帝国暦1180年、赤狼の節。
底冷えする空気が、ガルグ=マク大修道院の石造りの外壁を包み込み始める季節。
だが、今日の釣り池周辺だけは、冷たい秋の風を完全に掻き消すほどの、異様な熱気と歓声に包み込まれていた。
年に一度開催される『大修道院釣り大会』。
セテスの肝煎りで企画され、シャミアが取り仕切るこの行事。大物を釣り上げた者に与えられる名誉と、教団が用意した景品(そして何より、釣った魚を自由に食べていいという権利)を目指し、青獅子、黒鷲、金鹿の三学級の生徒たちや、非番の騎士たちがこぞって池の周囲を取り囲み、釣り糸を垂らしている。
「……よしっ。釣れた」
喧騒の中心、最も人が集まっている桟橋の先端にいたのは、黒鷲の学級の担任であるベレトだった。
彼が冷静な手つきで釣り竿を大きく引き上げた瞬間、池の水面が爆発したように割れ、大人の背丈ほどもある巨大な魚が、水飛沫と共に宙を舞った。
「おおおおおっ!!」
「す、すげえっ! なんだあのデカさ!」
「さすがは先生! 今のところぶっちぎりの一位だぜ!」
カスパルやアッシュたちが目を丸くして身を乗り出し、周囲の生徒たちから割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こる。誰もがその圧倒的な釣果を見せつけられ、ベレトが文句なしの大会『優勝』をかっさらうだろうと確信していた。
一方で。
その歓声の中心から遠く離れた、池の隅の浅瀬。
葦が茂り、足元が泥濘む静かな場所で。
灰狼の学級のツィリルは、対岸の熱狂など完全に視界から切り捨て、ただ水面の浮きだけを、瞬きもせずに見つめ続けていた。
ピクッ。
浮きが僅かに沈んだ瞬間。
ツィリルは、一切の無駄な動作を省いた手首の返しだけで、釣り竿を短く、鋭く引き上げた。
バシャッ!
水面から飛び出してきたのは、ベレトが釣り上げたような伝説の巨大魚でもなければ、貴族が好むような色鮮やかで珍しい魚でもない。
ガルグ=マク周辺の川や池でごく普通に見られる、中型の食用魚。
ツィリルは、空中で魚を正確にキャッチすると、泥で汚れた指先で手早く針を外し、魚の腹を親指でスッと撫でた。
「……うん。これもいいサイズ。脂が乗ってて美味しそう」
ポチャン、と音を立てて、ツィリルはその魚を足元の巨大な木製バケツに放り込んだ。
バケツの中には、すでに同じようなサイズの中型魚が、数え切れないほどひしめき合って泳いでいる。
「……十七、十八、十九……」
ツィリルは小さく数を数えながら、再び釣り針に手早く餌を付け、一切の力みなく、池の同じポイントへと静かに糸を投げ入れた。
彼が狙っているのは、ただ一種類。
「最も捌くのに手間がかからず」「最も捨てる骨の部分が少なく」「確実に腹を満たせる」実用の食用魚だけだった。
引きの強い巨大魚や、餌の食いつきが悪い希少魚など、カロリーと時間の無駄でしかない。彼はその種の魚の魚影が見えても、完全に無視して餌を避けさせていた。
結果として、ツィリルの現在の順位は『6位』。
大会の記録としてはなんとも地味な、誰も注目しない中途半端な順位である。
「もー、ツィリルくんったら。せっかくの大会なんだから、もっと大きな『幻の魚』とか狙えばよかったのに〜。あっちの方で、金ピカに光るすごいお魚が泳いでたわよ?」
見学に来ていたヒルダが、ピンク色のツインテールを風に揺らしながら、呆れたようにツィリルのバケツを覗き込んだ。
「幻の魚とか、どうでもいいよ」
ツィリルは、水面から視線を外すことなく、一切の抑揚のない、事実だけを述べる平坦な声で返した。
「あんな大きすぎる魚、大味で骨ばっかりで美味しくないでしょ。解体するのも大変だし。……ボクは、名誉とか、大会の順位とかいらない」
ツィリルの浮きが、再びピクッと動く。
彼は手首を返し、二十匹目の中型魚を軽々と釣り上げた。
「確実に今日と明日の腹を満たせて、みんながいっぱい食べられる魚を釣らないと、こんなことしてる意味ないから」
彼は釣り上げた魚の針を素早く外し、迷いなくバケツへと放り込む。
それ以上言葉を継ぐことなく、再び針に餌を付け、無言で水面へと向き直った。
「あっ……」
「…………っ」
ツィリルのその飾らない言葉に。
彼の少し後方で、泥濘に足を取られないように立ちすくんでいたイングリットの喉の奥から、無意識の小さな息が漏れた。
その隣で、リシテアが両手で自身の杖の柄を強く握りしめ、マリアンヌが口元を手で覆う。
彼女たちの視界には、遠くの桟橋で光り輝く巨大魚を釣り上げ、歓声を浴びているベレトの姿など、すでに一ミリも映っていなかった。
ただ、泥に汚れた手袋の甲で額の汗を無造作に拭いながら、「これ、メーチェに香草焼きにしてもらおう。余った分は塩漬けにして保存食だね」と、バケツの釣果を覗き込んで小さく呟く、泥だらけの少年の背中。
イングリットの心臓の鼓動が、早鐘を打つように速くなる。
彼女の手の中で、握りしめられた木製のバインダーがミシッと音を立てた。
理屈ではない。過酷な冬を前に、自らの群れを確実に生かす能力を持つ『オス』に対する、抗いようのない本能的な熱が、彼女の冷静な騎士の仮面の下で、音を立てて燻り始めていた。
「ふふっ。ツィリルくんが釣ってくれたお魚、私が後で美味しくお料理するわね〜」
そのひどく張り詰めた空気の中へ、エプロン姿のメルセデスが、ふんわりとした笑顔と共に歩み寄ってきた。
彼女は、ツィリルの足元にある、魚が満杯になった重い木製バケツを両手で持ち上げる。
「うん。メーチェの料理、ボク好きだから。……よろしく」
「ええ、任せて〜。ツィリルくんの分は、特別に一番大きいのを焼いてあげるわね」
メルセデスが、ツィリルの泥で汚れた頬を自身のハンカチでそっと拭い、優しく微笑みかける。
イングリット、ヒルダ、リシテア、マリアンヌ、コンスタンツェ。
彼女たちの視線が、一斉にメルセデスの背中へと突き刺さった。
冷たい秋の風が吹く釣り池の隅で、バケツの水が跳ねる音だけが、異様に大きく響いていた。
***
そんな少女たちの静かな視線の交錯から、少し離れた池の対岸。
「あああっ! また逃げられてしまいましたわ! わたくしも、お兄様や先生みたいに、もっと大きなお魚が釣りたいのに……っ!」
魚が大好きなフレンが、空になった釣り針を水面から引き上げ、涙目で地団駄を踏んでいた。
彼女の足元の小さなバケツには、メダカのような小魚が数匹泳いでいるだけだ。
「……貸せ」
そこへ。
巨大な死神の鎌を背負い、漆黒の外套を風にはためかせた黒装束の男――エミールが、音もなく、幽鬼のように歩み寄った。
「えっ? エミール先生……? どうしてここに……?」
「……殺意を消せ。気配を絶ち、水面を揺らすな」
エミールは、フレンの手から釣り竿を無言で奪い取ると、池の岸辺に膝をつき、水面ギリギリまで身を低くした。
「……ただひたすらに、水底の命を刈り取る瞬間だけを待て……」
エミールの兜の奥から、獣の唸り声のような低い呼気が漏れる。
彼は、まるで闇夜の暗殺任務に就くかのような、周囲の空気を凍りつかせるほどの恐ろしい殺気を自身の内部へと完全に押し込め、ピタリと、彫像のように一切の動きを止めた。
池の周囲の喧騒が、エミールの周囲数メートルの空間だけ、完全に切り取られたように消え失せる。
そして、十数秒後。
「……死ねッ!!」
突風のような、物騒極まりない咆哮。
エミールが、自身の太い腕の筋肉を爆発させ、釣り竿を強烈な勢いで真上へと引き上げる。
バシャアアアアッ!!
空気を切り裂くような糸の風切り音と共に、水面から飛び出したのは、陽の光を反射して銀色の鱗を輝かせる、見事な大ヒラメだった。
「わああっ! 素晴らしいですわ、エミール先生! さすが、わたくしの誇るお茶飲み友達ですわね!」
フレンは両手を叩いて飛び跳ね、エミールの黒い外套の分厚い袖にギュッと両腕で抱きついて、喜びを爆発させた。
エミールは、彼女の勢いでバランスを崩さないよう、咄嗟に太い腕の筋肉を固めてその小さな身体を支えながら、
「……他愛もない」
とだけ低く呟き、ひどく面倒くさそうに顔を背けた。
だが、その指先は、釣り上げた大ヒラメの針を極めて慎重に、魚体を傷つけないように外し、フレンの小さなバケツの中へと、そっと、水が跳ねないように丁寧に入れてやっている。
だが。
その微笑ましい(と少なくともフレンは思っている)光景を。
少し離れた温室の裏の茂みの奥から、血走った目で、親の仇のように睨みつけている男がいた。
「ギリギリギリギリ……ッ!!」
セテスである。
彼は、大会の進行記録を書き込んでいた木製のクリップボードを、自身の両腕の力でへし折らんばかりの力で握りしめ、歯軋りを鳴らしていた。
「エミールめ……ッ! 一体いつの間に、私の愛しいフレンと、あそこまで親しくなっていたのだ!? ええい、けしからん! 近づきすぎるな、外套の袖を握らせるな! 離れろ!!」
セテスの首の血管が怒りで隆起し、彼の緑色の髪が乱れる。
今にも茂みから飛び出し、手にした槍(どこから持ってきたのか)をエミールに向けて突き立てようとするセテス。
「セテスさん。ただの釣り大会なんだから、落ち着いて。ほら、血圧上がっちゃうわよ?」
通りすがりのマヌエラが、セテスの背中に回り込み、彼の両腕を必死に押さえつけて宥めている。
「放してくれマヌエラ! あれはただの釣りではない! フレンの心という大物を釣り上げようとしている、卑劣な罠だ!!」
「はいはい、過保護なお兄さんだこと……」
秋の冷たい風が吹き抜ける、ガルグ=マク大修道院の釣り池。
灰狼の学級の生徒たちとその周囲だけは、若者たちの言葉のない熱情と、保護者の見当違いな怒りに包まれながら、穏やかで、けれどひどく騒がしい日常の時間が流れていた。