帝国暦1180年、赤狼の節。
底冷えする夜の空気が大修道院の分厚い石壁を冷やし始める中、広大な食堂の扉の内側だけは、むせ返るような熱気と、焦がしバターと香草の強烈な香りが充満していた。
「さあ、みんな、たくさん食べてね〜。ツィリルくんがいっぱい釣ってくれたから、今日はお魚が山盛りよ〜」
エプロン姿のメルセデスが、湯気を立てる巨大な陶器の大皿を長机の中央にことりと置いた。
強火でカリッと焦がされた皮の表面で、溶けたバターがチリチリと音を立てている。腹を割かれ、香草と共にふっくらと火が通った白身魚のムニエルの山。それは、貴族の晩餐に並ぶような繊細な彩りこそないが、無駄な骨が少なく、最も身が分厚い実利重視の部位だけが山盛りにされた、暴力的なまでの熱量を持っていた。
訓練や座学で疲労しきった生徒たちが一斉に木製の椅子を引き、フォークとナイフの金属音が食堂中に鳴り響き始める。
「わあ、すっごく美味しそう! ねぇねぇツィリルくん、私、お魚の骨取るの苦手なんだよねー。腕も疲れちゃったし、あーんして食べさせてくれない?」
長机の端。ツィリルの左隣に座ったヒルダが、自身の身体を横へ傾けた。
彼女の豊かな胸元がツィリルの腕に微かに触れ、上目遣いの甘い声がすぐ耳元で響く。周囲の席に座っていた何人かの男子生徒たちが、食事の手を止めて一斉に羨望の視線を送った。
だが、ツィリルは手にしたナイフとフォークの動きを一切止めなかった。手元の魚の腹にナイフを入れ、背骨に沿って正確に身を切り分けながら、全く表情を変えずに横を見返した。
「ヒルダ。両手とも怪我してないでしょ。自分で食べて」
「もー! ツィリルくんってば、いっつもそうやって冷たいんだから……」
「冷たくないよ。ただの事実。……でも、これ」
ツィリルは、自身の皿の中で最も分厚く、ナイフの先で丁寧に小骨を完全に取り除いた中心部分の身をフォークで突き刺した。
そして、無言のまま自身の腕を伸ばし、ヒルダの皿の上へとその分厚い白身をコロンと落とした。
「ヒルダがご飯食べなくて倒れたりしたら、掃除や馬の世話の時に、またボクが重い物を持つ羽目になる。面倒は増やしたくないから、ちゃんと食べて」
ヒルダの口から、次に放とうとしていた不満の言葉がピタリと止まった。
彼女は、自分の皿に乗せられた湯気を立てる白身と、すでに次の魚を解体し始めているツィリルの横顔を交互に見つめた。
テーブルの下で、無意識のうちにヒルダの両膝がギュッとすり合わされる。彼女の頬から耳元にかけての温度が急激に上がり、右手に持っていたフォークの先端が、カチャカチャと微かに陶器の皿に当たる乾いた音だけが鳴った。
「あ、あの……ツィリルさん。私なんて、こんなに立派なお魚、いただく資格なんてないです……。それに、少し胸が苦しくて……」
向かいの席で、マリアンヌが両手でフォークを握りしめたまま深く俯き、消え入りそうな声で呟いた。
彼女の前髪が顔の半分を覆い隠し、手元の皿の上の魚は全く減っていない。
「資格とかよくわかんない。でも、胸が苦しいなら病気かもしれないでしょ」
カチャリ、と。
ツィリルがナイフとフォークを皿の上に置く音が響いた。
彼は食事の手を完全に止め、テーブル越しに、マリアンヌの細すぎる手首と、青白い顔を真っ直ぐに見つめた。
「マリアンヌがご飯食べなくて病気になったら、馬の世話をする人が減って、全部ボクがやらなきゃいけなくなる。レア様も悲しむし、ボクもすごく困る。生きてないと困るんだから、少しでもいいから食べて」
マリアンヌの肩が、ビクッと大きく跳ねた。
彼女の口が微かに開き、短い呼吸の音が漏れる。
マリアンヌの震える右手が、ゆっくりと、何度か躊躇いながらフォークの柄を握り直す。前髪の隙間から覗く彼女の瞳の端から、透明な水滴が一つ、テーブルの木目にポトリと音を立てて落ちた。
***
翌日の午後。
陽の光が届かない、図書室の薄暗い書架の奥。
古い羊皮紙の独特の匂いと、乾いた埃が空気に混ざっている。
「くっ……もう少し、なのに……!」
書架の最奥。リシテアが両足の爪先立ちになり、プルプルと震える指先で、頭上の最上段に収められた分厚い革張りの魔道書を取ろうと悪戦苦闘していた。
あと数センチ。指先が背表紙をかすめた瞬間、リシテアのふくらはぎの筋肉が限界を迎え、身体がグラりと後ろへ傾いた。
その背後。
音もなく近づいたツィリルの短い腕がスッと伸び、彼女が求めていた分厚い本を、横からあっさりと抜き取った。
「はい、これ。……リシテア、ちっこいんだから無理しないでよ」
「ち、ちっこい言うな! 私はもう立派な大人です! 子供扱いしないでください!」
体勢を立て直したリシテアが振り返り、ムキになってツィリルを睨みつける。
だが、ツィリルは全く怯むことなく、受け取った本をリシテアの胸元へ押し付けるようにして手渡した。
「子供扱いなんかしてないよ。ただ、リシテアが脚立から落ちて怪我されたら、血の片付けをしたり、医務室に運んだりするのはボクなんだ。……ボクの面倒は増やさないで」
「な……っ、ななっ……!」
リシテアの顔が、首の根元から耳の先まで一瞬にして林檎のように真っ赤に染まった。彼女は受け取った分厚い魔道書を盾にするように胸の前にギュッと抱え込み、ツィリルの視線から逃れるように深く俯いて、何かをブツブツと早口で呟き始めた。
「……ああっ、私のような日陰の虫ケラが、ツィリル様とリシテア様の尊い空間の空気を吸ってしまい、誠に申し訳ありません……。すぐにこの身を塵芥に帰しますわ……」
書架の影。床を這いつくばるようにして、日光を避けて極端に姿勢を低くしたコンスタンツェが、本棚の隙間から現れた。
ツィリルはため息をつくことも、彼女の異様な態度に驚くこともなく、ただ静かに床にしゃがみ込み、彼女と目線を合わせた。
「消えないでよ。コニーが日陰で暗くても、魔法の知識はボクらの役に立ってるでしょ。いなくなったら戦力が落ちて、前線でボクが死ぬかもしれない。だから勝手にいなくならないで」
ツィリルはそう言いながら、自身の使い古された革手袋に包まれた手を、コンスタンツェの目の前に差し出した。
「……床、冷たいから立って。風邪引かれたら、また看病でボクの仕事が増える」
コンスタンツェの肩が震えた。
彼女はゆっくりと顔を上げ、差し出されたツィリルの手に、自身の震える両手を伸ばした。冷たい石の床から身を起こしながら、彼女の細い指がツィリルの革手袋の感触を確かめるように絡み、指の関節が白くなるほどの強い力で、ギリッと握り返した。
***
同日の夕刻。
冷たい秋の風が吹き抜ける、人気のない屋外の訓練場。
分厚い木製の素振り用人形を叩き据える、激しく、殺気立った木剣の打撃音だけが何度も響いていた。
バンッ! バンッ!
イングリットが一人、異常なまでの気迫で打ち込み稽古を続けている。
彼女の呼吸は荒く、乱れた金髪が汗で額に張り付いている。彼女の足元の乾いた土には、したたり落ちた汗がいくつもの濃い染みを作っていた。
バンッ!!
「……イングリット、もうやめて」
木剣が、再び高く振り上げられた瞬間。
背後から近づいたツィリルが、イングリットの右手首を強引な力で掴んで止めた。
「ツ、ツィリル!? い、いつの間に……放してください、私はまだ修練を……!」
「やめてってば。イングリット、手に血豆が潰れてる。そんな手で槍を握っても、力が逃げるだけで実戦じゃ役に立たないよ」
ツィリルは彼女の手首を掴んだまま、自分の懐から使い古した手拭いを取り出した。そして、皮が破れて赤黒い血が滲む彼女の手のひらに、その布を強く押し当てた。
「これくらい、騎士の修練としては当然の……っ!」
「騎士とか名誉とかどうでもいいよ。前線でイングリットの手が使い物にならなくなったら、ボクらが死ぬかもしれないでしょ。無駄な怪我はしないで。治療して」
ツィリルの声は低く、平坦だった。
だが、彼女の手のひらに押し当てられた手拭い越しには、ツィリルの指先の確かな体温と、力強い圧力が真っ直ぐに伝わってくる。
「……っ!」
イングリットの指から力が抜け、握っていた木剣がカラン、と乾いた音を立てて地面に転がった。
彼女は、ツィリルに掴まれた手首を引き抜こうともせず、ただ血の滲む手拭いをもう片方の手で覆うように強く握りしめ、冷たい風の中で小さく、かすかに肩を震わせ続けた。
***
夜も更けた、アビスの薄暗い教室。
生徒たちが去り、静まり返った空間で、ランタンのオレンジ色の灯りを頼りに、メルセデスが一人、机の上の大量の書類や茶器を片付けていた。
「メルセデスさん、手伝います」
背後から声がして、ツィリルが、重ねられた重い木箱を横から軽々と持ち上げた。
「あら、ツィリルくん。まだ起きてたの? 無理しないで、もう休んでもいいのよ〜」
「メルセデスさんが起きてるのに、ボクだけ寝るわけにいかないです。……目の下、少しクマができてます。疲れてるでしょ」
ツィリルは木箱を教室の隅に音を立てて置くと、メルセデスの前に戻り、彼女の顔を真っ直ぐに見上げた。
「ツィリルくん……」
メルセデスは、ランタンの灯りに照らされた彼の真っ直ぐな瞳に、一瞬だけ片付けの手を止めた。
「ツィリルくんは……最近、みんなに大人気ね〜。先生、少しびっくりしちゃったわ〜」
努めていつものように、ふんわりとした、わずかに語尾を伸ばす声で尋ねる。
だが、ツィリルは微かに眉をひそめた。
「人気とかわかんないです。ボクはただ、みんなが怪我して倒れたら、ボクの仕事が増えて困るから言ってるだけです。……でも」
ツィリルは、少しだけ視線を落とし、それから再び、強い力でメルセデスを見上げた。
「ボクに文字や礼儀を教えてくれたのは、メルセデスさんです。メルセデスさんが倒れていなくなったら、ボクに色んなことを教えてくれる人がいなくなって、ボクが困ります。だから、無理して倒れたりしないでください。ボクの側にいて、ずっと教えてくれないとダメです」
「…………ッ」
メルセデスの呼吸が、一瞬だけ不自然に止まった。
彼女は、手にしていた書類の端を、紙がメシャッと音を立てて破れるほど強く握りしめた。
「ふふっ……ありがとう、ツィリルくん。私も、ツィリルくんがとっても大事よ〜」
ゆっくりと瞬きをして、いつものふんわりとした笑顔を顔に貼り付ける。
だが、書類を握りしめた彼女の指の関節は白く浮き上がり、ランタンの光を反射するその瞳の奥には、ひどく重くて粘り気のある光が、静かに、チロチロと揺らめいていた。