは、セテスに抱きしめられながらも、エミールの方を見て小さく、柔らかな微笑みを浮かべた。
自分を命懸けで暗闇の冷たい石の祭壇から救い出してくれた上に、お兄様に無用な心配をかけないよう、この場にいる全員が口を裏合わせ、すべてを『ただのお茶会』の延長として庇ってくれた。
(この方は……本当に、不器用で、優しくて……頼もしい方ですわね……)
温かく甘い紅茶の香りが満ちる灰狼の教室で。
毛布にくるまれたフレンは、セテスの過保護な監視の目すらもすり抜けて、自身を助け出してくれたエミールの横顔を、どこか熱を帯びた瞳で静かに見つめ続けていた。