擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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幕間⑥

帝国暦1180年、赤狼の節。

底冷えする風が石畳を撫でる晴れた日の午後。

ガルグ=マク大修道院の敷地内には、鷲獅子戦や釣り大会の狂騒が過ぎ去った後も、若者たちが発する特有の熱が、澱むことなく循環し続けていた。

 

学生寮の一階、薄暗い廊下。

青獅子の学級のアッシュが、焼きたての甘い香りを放つクッキーが乗った銀色の盆を両手で持ち、重厚な木製の扉の前で立ち尽くしていた。

 

「ベルナデッタ。外は雲一つない、すごくいい天気だよ。少しだけでも扉を開けてみない? 一緒に中庭でお茶にしよう」

「ひぃぃぃっ! 無理です無理です! 外にはベルを狙う暗殺者と、この前釣り上げられたお魚たちの怨霊がいっぱいいるんですぅぅ! ベルはここで息を潜めて生きていくんです、放っておいてくださいぃぃ!」

 

分厚い扉の向こうから、木板がガタガタと震えるほどの悲鳴が響く。アッシュは「怨霊なんていないよ……」と困ったように眉を下げながらも、盆を片手に持ち直し、もう片方の手で優しく扉をノックし続けていた。

 

その背後。

洗い立てで微かに石鹸の匂いがするシーツの束を抱え、早足で廊下を歩いてきたツィリルが、二人の前でピタリと足を止めた。

 

「……ベルナデッタ」

 

ツィリルは、抱えたシーツの山の横から顔を出し、抑揚のない声で木製の扉に向かって言った。

 

「ご飯食べないと、病気になって死ぬよ。そしたらボクが死体を片付けることになって、ボクの仕事が増えるから迷惑。それに、アッシュがお菓子焼いてくれたのに、食べずに腐らせるのは食材の無駄でしょ。早く開けて」

 

ツィリルは瞬き一つせず、扉の隙間からこちらを窺う怯えた視線へ、真っ直ぐに言葉を向けた。

 

「ひぃっ!? ツ、ツィリルくん!? わ、わかりました、開けます! 開けますから、呪いの言葉を吐かないでぇぇ!」

 

ガチャリ、と重い金属の鍵が外れる音が連続して鳴り、木製の扉が数センチだけ開いた。

薄暗い部屋の奥から、乱れた紫色の髪と、怯えきった目が隙間から覗く。

 

「……呪いとか知らない。ボク、次の仕事あるから行くね」

 

ツィリルはそれだけを言い捨てると、シーツの束を抱え直し、一切振り返ることなく洗濯場へと向かって足早に歩き去った。

残されたアッシュは、パチパチと瞬きをした後、「ありがとう、ツィリル!」と彼の小さな背中に声をかけ、開いた扉の隙間から、そっとクッキーの乗った盆を差し出した。

 

***

 

同時刻、屋外の訓練場。

乾いた土埃が舞い上がり、金属と金属がぶつかり合う甲高い音が、秋の冷たい空気を切り裂いていた。

 

「うおおおおッ! まだまだぁ! 気合で限界を突破するんだぜ!!」

 

黒鷲の学級のカスパルが、自身の背丈ほどもある重厚な鉄の斧を振り回し、木製の訓練用人形を粉砕せんとばかりに乱打している。彼の上半身は玉の汗で覆われ、一撃ごとに飛び散った汗が、乾いた地面に濃い染みを作っていた。

 

「……はぁ。カスパルってば、なんでいっつもそんなに大声出すわけ? 見てるだけで疲れるんだけど」

 

訓練場の端。直射日光の当たらない天幕の影に置かれた木箱の上に座り、アビスから来たハピが、気怠げな半目でその様子を眺めていた。

彼女の口から無意識に漏れそうになった呼気。ハピはそれをハッと自覚し、胸の奥でグッと飲み込むと、代わりに小さく舌打ちをした。

 

「なんだと!? ハピも一緒にやろうぜ! 汗を流せば気分もスッキリするぞ! ほら、斧振ってみろよ!」

「絶対ヤダ。それに、あんたのそばにいるとうるさすぎて……息継ぎするタイミングすらわかんなくなるし」

「息継ぎなんて気合いでどうにかなるだろ! ほら、声出していこうぜ! うおおおおッ!!」

 

カスパルはハピの冷たい視線など全く気にする様子もなく、再び凄まじい咆哮と共に斧を振り下ろした。

魔獣を呼ぶ自らの特異体質ゆえに、常に周囲と壁を作り、ため息一つすら自由につけない緊張感を抱えて生きてきたハピ。

カスパルはハピの視線など全く気にする様子もなく、「うおおおおッ!!」と再び凄まじい咆哮と共に斧を振り下ろした。

空気を震わせるその物理的な大声が、ハピの鼓膜をビリビリと打つ。

 

「……ほんと、うるさくてバカみたい」

 

ハピは、カスパルの振り下ろした斧が訓練用の人形の首をへし折るのを見届けながら、小さく呟いた。彼女の口元には、自覚のない、極めて微小な弧が描かれていた。

 

***

 

その隣の鍛錬場では、ユーリスとペトラが、木剣を交えて鋭いステップを踏んでいた。

 

ダンッ!

 

「シッ……!」

「おっと。……いいね、姫さん。無駄のないいい踏み込みだ」

 

ペトラの放った、喉元を正確に狙った刺突。ユーリスはそれを首をわずかに傾けるだけの紙一重で躱し、同時に彼女の刃の軌道の外側、完全な死角へと音もなく滑り込んだ。

 

「だが、少し素直すぎるぜ。実戦じゃ、相手の目潰しに泥を投げつけてでも勝つのがセオリーだ」

 

ユーリスの木剣の切っ先が、ペトラの背後から彼女の首筋にピタリと添えられた。

ペトラは目を見開き、自身の首筋に触れる冷たい木剣の感触に、短く息を吐いた。

 

「泥を、投げる……ですか。ユーリスの動き、森の獣のように素早く、そして……掴みどころが、ありません。私、あなたの戦い方、もっと学びたいです」

「物騒な姫さんだ。ま、俺の我流でよけりゃ、いつでも相手になってやるよ。ただし、次は本当に足元の砂を蹴り上げるからな。目を開けてられるか試してみな」

 

ユーリスは木剣を引き、ペトラに向けて挑戦的なウインクを投げる。ペトラは木剣を構え直し、その瞳に強い狩猟の光を宿して深く頷いた。

 

***

 

さらに少し離れた弓術の訓練場。

そこでは、上半身裸のバルタザールが、隆起した凄まじい胸筋と上腕二頭筋をこれ見よがしに誇示しながら、セイロス騎士のシャミアの前に立ち塞がっていた。

 

「へへっ、シャミアさんよぉ! あんたのそのダグダ仕込みの武芸、前から気になってたんだ。俺と一発、手合わせしてくれねぇか!」

「……断る。暑苦しい。服を着ろ」

 

シャミアは、手元の弓の弦の張りを確かめながら、バルタザールの方を一度も見ずに冷たい声で言い放った。

 

「そう冷たいこと言うなよ! もし俺が勝ったら、一晩酒に付き合ってくれ!」

「……もし私が勝ったら、お前を的の代わりにして射抜くが。百歩譲って、お前のその筋肉なら、普通の的よりは長持ちしそうだからな」

「上等だぜ!!」

 

シャミアが、ようやくバルタザールの方へ冷徹な瞳を向けた。彼女の手の中で、重い弓がきしりと音を立てる。

バルタザールは両拳を顔の前で構え、獰猛な笑みを浮かべた。

 

***

 

中庭の噴水前。

そこでは、金鹿の学級のリンハルトが、教団騎士カトリーヌの背後を、フラフラとした足取りで執拗に追いかけ回していた。

 

「……ですから、カトリーヌさん。ほんの少しでいいんです。あなたの『雷霆』と、そのカロンの紋章の共鳴反応を……あと12秒だけ、至近距離で見せてくれませんか?」

「しつこいね、アンタ! 何度も言ってるだろう、アタシの雷霆は見世物じゃないんだ! レア様のために振るう剣なんだよ! これ以上まとわりつくと、本当に斬るよ!」

「ああ、斬られる瞬間の紋章の発光も非常に興味深いですね……僕の血が流れることで、雷霆がどう反応するのか。ぜひ、お願いします」

「アンタ、本当の変態か!」

 

カトリーヌが心底気味悪そうな顔をして走り出し、リンハルトが「あ、待ってください……走るのは疲れるから嫌なんです……」と呟きながら、のろのろとその後を追っていく。

 

***

 

その喧騒を遠くに聞く、回廊のベンチ。

黒鷲のフェルディナントが、背筋をピンと伸ばした姿勢で、行商人アンナと真剣な顔で話し込んでいた。

 

「なるほど……。この間の釣り大会の裏で、それほどまでの経済効果と物資の流通があったとは。アンナ殿、貴殿の商会のネットワークと情報収集能力は、我が帝国の物流改革の大きなヒントになる!」

「毎度ありー! フェルディナントくんは貴族なのに、頭でっかちじゃなくて話が早くて助かるわね! どう? 今後もうちの商会と専属契約結ばない? 今なら特別割引で、契約金は金貨五百枚でいいわよ!」

 

アンナが、懐から取り出した金貨を親指でピンと弾く。チャリン、という澄んだ音が回廊に響いた。

 

「貴族たるもの、領民の生活を豊かにする実学こそが本懐。我が名はフェルディナント・フォン・エーギル! 貴殿の提案、ぜひ前向きに検討しよう!」

 

フェルディナントが、胸に手を当てて大仰に頷く。

アンナの計算高い瞳と、フェルディナントの高潔な貴族の眼差しが、互いの利益という一点において、火花を散らすように交錯していた。

 

***

 

そして、温室の裏手。

青獅子の学級のアネットが、両手に重い肥料の袋を抱えながら、歩調に合わせてステップを踏んでいた。

 

「〜♪ 沼地の底で〜、ドロドロ〜、ズルズル〜♪ びっくり箱が〜♪」

 

自作の奇妙な歌に意識を奪われた彼女の足先が、通路に置かれていた大きな素焼きの植木鉢に思い切り引っかかった。

 

「わぷっ!?」

 

アネットの身体が宙に浮き、顔面から石畳に激突する寸前。

黒い革手袋に包まれた手が、彼女の左腕を強烈な力で掴み、その身体を空中で強引に引き留めた。

 

「……お前は、本当にドジだな」

 

アネットが顔を上げると、そこには、鞘に収めた剣を片手に持ったフェリクスが立っていた。

 

「ふ、フェリクス!? なんでこんなところに……!」

「剣の素振りの帰りだ。それより、またあの変な歌を歌っていたのか。足元がお留守になるなら、歌などやめろ。見ていて危なっかしい」

「へ、変な歌じゃないもん! エミール先生やフレンちゃんは『素敵な鎮魂歌だ』って褒めてくれたんだから!」

「……あいつらの感性を基準にするな」

 

フェリクスは、アネットの腕から手を離すと、腰の剣帯の金具をカチャリと鳴らし、フッと、ほんのわずかに口角を上げた。

 

「だが。……まあ、悪くはない。お前の声は、よく通る」

 

フェリクスはそれだけ言うと、すぐに背を向け、大股で歩き去っていった。

残されたアネットは、自分の腕を掴まれた感触と、彼が残した言葉の意味を数秒かけて理解し、

 

「えっ……?」

 

ぽんっ、と。

彼女の顔が、耳の先まで一瞬にして赤く茹で上がった。

 

若者たちが、学級や身分の壁を越え、剣の音と笑い声の中で、穏やかで平和な日常の時間を紡いでいる。

冬の足音が近づく大修道院は、外の冷たい空気とは裏腹に、確かな熱量を持った命の循環で満たされていた。

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