帝国暦1180年、星辰の節を目前に控えた、飛竜の節。
底冷えする強風が、丈の高い枯れ草を波のように揺らしながら吹き抜けるグロンダーズ平原。
広大な盆地状の戦場の底からは、士官学校の生徒たちが張り上げる怒号と、訓練用の武器が激しくぶつかり合う甲高い金属音が、絶え間なく空へと響き渡っていた。
年に一度の各学級対抗戦『鷲獅子戦』。
青獅子、黒鷲、金鹿。三つの学級が己の誇りを懸けて激突するその大舞台を、戦場を見下ろす位置にある小高い丘の上に設けられた観客席から、特例で観戦を許可された灰色学級(灰狼組)の面々は静かに見下ろしていた。
「……黒鷲の連中、他の級と比べてやけによく動くぜ。ベレト先生の陣形の采配が見事なんだろうな。遊撃の配置に一切の無駄がねぇ」
木製の分厚い手すりに両肘を突き、冷たい風に紫色の前髪を揺らしながら、ユーリスが感心したように目を細めた。
彼の視線の先では、黒鷲の生徒たちが中央の弓砲台の制圧に向けて、極めて統率の取れた動きで前線を押し上げている。
「……そういや、前に俺たちがレア様に極秘に報告した『フレンを攫った魔道士ども』の件。今、裏で教団の騎士団が本格的に調査に動いてるらしいぜ。セテスのおっさんには夜の地下でのお茶会ってことで通したが、さすがにレア様に完全な隠し事はできねぇからな」
ユーリスは、戦場から視線を外さずに、隣に立つツィリルに向けて声を落として言った。
「しかし、あいつら、わざわざリスクを冒して大修道院の地下まで潜り込んでフレンを攫って、少し血を抜いただけで逃げやがった。……一体何がしたかったんだ?」
「……あいつらが何をしたかったかなんて、ボクには関係ないよ。フレンは無事だったし、今はここで、ボクたちの隣でメーチェの淹れてくれたお茶を飲んでる。それだけだ」
ツィリルは、観客席の長椅子に座り、メルセデスの淹れた温かいハーブティーを嬉しそうに飲んでいるフレンの横顔を一瞥し、一切の抑揚のない、ただの事実の確認として淡々と述べた。
「あの時、エミール先生やユーリスたちが手伝ってくれなかったら、ボク一人じゃフレンを助け出せなかったかもしれない。……ボクはみんなみたいに魔法も使えないし、腕力もないから。アレが精一杯だったし、自分の手が届く範囲の人間しか守れない」
ツィリルは、自身の腰に帯びた短剣の柄を無意識に指先でなぞった。
彼の言葉には、過度な謙遜も、逆に背伸びをした強がりも存在しない。パルミラの過酷な戦場で培われた、自分の身体能力と技術の限界値に対する、極めて冷徹なまでの自己評価。
「ツィリルさん。どうか、ご自分を卑下なさいませんように。わたくしは、あなたが真っ暗な地下水路の奥底まで、血を流して助けに来てくださったこと……一生忘れませんわ」
フレンがティーカップを両手で包み込むように持ちながら、ツィリルに向けて深く、そしてどこか熱を帯びた瞳で微笑みかけた。
「ふはははっ! それにしても、下じゃ面白ぇ殴り合いをやってるじゃねぇか!」
フレンの言葉を掻き消すように、バルタザールが観客席の最前列まで身を乗り出し、平原の激戦に向けて野太い歓声を上げた。
「おいツィリル、見ろよ! ラファエルの野郎、一人で敵に突っ込んでいきやがった! いい筋肉してやがるぜ! 俺も混ざりてぇ!」
「……退屈だ」
バルタザールの喧騒の背後。観客席の最後列に置かれた長椅子に深々と腰掛け、目を閉じていたエミールが、ひどく面白くなさそうに腕を組んだ。
「どいつもこいつも、殺意が足りん。あんな刃を引いた訓練用の武器では、俺の肉一枚、皮一枚すら裂けはしない。……児戯に等しい」
「エミール先生から見たら、あんなの遊びみたいなもんでしょ。……あっ」
平原を見下ろしていたツィリルが、ふいに身を乗り出し、木製の手すりをミシッと音を立てて強く握りしめた。
「イングリット……そこ、足場がぬかるんでるのに。馬が転んだらどうするんだよ……っ」
ツィリルの視線の先。
戦場の東側の森の切れ目。青獅子の学級のイングリットが、自軍の本隊から大きく離れ、単騎で金鹿陣営の側面に深く斬り込んでいた。
冷たい風が、彼女の金色の髪を激しく後ろへと煽る。
イングリットは、ペガサスではなく地上の騎馬に跨り、愛用の銀の槍を握りしめていた。
彼女の呼吸は浅く、速い。周囲には複数の敵兵が迫っているが、彼女の意識の半分は、目の前の敵ではなく、遥か後方の高台――ツィリルのいる観客席へと向けられていた。
(……この距離なら。ここからなら、あの場所から私が見えるはず)
地下水路での凄惨な死闘。
あの暗闇の中で、自分の命を投げ打ってでも自分を守り抜き、そして『ボクの側にいて』と、不器用で、けれど圧倒的な熱量で自分を繋ぎ止めた少年の体温。
その熱が、今もイングリットの左肩の奥底で、焼印のように熱く燻り続けている。
彼女は、自分がただ守られるだけの脆弱な存在ではないことを、彼に証明したかった。
騎士としての誇りを取り戻すためではない。ただ、彼の『群れ』の隣に立つに相応しい、自分の強さを、彼の一つの瞳に焼き付けたかった。
「はぁぁッ!!」
イングリットが手綱を鋭く引き、騎馬を泥濘む足場から強引に横へと滑らせる。
すれ違いざまに放たれた槍の穂先が、敵兵の訓練用の鎧の隙間を正確に捉え、鈍い音と共に相手を馬から叩き落とした。
彼女は槍を振り抜いた直後、馬の首筋に顔を伏せながら、ほんの一瞬だけ、高台の方へと視線を投げた。
遠すぎて表情までは読み取れない。だが、身を乗り出して手すりを握りしめている小さなシルエットの輪郭が、確実に自分の方を向いていることだけは分かった。
イングリットの胸の奥で、心臓が大きく跳ねる。
顔にこびりついた泥の冷たさも、疲労による筋肉の痛みも、その瞬間にすべて消え去った。
「もー、面倒くさいなぁ……! えいっ!」
イングリットの活躍から少し離れた中央付近。
金鹿の学級のヒルダが、自身の身の丈ほどもある巨大な銀の斧を、まるで小枝のように軽々と振り回して前線を押し上げていた。
口ではいつものように「帰りたい」「面倒くさい」と愚痴をこぼしながらも、彼女の足の踏み込みには一切の手抜きがない。むしろ、平時の彼女からは想像もつかないほど、好戦的に、そして前のめりに敵陣へと突っ込んでいく。
「ヒルダ、あんな重い斧……大振りしたらバランス崩して危ないじゃないか! ほら、右の茂みから来てる! リシテア、早く援護して……っ!」
高台からのツィリルの警告の声など、風と怒号に掻き消されて平原に届くはずもない。
だが、ツィリルが声を上げたのとほぼ同時のタイミングで、ヒルダの背後の茂みから飛び出そうとしていた敵兵の足元で、強烈な紫色の爆発が起きた。
ドォォォンッ!!
「……ふぅっ」
ヒルダの背後で杖を構えていたリシテアが、額に浮かんだ汗を乱暴に手背で拭い、小さく息を吐き出した。
リシテアの放った『ドーラΔ』の闇魔法が、敵兵をまとめて吹き飛ばしたのだ。
ツィリルはホッと息を吐き、手すりを握っていた手の力を抜き、安堵で肩を落とした。
ヒルダは、敵が吹き飛んだ土煙が晴れるよりも早く、重い斧を肩に担ぎ直し、チラリと、本当にわずかな視線の動きだけで高台を見上げた。
リシテアもまた、杖を両手でギュッと強く握りしめながら、足元の泥濘に視線を落としつつ、時折、焦りを孕んだような瞳でチラチラと観客席の方角へと顔を向けている。
「……みんな、本当に必死ね」
黒鷲の陣営の後方で、魔法による火力支援を行っていたドロテアが、他学級のエース女子たちの異様なまでの前のめりな動きを視界の端に捉え、艶やかな唇にクスリと笑みを浮かべた。
ドロテアは魔道書をパタンと閉じ、冷たい風に乱れた髪を指先で梳きながら、小さく息を漏らす。彼女の視線の先には、平原の泥に塗れながらも、遥か高台の観客席へ向けて熱っぽい視線を投げかける少女たちの姿があった。
彼女は自身の魔道書をパタンと閉じ、冷たい風に乱れた長いブラウンの髪を指先で優雅に梳きながら、小さく息を漏らす。
「お前、さっきから姑みたいに口うるさいぜ」
観客席で、戦況の推移にハラハラと肩を揺らしているツィリルに向け、ユーリスが苦笑しながら肩をすくめた。
「だって、ヒルダもイングリットもリシテアも、みんな危なっかしい動きをしてるもの……っ。あんなに前に出たら、囲まれた時に逃げられないよ」
ツィリルは、ユーリスの軽口に一切気を留めることなく、再び祈るように手すりを強く握りしめた。
彼の瞳は、平原で泥にまみれながら戦う少女たちの姿を、ただ一つのエラーも見逃さないように、瞬きすら忘れて追い続けている。
やがて、平原の空に長く低く響き渡る角笛の音が、今年の鷲獅子戦の完全な終了を告げた。
激戦を制し、中央の弓砲台の丘に自学級の旗を立てたのは、ベレト率いる黒鷲の学級だった。
「……終わった」
ツィリルが、肺の底に溜まっていた空気をすべて吐き出すように、長く、深い安堵の息を漏らした。
「みんな、大きな怪我はないみたいだ。……よかった」
フィールド上では、各級長たちが互いの健闘を讃え合い、黒鷲の生徒たちが歓喜の声を上げている。
武器を下ろし、肩で息をする生徒たちの間で、治療用の白魔法の淡い光がいくつも灯り始めていた。
だが。
イングリットは、泥に汚れた愛馬の首筋を撫でながら。
ヒルダは、重い斧を地面に突き立て、その柄に寄りかかりながら。
リシテアは、乱れた白い髪を整えるふりをしながら。
彼女たちの瞳には、すでに自学級の勝利や敗北の余韻、あるいは他学級との交流に向けた感情の動きは、一切残っていなかった。
彼女たちの視線は、周囲の歓騒を完全に切り捨てるように、一直線に高台の観客席に向けられていた。
そして、その泥に汚れた顔は、冷たい秋の風に吹かれているにも関わらず、ひどく熱っぽく、そして隠しきれない強い光を帯びていた。