帝国暦1180年、飛竜の節。
底冷えする強風が吹き荒れていたグロンダーズ平原での激戦の熱も冷めやらぬ、夜のガルグ=マク大修道院。
広大な石造りの食堂には、巨大な暖炉の炎が赤々と燃え上がり、串刺しにされた獣肉の焼ける脂の匂いと、強い香辛料の香りが立ち込めていた。
年に一度の鷲獅子戦の終了を祝う盛大な宴が催され、青獅子、黒鷲、金鹿の三学級の生徒たちが陣営の枠を超えて入り乱れ、天井のステンドグラスを震わせるほどの喧騒が響き渡っている。
「がはははっ! いい力してんじゃねぇか、ラファエル! だが、レスターの格闘王の腕を倒すには、あと百年早いぜ!」
「うおおおおッ! バルタザールさん、すっげえ腕力だ! オデ、絶対に負けねえぞ!!」
「……ふふっ、二人とも素晴らしい筋力だ。だが、手加減はしない。次は俺が相手になろう!」
食堂の中央。長机を挟んで、バルタザールと金鹿のラファエル、そして青獅子の級長ディミトリが、木の天板がひしゃげるほどの腕相撲の熱戦を繰り広げていた。
男たちの太い腕の筋肉が隆起し、周囲を囲む生徒たちの歓声と怒号が、場にさらなる熱気をもたらしている。
その筋肉と汗の喧騒から少し離れた壁際のテーブルでは、まったく質の違う空気が流れていた。
「ねえ、君。アビスから来たハピちゃんだよね? すっごく可愛いじゃん。俺とこの後、二人で美味しいお茶でも……」
「……やれやれ。あんたみたいな計算透けてるチャラ男、一番疲れるんだけど。あっち行ってて」
「えっ、あ、ちょっ……俺、まだ何も……!」
息をするように軽薄な口説き文句を放ったシルヴァンを、ハピがいつもの気怠げな瞳で一瞥し、テーブルの上のハエでも追い払うように小さく右手を振った。
常に魔獣の脅威と隣り合わせで生き、人間の醜悪な欲望を幾度も見てきた彼女にとって、下心見え見えの王国貴族の誘いなど、欠片ほどの興味も湧かない事実だった。
「〜♪ 沼地の底で〜、ドロドロ〜、ズルズル〜♪」
さらに奥の席では、アネットが両手に持ったフォークとナイフでリズムを取りながら、鼻歌混じりに自作の奇妙な歌を口ずさんでいた。
通常の感性を持つ生徒なら首を傾げるような、シュールで不気味な歌詞。しかし、その後ろを通りかかった黒装束の男と、緑髪の少女の足が、ピタリと同時に止まった。
「……なんと情景が浮かぶ。泥と血の匂いが立ち昇り、冷たい地下水路の底を這いずるような……素晴らしい鎮魂歌だ」
エミールが、手にしたティーカップを持ったまま、大真面目な顔で深く頷き、
「ええ! とっても独創的で、魂を奥底から強く揺さぶる素敵な調べですわ!」
フレンが、両手を胸の前で組み合わせ、目を輝かせて拍手を送る。
「えっ!? ち、違います! これ鎮魂歌じゃないし、そんな物騒な歌じゃないですよぉ!?」
極端な死生観を持つ男と、古代の感性を色濃く残す少女からの想定外の大絶賛に、アネットは顔を真っ赤にしてドギマギと慌てふためき、フォークを取り落としそうになっていた。
肉を食らい、酒を飲み、笑い合う。
平和で、和やかな祝勝会。
その食堂の分厚い木製の扉を押し開けて、ユーリスやコンスタンツェたちと共に、弓を背負ったツィリルがひっそりと姿を現した。
「……ディミトリ、クロード。ボクたち、鷲獅子戦に出てない部外者でしょ。本当に、参加していいの」
ツィリルは、入り口まで出迎えた級長たちの顔を見上げ、平坦な声で尋ねた。
「何を言うか。今日はお前たちも裏で見回りをしてくれていただろう。共に飲んで食べて、労をねぎらう日だ。さあ、中へ」
「ディミトリの言う通りさ。遠慮なんて水臭いこと言うなよ、ツィリル。それに、お前らがいないとアビスの連中も本気で楽しめないだろ?」
二人の歓迎の言葉を聞いたツィリルは、少しだけ目を瞬かせた後、食堂の奥で笑い合っているフレンたちの姿へと視線を移した。
「……誰も致命傷を負わず、笑いながら生きてる。……よかった。お邪魔するよ」
勝った負けたの学級の名誉でも、戦術の巧みさでもない。
ただ「自分の群れ(仲間)が死なずに生きている」という一つの事実だけを、心の底から安堵するように呟いた、少年の極めて純粋で、泥臭い言葉。
「あ……っ」
「…………っ」
その言葉は、入り口の近くのテーブルで聞き耳を立てていた少女たちの鼓膜を打ち、彼女たちの胸の奥底に、鋭い矢となって深く突き刺さった。
「ツ、ツィリルくぅん! こっちこっち! 私のお皿にお肉取り分けてよ〜! 腕が疲れちゃって重いの〜!」
「オーッホッホッホ! ツィリル! わたくしを極上のスイーツの元へエスコートする名誉を与えますわ!」
「あ、あの……っ、ツィリルさん、わたくしも、その……!」
ヒルダが、持っていたジョッキを乱暴に置き、ツィリルの右腕に強引に両腕で抱きつく。
夜の活力を得て本性を現したコンスタンツェが、高飛車な声と共に彼の左腕を引き寄せる。
マリアンヌも負けじと立ち上がり、消え入りそうな声ながら、彼の教団の制服の裾を両手でしっかりと握りしめた。
「ちょっと! あなたたち、ツィリル様に近すぎですわ! 私だって、ツィリル様の隣に……っ、ああっ、押さないでください!」
モニカも口では文句を言いながら、一切の遠慮なく、女子たちの密集陣形の中へと肩から強引に割り込んでいく。
「……おいおい。ウチのツィリルを、あんまり物理的に困らせてやるなよ」
ユーリスは、セテスたち教員が座る席から死角になる位置へと巧みに移動しながら、女子生徒たちの熱気に包まれ、もみくちゃにされているツィリルの姿を、腕を組んで面白半分に見守っていた。
一方で。
肉の焼ける匂いと歓声から少し離れた壁際のテーブルで。
青獅子の学級のイングリットは、手にした冷たいフルーツ水が入った陶器のコップを、指先が白くなるほどの割れんばかりの力で握りしめていた。
(私も……ツィリルの隣に、行きたい……。でも、こんな大勢の前で、みだらに彼に擦り寄るなど、騎士としての矜持が……っ)
コップの表面に結露した水滴が、彼女の震える指先を冷たく濡らす。
頭では「騎士の誇り」というブレーキを必死にかけながらも、彼女の翡翠色の瞳は、他の女子たちに両腕を抱え込まれているツィリルの姿から、一秒たりとも視線を外すことができていなかった。
コップの中の氷が、カラン、と焦燥を煽るような音を立てて溶ける。
「……素直じゃないわねぇ、グリットちゃんは」
不意に、強い香水の匂いと共に、黒鷲のドロテアがイングリットの隣の空いた席へと音もなく滑り込んできた。
「ド、ドロテア……別に、私は……」
イングリットが慌てて視線を逸らし、姿勢を正そうとする。
「隠しても無駄よ」
ドロテアは、自身のグラスに入った果実酒を軽く揺らしながら、クスリと笑った。
「でも、安心なさいな。あの子、お金も爵位もない教団の使いッ走りだもの。私の『将来の玉の輿リスト』からは、完全に圏外よ」
ドロテアはグラスをテーブルに置き、イングリットの耳元にスッと顔を寄せ、声を落とした。
「……でもね。もし私が、爵位やお金なんかじゃなく、『絶対に私を死なせない、命を懸けて泥水の中まで守りに来てくれる男』を探してるなら……迷わず、あの小さな腕の中に飛び込んでいるわね」
「なっ……!?」
イングリットの顔が、一瞬にして林檎のように真っ赤に染まる。
「あの子のあの目、本物だもの。……グリットちゃん、あんなにモタモタしてると、他の飢えた子たちに、頭から骨まで残さず食べられちゃうわよ」
「た、食べ……っ! 私は、そんな破廉恥なこと……っ!」
「ふふっ。さあ、どうかしらね」
ドロテアは意味深なウィンクを残し、ひらひらと手を振って、再び喧騒の中へと優雅に戻っていった。
残されたイングリットは、激しく波打つ心臓の鼓動を押さえつけるように、自身の胸元を強く握りしめた。
彼女の視線の先では、ヒルダとモニカがツィリルの右腕を巡って、笑顔のまま火花を散らしている。
イングリットは、無意識のうちに下唇を強く噛み締め、手にしたコップをテーブルにガンッと音を立てて置いた。
そんな少女たちの静かで、けれどひどく熱っぽい視線の交錯を。
少し離れた席で、フレンにクッキーを勧めていたメルセデスが、ふんわりとした笑顔で見つめていた。
「ふふっ。ツィリルくん、すっかり大人気ね〜」
まるで成長した我が子や弟を見るような、優しく温かな眼差し。
けれど、彼女の手の中で握られたティーカップの持ち手には、かすかに白くなるほどの力が込められている。
その胸の奥底には、「自分は彼を導く立場の教師なのだ」という建前と、「本当は、誰よりも自分が彼に触れていたい」という、越えてはならない感情が、ほんのわずかに、けれど確実に存在していた。
大修道院の夜は更けていく。
ランタンの光と暖炉の熱に包まれた食堂で、少女たちの隠しきれない熱情が交錯する宴は、いつまでも続いていた。