擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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プロローグ④

帝国暦1176年。ファーガス神聖王国、王都フェルディア。

北の大地特有の、肌を刺すような凍てつく猛吹雪が、分厚い石造りの魔道学院の窓ガラスを暴力的に叩き据えている。

 

図書室の最奥。暖炉の火が微かに届く特等席で、メルセデス・フォン・マルトリッツは、一通の羊皮紙の手紙に目を落としていた。

 

『……姉さんへ。今日の修練も無事に終わった。最近、アロイスという髭の騎士が俺の担当になった。俺が剣を振るうたびに「おおっ、鋭い剣閃(けんせん)に目が眩んで、新鮮(しんせん)な気分だ!」などと大声で叫ぶ。全く意味がわからない。正直、殺意よりも先に頭痛がする。だが……彼の大声を聞いている間だけは、俺の中の暗闇が静かになる気がするんだ』

 

「うふふ……ふふっ」

 

メルセデスは手紙を胸に抱き寄せ、甘く、柔らかな吐息を漏らした。

弟は、あの恐ろしい『死神』の衝動を、教団の光の中で必死に鎖へ繋ぎ止めている。遠く離れていても、彼が生きているという確かな脈動が、便箋越しにメルセデスの碧い瞳を潤ませた。

 

ガルグ=マクでの凄惨な逃避行から数年。

十五の歳でこの学院へ特待生として迎えられた彼女の身体は、レアの庇護下で十分な栄養と安寧を与えられたことで、恐ろしいほどの『成熟』を遂げていた。

修道服の胸元は、すでに布地の限界を思わせるほどに豊満な双丘を張り出させ、彼女が息をするたびに、白檀と百合が混ざり合ったような、酷く甘く、ねっとりとした『雌』の香りを周囲に撒き散らしている。

 

(エミールも、頑張っている……。私も、あの夜にレア様から与えられた光を、誰かに分け与えられるようにならなきゃ)

 

彼女がゆっくりと立ち上がろうとした、その時だった。

 

――ドンッ! バサバサバサッ!!

 

図書室の薄暗い通路の奥から、大量の分厚い魔道書が雪崩を起こす重い音が響いた。

 

「っ……くうぅ……っ!」

 

書架の陰。床に散乱した古文書の山の中で、薄紫色の髪をした少女が、痛みに顔を歪めながら這いつくばっていた。

コンスタンツェ・フォン・ヌーヴェル。

前年に勃発したダグザ・ブリギット戦役で、帝国七貴族であった生家を理不尽に滅ぼされ、すべてを失った没落貴族の令嬢。

 

「い、痛くなど……ありませんわ! この程度の本の重み、ヌーヴェル家の次期当主たるわたくしには、綿毛も同然……っ!」

 

彼女は誰に言い訳するでもなく、震える手で本を拾い集めようとしている。

しかし、その指先は北国の尋常ではない寒さと、連日の極限の睡眠不足、そして「家名復興」という呪いのような重圧によって、氷のように冷え切り、白く痙攣していた。

 

「……あら」

 

メルセデスは音もなく歩み寄り、床に散らばる本ごと、コンスタンツェの震える小さな両手を、自身の白く滑らかな手でふわりと覆った。

 

「ひゃっ!?」

「無理をしてはだめよ。指先が、こんなに氷みたいになっているじゃない」

 

「な、何ですの貴女は! わたくしに気安く触れ――っ!?」

 

コンスタンツェが強がり、手を振り払おうと顔を上げた瞬間。

彼女の視界を塞いだのは、見知らぬ生徒の顔ではなかった。

 

「ふふっ。ごめんなさいね、驚かせてしまって」

 

眼前に迫る、圧倒的な白い肌と、慈愛に満ちた碧い瞳。

そして、鼻腔をくすぐる、ずっと昔から知っている甘い香り。

 

「え……?」

コンスタンツェの薄紫色の瞳が、極限まで見開かれた。

 

「め、メルセデス……お姉、様……?」

「うふふ。やっぱりコンスタンツェね。すっかり大きくなっちゃって……」

 

***

 

帝国暦1176年。フェルディア魔道学院の、陽の差し込む中庭。

 

「ああ……わたくしのような地を這う羽虫が、お姉様と同じ空気を吸うなど、万死に値する愚行……。どうか、このまま土に還ることをお許しくださいませ……」

 

薄紫色の髪の少女――コンスタンツェは、先程までの高飛車な態度が嘘のように、日向の石畳の上に這いつくばり、この世の終わりのような声で懺悔を繰り返していた。

没落のショックと、過酷な逃亡生活の果てに彼女が発症した、陽の光を浴びると極端に卑屈になるという奇妙な体質。周囲の生徒たちは気味悪がって遠巻きに見ていたが、メルセデスだけは違った。

 

「うふふ、相変わらずコンスタンツェは忙しいのね~。はい、温かい紅茶が入ったわよ。今日はあなたの大好きな、リンゴのタルトも焼いてきたの」

 

メルセデスは、地面で震えるコンスタンツェの隣にふわりとしゃがみ込むと、美しい陶器のティーカップをそっと差し出した。

 

「お、お姉様……? わたくしのような価値のない泥人形に、そのような優しさを……?」

「泥人形だなんて、そんなことないわ。日陰で誇り高く笑うあなたも、こうして日向でしょんぼりしているあなたも、どちらも私の大好きな、可愛い妹のコンスタンツェだもの」

 

メルセデスの碧い瞳には、一切の困惑も、憐れみもなかった。

ただ純粋に、目の前の少女のすべてを『肯定』する、底なしの慈愛だけが広がっている。

 

「あっ……あぁ……」

 

コンスタンツェの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

家を失い、誰にも理解されないこの奇妙な体質を抱え、たった一人で戦ってきた彼女にとって、メルセデスのその「無条件の受容」は、どんな強力な魔道よりも劇的な魔法だった。

 

「お姉様ぁ……っ」

「さあ、お茶が冷めないうちにいただきましょう?」

 

日向の中で、コンスタンツェは震える手でメルセデスの修道服の袖を強く、決して離さないように握りしめた。

 

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