擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第一四章①

帝国暦1180年、星辰の節。

陽光が一切差し込まない地下街・アビスの空気は、地上のそれよりもさらに数度低く、常に重く湿った冷気を孕んでいた。

石造りの壁面には微小な水滴が凝結し、松明の炎が燃焼する際の不規則なパチパチという音と、獣脂の焦げる匂いが、換気の悪い閉鎖空間に澱澱と停滞している。

 

その一角、灰狼の学級の教室として割り当てられた空間。

教卓の前に立つメルセデスの手には、一枚の羊皮紙が握られていた。彼女の呼気は白く濁り、口を開くたびにその白い蒸気が空中に散っていく。

 

「みんな、聞いてちょうだい。もうすぐ白鷺祭が開催されるのだけれど……各学級から一人、舞踊の代表者を出す決まりになっているの。私たちの学級からも誰かを出さないといけないのだけれど……誰か、やりたい人はいるかしら?」

 

メルセデスの音声が、湿った石壁に反響して消える。

その直後、教室の最前列で激しい衣擦れの音が鳴った。

 

コンスタンツェが、勢いよく木製の椅子を後ろへ蹴り飛ばして立ち上がった。

彼女の靴の踵が石の床を鋭く叩き、肺の底から一気に押し出された大量の空気が、彼女の声帯を強く震わせる。

 

「オーッホッホッホ! ついにわたくしの出番が来ましたのね!」

 

地下の光量の足りない環境下において、彼女の網膜は光を過敏に捉えず、その表情筋は限界まで引き上げられ、完全な高飛車という物理的形態を顔面に形成していた。

 

「このコンスタンツェ=フォン=ヌーヴェルの舞で、地上にふんぞり返る者たちにヌーヴェル家再興の狼煙を知らしめてやりますわ!」

「いやいや、待てよコンスタンツェ。舞ってのは結局、己の肉体の躍動を見せつけるもんだろ?」

 

反対側の席から、木材が軋む鈍い音が響いた。

バルタザールが両手を机の天板に押し当てて立ち上がり、自身の分厚い胸の大胸筋を右の拳で殴りつけた。ドスッ、という肉と骨がぶつかり合う重い音が教室に響く。

 

「俺のこの筋肉が舞い踊れば、審査員の度肝を抜くこと間違いなしだぜ! どうだ、俺が代表に……」

「……バルトはどうせ舞台壊して弁償騒ぎになるだけでしょ。コニーも、ドレスの裾踏んで転ぶとこしか想像つかないし」

 

後方の木箱の上に座っていたハピが、肺に溜まった空気をため息として吐き出しかけ、それを胸の奥でグッと飲み込んだ。彼女の右手が上がり、手首のスナップだけで空気を払うように二度、三度と小さく振られる。

 

「どう考えても、ユリーじゃない?」

 

ハピの眼球が動き、教室の最後列へと焦点が合わせられた。

壁に後頭部と背中を預け、腕を組んで斜めに立っていたユーリスが、自身の名前に反応してわずかに首の角度を変え、「俺か?」と短く発声した。

 

その時、教室の窓枠――地上からのわずかな通気口――の表面を、硬く絞られた布がこすり上げる摩擦音が鳴った。キュッ、キュッ、という一定のリズム。

 

「ボクもユーリスがいいと思う」

 

ツィリルが、窓枠の汚れを削り取る指先の力を一切緩めることなく、網膜の焦点をユーリスへと向けて言った。

 

「ユーリスは重心のブレが少ないから、足元がしっかりしてる。バルタザールが舞台で暴れたら、木板の耐久限界を超えて床が抜ける。怪我人が出たら、治療の布や薬草が消費されるし、後片付けに大修道院の人が駆り出されて、レア様の仕事が増える。……教団の物資と人員を無駄にしない選択が一番だよ」

「おいおい、俺の筋肉を危険物みたいに言うなよツィリル!」

 

バルタザールが身を乗り出して抗議の声を上げる。

だがツィリルは、抗議の音声に動じることなく布の裏表を返し、再び窓枠の木目に沿って摩擦を再開した。

 

「でも事実でしょ。バルタザールの歩き方じゃ、ただの木の板は衝撃を吸収しきれないから」

「……ははっ、違いねぇ。お前らの推薦とあらば、断るわけにもいかねぇな」

 

ユーリスの口角の筋肉がわずかに引き上げられ、彼は壁から背中を離した。

その足運びには一切の摩擦音が伴わない。踵からつま先へと滑らかに体重が移動し、スラムの路地裏で常に暗殺者の刃を警戒し続けてきた、極限まで無駄を削ぎ落とした歩法。

 

「教団の連中や表の貴族どもに、俺たちアビスの意地ってやつを、たっぷりと教えてやろうじゃねぇか」

 

ユーリスの言葉に対し、モニカやフレンたちが両方の手のひらを打ち合わせ、パチパチという甲高い打撃音を教室に響かせた。

メルセデスは教卓の前で、満足そうに両手を胸の前で組んだ。

 

「ふふっ、決まりね。それじゃあ、大会に向けて私が先生として、基本的なステップを教えてあげるわ。ファーガスの魔道学院にいた頃、少しだけ習ったことがあるのよ」

 

メルセデスが、教卓の横のわずかに開いた空間へと移動した。

彼女は自身の足元を見下ろし、右足のブーツの先端を床に滑らせ、左足を軸にして重心を回転させようとした。

 

「こうして、右足を……そして、ここでターンをして……あっ」

 

元々、運動や激しい動きが得意ではない彼女のブーツの先端が、自身の長いスカートの裾に見事に絡まった。

バランスを崩し、メルセデスの身体が床に向かって傾く。

 

「きゃっ……!」

 

顔から床に突っ込む寸前。

窓枠を拭いていたツィリルが、バネのように床を蹴って滑り込んだ。ドンッ、という鈍い音と共に、彼が差し込んだ細くも引き締まった腕が、メルセデスの腰と背中をガッチリと抱き留める。

「……メーチェ。前見てないからそうなるんだよ」

 

至近距離。メルセデスの耳元で、ツィリルのわずかに呆れたような声が鼓膜を打った。

彼の上着から漂う石鹸の匂いと、少年特有の体温。メルセデスは自身の心臓が急激に血液を送り出し、顔の表面温度がカッと上昇するのを物理的に感じた。

 

「ご、ごめんなさい……ツィリルくん。私ったら、どんくさくて……先生なのに、かっこ悪いわね……」

「かっこ悪いとかはどうでもいいけど」

 

ツィリルはメルセデスの身体を垂直に起こし、彼女が二本の足で自立したのを確認すると、すぐに視線を彼女の足首へと落とした。

 

「足、捻ってない? この床の石、すごく硬いから、頭から落ちたらただの怪我じゃ済まないよ」

「え……あ、うん。大丈夫よ。ありがとう……」

 

ツィリルの金色の瞳が、メルセデスの顔を真っ直ぐに見上げた。

 

「メーチェが怪我して寝込んだら、踊り教える人がいなくなって、ユーリスたちが困るでしょ。それに、大修道院の中で怪我人が出たらレア様やセテスさん達も心配しちゃうよ。……自分のこと『先生』って言うなら、まずは自分が怪我しないように気をつけて」

「うぅ……はい。おっしゃる通りです……」

 

裏表のない子供の純粋な説教に、メルセデスはすっかり耳の先まで赤くして、両手で顔を覆ってしゅんと身を縮めるしかなかった。

 

「……床、水拭きしたばっかりで滑るから。練習するなら、ボクがあっちの扉を拭き終わるまで待ってて」

 

ツィリルはそれだけを言い残し、クルリと背を向けて扉の前に戻ると、再びキュッ、キュッというリズミカルな摩擦音を立て始めた。

 

「……ははっ! 腹痛ぇ! どうやらうちの先生は、ツィリルに一本取られちまったらしいな!」

 

最後列でその光景を見ていたユーリスが、耐えきれずに腹を抱えて吹き出した。

バルタザールが鼓膜が破れそうなほどの大声で笑い、ハピが「メーチェ、どんまい」と小さく手を振る。

 

「もうっ、みんなして笑わないでちょうだい〜!」

 

メルセデスが涙目で抗議し、地下教室の空気が一段と柔らかく解ける。

灰狼の学級という寄せ集めの集団が、確かな『家族』としての形を帯びた瞬間だった。

 

「まあ、踊りの練習は俺一人で勝手に仕上げるさ。怪我して教団の仕事が増えるのも御免だしな」

 

ユーリスは笑いを収め、教卓の横へと歩み寄りながら、真剣な眼差しで仲間たちを見回した。

 

「だが……そう簡単な相手ばかりじゃねぇだろうがな。黒鷲の連中の代表は恐らくドロテアだ。元・ミッテルフランク歌劇団の『神秘の歌姫』。それに、あのベレト先生がつきっきりで指導してくる」

 

その名を聞いて、教室の空気が少しだけ引き締まる。

 

「本職の歌姫相手に、舞台の上でどう客の目を引くか。……腕の鳴る勝負だぜ」

ユーリスの不敵な笑みと共に、アビスの学級は白鷺祭に向けて静かな闘志を燃やし始めていた。

 

「まあ、踊りの練習は俺一人で勝手に仕上げるさ。怪我されて仕事が増えるのも御免だしな」

 

ユーリスの紫色の瞳が、細く鋭く収縮した。

彼の脳内ではすでに、白鷺祭の舞台の広さ、床の材質、観客席からの光源の角度のシミュレーションが始まっていた。

 

「……だがまあ、そう簡単な相手ばかりじゃねぇだろうがな」

 

ユーリスは腕を組み、左手の人差し指で右腕の二頭筋をトントンと一定のリズムで叩き始めた。彼が思考を深める際の物理的な癖。

 

「黒鷲の連中の代表は恐らくドロテアだ。元・ミッテルフランク歌劇団の『神秘の歌姫』。加えて、あのベレト先生がつきっきりで指導してくる」

 

その二つの名前が出た瞬間、地下教室の空気の密度がわずかに増したように感じられた。

コンスタンツェのあごが上がり、バルタザールが鼻から短く息を噴き出す。

 

「本職の歌姫が持つ、筋肉の完全な制御。指先の数ミリの角度で観客の視線を誘導し、呼吸音すらも演出の一部に組み込む技術。……俺のスラム仕込みの歩法とは、根本的に筋肉の使い方が違う」

 

ユーリスの視線が虚空を切り裂き、見えない舞台の上の敵の幻影を捉えている。

 

「そこに、あの傭兵上がりの教師が戦術指導に入る。ベレトが介入するってことは、単なる『踊り』じゃ済まなくなる。観客の死角、審査員の視線の射線、舞台上の重心の偏り……空間の全てを支配する『制圧作戦』として仕上げてくるはずだ」

 

ユーリスの足幅がわずかに広がり、膝の関節が柔らかく曲げられた。いつでも前後左右に跳躍できる、完全な臨戦態勢の骨格配置。

 

「本職の肉体制御と、傭兵の空間支配。……そいつらを相手に、俺のこの変則的なステップでどう客の網膜を焼き付けるか」

 

ユーリスの口角が、今度は計算された作り笑いではなく、純粋な狩猟本能による筋肉の引き攣れとして歪に持ち上がった。

紫色の瞳の中に、明確な闘争によるアドレナリンの分泌を示す、鈍い光が宿る。

 

「……腕の鳴る勝負だぜ」

 

彼の喉仏が上下し、低く乾燥した声が石壁に反響する。

地下の冷え切った空気の中で、灰狼の学級の生徒たちの心拍数が、静かに、だが確実に上昇していく。血液が血管を巡る速度が増し、彼らの肉体は、来るべき舞台上での「決戦」に向けて物理的な熱を帯び始めていた。

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