帝国暦1176年。ファーガス神聖王国、王都フェルディア。
北の大地特有の、肌を刺すような凍てつく猛吹雪が、分厚い石造りの魔道学院の窓ガラスを暴力的に叩き据えている。
図書室の最奥。暖炉の火が微かに届く特等席で、メルセデス・フォン・マルトリッツは、一通の羊皮紙の手紙に目を落としていた。
『……姉さんへ。今日の修練も無事に終わった。最近、アロイスという髭の騎士が俺の担当になった。俺が剣を振るうたびに「おおっ、鋭い剣閃(けんせん)に目が眩んで、新鮮(しんせん)な気分だ!」などと大声で叫ぶ。全く意味がわからない。正直、殺意よりも先に頭痛がする。だが……彼の大声を聞いている間だけは、俺の中の暗闇が静かになる気がするんだ』
「うふふ……ふふっ」
メルセデスは手紙を胸に抱き寄せ、甘く、柔らかな吐息を漏らした。
弟は、あの恐ろしい『死神』の衝動を、教団の光の中で必死に鎖へ繋ぎ止めている。遠く離れていても、彼が生きているという確かな脈動が、便箋越しにメルセデスの碧い瞳を潤ませた。
ガルグ=マクでの凄惨な逃避行から数年。
十五の歳でこの学院へ特待生として迎えられた彼女の身体は、レアの庇護下で十分な栄養と安寧を与えられたことで、恐ろしいほどの『成熟』を遂げていた。
修道服の胸元は、すでに布地の限界を思わせるほどに豊満な双丘を張り出させ、彼女が息をするたびに、白檀と百合が混ざり合ったような、酷く甘く、ねっとりとした『雌』の香りを周囲に撒き散らしている。
(エミールも、頑張っている……。私も、あの夜にレア様から与えられた光を、誰かに分け与えられるようにならなきゃ)
彼女がゆっくりと立ち上がろうとした、その時だった。
――ドンッ! バサバサバサッ!!
図書室の薄暗い通路の奥から、大量の分厚い魔道書が雪崩を起こす重い音が響いた。
「っ……くうぅ……っ!」
書架の陰。床に散乱した古文書の山の中で、薄紫色の髪をした少女が、痛みに顔を歪めながら這いつくばっていた。
コンスタンツェ・フォン・ヌーヴェル。
前年に勃発したダグザ・ブリギット戦役で、帝国七貴族であった生家を理不尽に滅ぼされ、すべてを失った没落貴族の令嬢。
「い、痛くなど……ありませんわ! この程度の本の重み、ヌーヴェル家の次期当主たるわたくしには、綿毛も同然……っ!」
彼女は誰に言い訳するでもなく、震える手で本を拾い集めようとしている。
しかし、その指先は北国の尋常ではない寒さと、連日の極限の睡眠不足、そして「家名復興」という呪いのような重圧によって、氷のように冷え切り、白く痙攣していた。
「……あら」
メルセデスは音もなく歩み寄り、床に散らばる本ごと、コンスタンツェの震える小さな両手を、自身の白く滑らかな手でふわりと覆った。
「ひゃっ!?」
「無理をしてはだめよ。指先が、こんなに氷みたいになっているじゃない」
「な、何ですの貴女は! わたくしに気安く触れ――っ!?」
コンスタンツェが強がり、手を振り払おうと顔を上げた瞬間。
彼女の視界を塞いだのは、見知らぬ生徒の顔ではなかった。
「ふふっ。ごめんなさいね、驚かせてしまって」
眼前に迫る、圧倒的な白い肌と、慈愛に満ちた碧い瞳。
そして、鼻腔をくすぐる、ずっと昔から知っている甘い香り。
「え……?」
コンスタンツェの薄紫色の瞳が、極限まで見開かれた。
「め、メルセデス……お姉、様……?」
「うふふ。やっぱりコンスタンツェね。すっかり大きくなっちゃって……」
***
帝国暦1176年。フェルディア魔道学院の、陽の差し込む中庭。
「ああ……わたくしのような地を這う羽虫が、お姉様と同じ空気を吸うなど、万死に値する愚行……。どうか、このまま土に還ることをお許しくださいませ……」
薄紫色の髪の少女――コンスタンツェは、先程までの高飛車な態度が嘘のように、日向の石畳の上に這いつくばり、この世の終わりのような声で懺悔を繰り返していた。
没落のショックと、過酷な逃亡生活の果てに彼女が発症した、陽の光を浴びると極端に卑屈になるという奇妙な体質。周囲の生徒たちは気味悪がって遠巻きに見ていたが、メルセデスだけは違った。
「うふふ、相変わらずコンスタンツェは忙しいのね~。はい、温かい紅茶が入ったわよ。今日はあなたの大好きな、リンゴのタルトも焼いてきたの」
メルセデスは、地面で震えるコンスタンツェの隣にふわりとしゃがみ込むと、美しい陶器のティーカップをそっと差し出した。
「お、お姉様……? わたくしのような価値のない泥人形に、そのような優しさを……?」
「泥人形だなんて、そんなことないわ。日陰で誇り高く笑うあなたも、こうして日向でしょんぼりしているあなたも、どちらも私の大好きな、可愛い妹のコンスタンツェだもの」
メルセデスの碧い瞳には、一切の困惑も、憐れみもなかった。
ただ純粋に、目の前の少女のすべてを『肯定』する、底なしの慈愛だけが広がっている。
「あっ……あぁ……」
コンスタンツェの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
家を失い、誰にも理解されないこの奇妙な体質を抱え、たった一人で戦ってきた彼女にとって、メルセデスのその「無条件の受容」は、どんな強力な魔道よりも劇的な魔法だった。
「お姉様ぁ……っ」
「さあ、お茶が冷めないうちにいただきましょう?」
日向の中で、コンスタンツェは震える手でメルセデスの修道服の袖を強く、決して離さないように握りしめた。