擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第一四章②

帝国暦1180年、星辰の節。

ガルグ=マク大修道院の敷地内に広がる弓術訓練場。凍てつくような冷気が地表に滞滞し、呼吸のたびに気道を刺すような痛みを伴う早朝。

 

ツィリルは、訓練場の端に立ち、自身の身長の三分の二ほどもある木製の弓を構えていた。

彼の両足は肩幅よりわずかに広く開かれ、足の裏全体が凍った土の地面を均等な圧力で掴んでいる。

 

「……」

 

左腕の三頭筋と三角筋が硬く隆起し、右手の指先が麻の弦を引き絞る。

ギリッ、と弓の木材がしなり、反発力が極限まで蓄積されていく物理的な音。

ツィリルの金色の瞳孔は極小に収縮し、三十メートル先の藁を編んだ的の中心、直径わずか五センチの赤い円形だけを捉えていた。周囲の冷気も、自身の吐く白い息のノイズも、彼の脳内における視覚情報処理からは完全に除外されている。

 

放つ。

弦が空気を切り裂く鋭い摩擦音。矢は完璧な放物線を描き、風の抵抗を切り裂いて的の左上、赤い円形からわずかに外れた位置に深々と突き刺さった。バツン、という鈍い衝撃音が数コンマ秒遅れて耳に届く。

 

「……ちぇっ」

 

ツィリルは短く舌打ちをし、即座に矢筒から次の矢を引き抜こうと右手を伸ばした。

その時、彼の背後から、一切の足音を伴わない、完全な無音の気配が接近した。

 

「右肩の筋肉が力みすぎだ。弦を離す瞬間、ほんの一瞬だけ右肘の角度が下がっている」

 

冷たく、しかし明確な音波の直進性を持った声。

ツィリルが弓を下ろして振り返ると、そこには黒い革の外套を羽織ったシャミアが、腕を組んで立っていた。彼女の足元、枯れ葉の上にブーツが乗っているにもかかわらず、その葉が砕ける音すら鳴っていない。体重移動の完全な制御。

 

「シャミアさん……」

 

「標的との距離を支配しろと言ったはずだ。当てに行こうとするから、筋肉が余計な収縮を起こす。弓の張力と風速の計算だけに脳を使え」

 

シャミアの紫色の瞳が、ツィリルの右腕の筋肉群の疲労度を瞬時に捕捉する。

彼女は言葉による過剰な指導を行わない。ただ、ツィリルの肉体が起こしている物理的な間違いだけを指摘する。

 

「……はい。もう一回、やってみます」

 

ツィリルは反論せず、ただ指摘された右肩の筋肉の脱力を試みた。

シャミアはそれ以上言葉を発することなく、すぐ隣の射座へと歩み寄る。彼女が自身の弓を構える動作には、予備動作というものが存在しなかった。静止状態から一瞬で弦が引き絞られ、矢が放たれる。

バツンッ!

三十メートル先の的、先ほどツィリルが外した赤い円形のど真ん中に、シャミアの矢が完璧な直線軌道で突き刺さった。

 

ツィリルは、的の中心を貫いた矢の振動を網膜に焼き付けようと、瞬きすら忘れて見入った。

シャミアの放った一撃は、彼にとって「レア様に近づく敵を確実に排除するための手段」の完成形そのものだった。

彼はシャミアに向けた視線をすぐに手元の弓へと戻す。彼女の肩甲骨の隆起、肘の角度、弦を離す瞬間の呼気――その動作のすべてを己の筋繊維へと刷り込むため、微細な体重移動と関節の反復稼働を開始した。

 

ツィリルは瞬きすら忘れ、その極まった技術の軌跡を網膜に焼き付けていく。他者の骨格と筋肉の連動を、己の肉体へと強制的に上書きしていく、生存のための純粋な『適応現象』の反復。

 

***

 

同日、深夜の大講堂。

全ての窓が黒いカーテンで覆われ、外部からの光子と音波の侵入が完全に遮断された密閉空間。

その中央に設けられた特設舞台の上で、黒鷲の学級のドロテアがステップを踏んでいた。

 

ダンッ、ダンッ、キュッ。

 

彼女の履くピンヒールが硬い木材の床板を叩き、摩擦熱を生む音が響く。

だが、その音の反響は異常だった。

通常、ヒールの打撃音は床へ向かって発散されるが、ドロテアのそれは、足首の関節の柔軟性と体重移動のタイミングによって、音の反響方向が完全にコントロールされている。音波は舞台の床ではなく、周囲の空間全体へと均等に拡散し、彼女の存在を視覚よりも先に聴覚で認識させる『領域』を形成していた。

 

「……そこだ。ターンを終えた直後、顎の角度をほんのわずかに下げてくれ」

 

舞台の袖、暗がりの中に立つベレトが、感情があるのか分かりづらい低く平坦な声で指示を出した。

彼の視線はドロテアの肉体だけではなく、大講堂の天井に設置された松明の光源、壁の材質による音の反射率、そして審査員が座るであろう客席の座標までの距離を、三次元的なグリッドとして脳内で処理している。

 

ドロテアの胸郭が大きく膨らみ、酸素を取り込む。

彼女はベレトの指示通り、ターンの遠心力を利用して身体を急停止させると同時、顎の角度をミリ単位で調整した。

その瞬間。

天井からの松明の光が、彼女の顔の骨格に沿って完璧な陰影を作り出した。鼻筋から頬骨にかけてのハイライトと、首筋へと落ちる深いシャドウ。

それは、偶然の産物ではない。ベレトの空間認識能力と、ドロテアの筋肉の完全な制御が合致した結果生み出された、計算し尽くされた光学的な『美』の出力だった。

 

「……ふぅ。これでどうかしら、先生?」

 

ドロテアが姿勢を解き、額に浮かんだ汗を指の腹で拭いながら尋ねる。

彼女の呼吸は速くなっているが、声帯を震わせる音声にブレはない。発声時の肺活量すらも、彼女は無意識にコントロールしていた。

 

「姿勢の維持は完全に身に付いたな。視線の射線管理も完璧だ。あとは環境への適応だ。本番の広場はここよりも風が吹く。布地が風の抵抗を受けるタイムラグを計算し、ターンの初動を『心音一つ分』早めてみよう。今の君の筋肉の仕上がりなら、十分に制御できるはずだ」

 

ベレトの言葉は、戦場における地形効果の把握と同質の冷徹な分析でありながら、眼前の生徒の肉体的成長を正確に評価し、次へと導く『教師』のベクトルで放たれていた。

ドロテアは「心音一つ分ね、了解」と短く返し、自身の胸元に手を当てて脈拍の速度を確かめながら、ドレスの裾の重さを再確認する。

 

元・歌姫の肉体操作技術と、傭兵の空間支配戦術。

二人の間で黙々と進められていくのは、純粋な物理法則と力学に基づく、観客の視界と聴覚を完全に支配するための冷徹な『制圧作戦』の構築であった。

 

***

 

そして、白鷺祭の当日。

大修道院の中央広場に急造された特設舞台の周辺は、無数の松明が放つオレンジ色の熱気と、何百人もの生徒や修道士たちの体温、そして吐き出される二酸化炭素によって、冬とは思えないほどの異様な湿度と熱量を帯びていた。

 

観客の密集による空気の振動が、巨大なうねりとなって広場を満たしている。

 

舞台の上。

灰狼の学級の代表として選出されたユーリスが、硬い樫の木の床板を革靴のヒールで強く弾いた。

ダンッ、という乾いた破裂音が夜空に響く。

その瞬間、広場を覆っていたノイズが、彼の足音という単一の音波によって一瞬にして切り裂かれた。

 

彼の動きに、貴族特有の優雅な余韻はない。

足の裏から頭頂部へ至る一本の重心線が常に床と垂直を保ち続け、肩や肘の関節が鞭のように柔らかくしなる。

右足のブーツが床を擦る摩擦音を立てた直後、彼の身体はすでに本来あるべき座標から数十センチずれている。スラムの路地裏で、複数の刃物から瞬時に急所を逸らし、相手の死角へと滑り込むために培われた極めて実戦的な体捌き。

 

ターンの瞬間。遠心力によって彼の薄紫色の髪が空中に広がる。

その髪の隙間から、彼の紫色の瞳孔が、観客席の特定の座標――最も声量の大きな集団がいる位置――へと正確に焦点が合わせられた。

網膜の交差。

客席の前列から、声帯の限界に近い高周波の音波(黄色い悲鳴)が連続して叩きつけられた。

 

ユーリスの口角が、計算された角度で非対称に持ち上がる。

それは踊りではない。他者の視界と神経を操作し、空間の支配権を奪い取るための、暴力の代替手段としての肉体駆動。

素人目に見ても、そして玄人の目から見ても、それは完璧な物理的パフォーマンスだった。

 

だが――その直後に舞台へと上がった黒鷲の代表者によって、広場の空間の物理的性質は完全に上書きされることとなる。

 

ドロテア=アールノルト。

彼女のピンヒールが舞台の板を踏み鳴らした瞬間、ガルグ=マクの無骨な石畳の広場が、錯覚などではなく、物理的な音響と視覚効果によって帝都の豪奢なオペラ座へと変貌した。

 

ユーリスの舞が「回避」と「死角への潜行」であったのに対し、ドロテアの舞は「空間の完全な掌握」だった。

ドレスの裾を翻す際、彼女はベレトの指示通り、風速と布地の質量から空気抵抗を計算し、ターンの初動をコンマ二秒早めていた。結果、布地は重力に逆らうように空中で長く滞空し、観客の網膜にその色彩の残像を強烈に焼き付ける。

 

ターンを終えた直後、彼女は大きく胸郭を膨らませた。

わずかに乱れた呼吸音を、マイクを通したかのように、最も効果的な音量と周波数で観客の鼓膜へと叩き込む。

指先の繊細な動きの軌道、顎の角度の微調整、松明の光を顔の骨格に反射させるための立ち位置の固定。

すべてが、素人の熱演ではなく、計算し尽くされた『プロの技術の出力』だった。

 

結果発表を待つまでもない。

審査員たちの満場一致で、今年の白鷺祭の優勝者はドロテアに決定した。

 

***

 

地上の喧騒から遠く離れた、光の届かない地下の街、アビス。

常にカビと湿気、そして古びた石の匂いが停滞する閉鎖空間の一角に設けられた、灰狼の学級の控室。

重い木製の扉を押し開け、ユーリスが入ってきた。

 

「はぁー……」

 

ユーリスは肺の奥から空気を吐き出すと、窮屈そうに首元を覆っていた衣装の装飾金具に指を引っかけ、カチャリと音を立てて緩めた。彼の額には薄っすらと汗が浮き、心拍数はまだ完全には平常時に戻っていない。

 

「お疲れ様、ユーリスくん……」

 

教室の教卓の横で、土瓶から温かいハーブティーをカップに注いでいたメルセデスが歩み寄ってきた。彼女の表情筋は、明確な『申し訳なさ』の形態を作っている。

彼女の手から渡された陶器のカップを受け取ると、ユーリスの手のひらに液体の熱が伝わる。

 

「ごめんなさいね……私がもっと上手に踊りの指導をしてあげられていれば……あんなに頑張ってくれたのに、本当にごめんなさい」

「メルセデス先生が謝ることじゃねぇよ」

 

ユーリスはカップに口をつけ、温かい液体を食道へと流し込んだ。

 

「向こうは本職の歌姫で、しかもあのベレト先生が完璧に戦術として仕上げてきたんだ。俺の我流のステップじゃ、観客の視線の誘導から空間の支配まで、完全に手玉に取られた。筋肉の使い方の根本が違う。どう足掻いても勝てねぇよ」

 

ユーリスはカップを机に置き、鼻から短く息を抜いた。

 

「先生は謝らなくていいよ」

 

控室の隅。壁際でモップの柄の汚れを、硬く絞った雑巾で拭き取っていたツィリルが、手を止めてこちらを振り返った。

 

「ユーリスは一回も転ばなかったし、舞台の板を一枚も割らなかった。それに、あの黒鷲の女の人より、ユーリスの方がずっと足元がしっかりしてたよ」

 

ツィリルは雑巾の裏表を返し、再びモップの木目に沿って摩擦を再開する。

 

「あの女の人は布が多すぎて、動きの初動がコンマ数秒遅れてた。暗殺者に襲われた時、あんな重心の乗せ方してたら一歩目で足を掬われて死ぬよ。ユーリスの動きは、いつでも全方向に回避できる歩幅と筋力のオンオフだった。……ボクは、ユーリスの方が長生きできる動きでマシだと思う」

 

舞踏の美しさなどという非物理的な概念は、この少年の思考回路には一ミリも介在していない。あるのは『実戦における生存確率』と『労働効率』による評価だけだった。

 

壁際で腕を組んでいた死神騎士(エミール)の瞳孔がわずかに拡大した。彼はツィリルの純粋な実利論を『殺し合う獲物の見定め』として完全に誤認し、深く同調の息を吐き出した。

 

「……その通りだ。あの重心移動。いかなる凶刃をも躱し、相手の死角へと潜り込む実戦的な歩法だった。あれならば、俺の鎌も一撃は避けられよう。……素晴らしい戦技だったぞ」

 

清掃員の無自覚な実利主義と、死神の狂気じみた殺意の波長が、全く異なるベクトルから完璧に合致してしまう。その明らかな異常性に、ユーリスの眉間の筋肉がピクンと物理的に引き攣った。

 

「ええ! 本当に優雅で、見とれてしまいましたわ! わたくしもあんな風に踊ってみたいです!」

 

フレンが両手を胸の前で合わせ、空気を弾くように小さく跳ねる。

 

「ははっ! 違いない! 色気も迫力も、俺たちアビスの級長が一番だったぜ!」

バルタザールが大股で歩み寄り、ユーリスの背中を巨大なひら手で豪快に叩く。バァンッ、という強烈な打撃音に、ユーリスの肺から強制的に空気が押し出された。

 

「ま、ユリーが一番輝いてたのは事実だしね。黒鷲の人は確かにすごかったけど、ハピはユリーの踊りの方が好きかな」

木箱の上に座っていたハピが、脚をぶらぶらと揺らしながら、口角をわずかに上げて言った。

 

「オーッホッホッホ! 当然ですわ! わたくしたちの代表は、歌姫相手でも気圧されるなどあり得ませんのよ!」

コンスタンツェが、薄暗い地下室であるため高飛車な人格を全開にして高笑いを上げる。彼女の声帯の震えが、閉鎖空間の空気をビリビリと振動させる。

 

「そうです! ユーリスさんが歌劇団の一員として舞台に立たれていたら、きっとドロテアさんと双璧をなしていました! 陛下もきっとそうおっしゃるはずですわ!」

モニカが息をするように皇帝の幻影を持ち上げながら、早口でまくし立てた。

 

「…………」

 

ユーリスは、自分を取り囲むこの騒がしくも無秩序な連中の顔を順番に見渡した。

誰一人として、優勝を逃した事実を気にしていない。

それぞれの全く違う、噛み合わない価値観のまま、彼らはユーリスの肉体の挙動を口々に評価している。地下の暗がりで常に他人の悪意を計算し、一人で防衛線を張り巡らせてきたユーリスの神経網が、この無条件の音声のシャワーを浴びて、少しずつ弛緩していく。

 

「……お前らって奴は。まったく、調子が狂うぜ」

 

ユーリスの口角が、計算された作り笑いではなく、自然な筋肉の弛緩によって柔らかく持ち上がった。

 

「……ありがとな。お前らの応援、悪くなかったぜ」

 

控室の空気の密度が、一段と低下し、呼吸しやすい状態へと変化する。

灰狼の学級という寄せ集めの集団が、ひとつの集合体としての輪郭を物理的に安定させた瞬間だった。

 

「じゃあ、ボクは行くよ」

 

ツィリルは、汚れを拭き取ったモップと、水を入れた木製のバケツを両手に持ち上げた。

 

「女神の塔の床、ワックスがけしといてくれってドロテアから頼まれてるんだ。今から行かないと、夜になっちゃう」

 

「あら、ツィリルくん。モップがけなら私も手伝うわ。風紀の見回りも兼ねてね」

メルセデスが、ふんわりとした笑顔でツィリルの背中を追う。

 

「先生は来なくていいよ。ドレスの裾踏んで転ばれたら、ボクが二度拭きしなきゃいけなくなるし」

「もぉ、ツィリルくんったら。私、そんなにどんくさくないわよ〜」

 

二人の足音が、地下の石段を登って遠ざかっていく。

 

ツィリルの脳内にあるのは、「床の材質に合わせたワックスの選定」と「効率的な清掃ルート」という実利的な段取りだけである。

自分が向かう先が、白鷺祭の夜に複数の貴族の男女が獲物を狙ってひしめき合う『愛と欲望の修羅場』の頂上であることなど、彼はただの一ミリも想像していない。

 

少年はただ、木製のモップの柄の感触を確かめながら、伝説の塔へと続く長い石段を一定のペースで登り続けていた。

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