擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第十四章③

帝国暦1180年、星辰の節。

ガルグ=マク大修道院の中央に垂直にそびえ立つ女神の塔。その最上階の円筒形の空間は、地上の広場で発散されている熱気と音波から完全に隔絶され、氷点下に近い冷気が石の表面に分厚く張り付いていた。

壁面に等間隔に穿たれたアーチ状の窓から、冬の夜風が絶え間なく吹き込む。空気は室内を旋回しながら、そこに存在するあらゆる物体の体表から容赦なく熱エネルギーを奪い去っていく。

 

螺旋状の石段を、革靴の底が叩く一定の規則的な音が登ってくる。

ツィリルが、右手に火の灯ったカンテラを、左手に木製のバケツとモップを持ち、最上階の硬い床板へと足を踏み入れた。

 

カンテラの内部で燃焼する獣脂の微弱な光子が、床に落ちたわずかなホコリの粒子と、石の継ぎ目の凹凸を照らし出す。

彼の脳内では、ドロテアから指定された「小さな銀色の髪飾り」の形状と、それに光が反射する角度の計算、そしてその後の床面へのワックス塗布の最適な動線が構築されていた。

 

「……暗いな。早く床磨きに入らないと、冷え込みすぎて蜜蝋(みつろう)が上手く伸びなくなる」

 

彼が独りごちながらカンテラを胸の高さまで持ち上げ、光の照射角を前方の暗がりへと広げた瞬間。

 

「ツィリル……こんな夜更けに、奇遇ですね」

 

前方、女神像を支える巨大な石柱の陰から、極度に緊張して硬直した声帯の震えが空気を切り裂いた。

ファーガス神聖王国の青を基調とした貴族服を身に纏ったイングリットが、石柱の裏から姿を現す。

彼女の顎の筋肉は硬く強張り、両手は胸の前で強く握り込まれている。指の関節の皮膚が血流の偏りによって白く変色する一方で、彼女の顔面から首筋にかけての毛細血管は限界まで拡張し、明らかな赤みを帯びていた。周囲の気温の低さに反し、彼女の体表からは異常な量の熱が放出されている。

彼女の瞳孔は小刻みに左右に揺れながらも、その奥にある網膜はツィリルの姿を明確に捉え続けていた。

 

「奇遇じゃないよ。ボクはドロテアに頼まれて、ここの床の掃除をすることになってるから」

 

ツィリルはカンテラの光を彼女の足元に向け、そこに落下物や汚れがないことを確認する。

 

「そ、そうですか……。いや、私はその……日頃のあなたへの恩義を、静かな場所で改めて伝えようと、そう思いまして……」

 

イングリットの右足が前へ出た。ブーツの裏が石の床を擦り、ツィリルとの物理的距離を数十センチ詰める。

 

「イングリット、恩返しの話なら明日ちゃんと聞くから」

 

ツィリルの眼球は、イングリットの薄い外套の厚みと、赤くなった鼻の頭の表面温度を視覚情報として処理した。

 

「こんな寒いとこに薄着でいたら絶対風邪ひくよ。明日の訓練も大事なんでしょ? 騎士になるなら、まずは自分が倒れないように、あったかくして寝て」

 

相手の目標を尊重した上での、健康状態への純粋な危惧。

イングリットが肺に大きく空気を吸い込み、さらに一歩を踏み出そうと膝の関節を曲げた、その時。

 

「あーっ! グリットちゃん、抜け駆けはずるーい!」

 

背後の螺旋階段の方向から、極めてピッチの速い、複数の足音が重なって響いた。

ヒルダが階段の最終段を強く蹴り上げ、そのままの運動エネルギーを維持してツィリルの右側方へと突進する。

彼女の身体の質量がツィリルの右腕に激突し、衣服の布地同士が強烈に擦れ合う摩擦音が鳴った。ヒルダの両腕がツィリルの右腕に絡みつき、彼女の体温と柔らかな筋肉の弾力が、少年の上腕部から肩にかけて完全に密着する。

 

「ヒ、ヒルダさん!? あなた、こんな場所で不謹慎な……離れなさい!」

「えー? ツィリルくんとお話ししたいんだもん。ねえツィリルくん、探し物なんてやめて、私と……」

 

「ヒルダ、右腕にくっつかれたらカンテラが下がって足元見えないよ」

 

ツィリルは右腕を動かそうとしたが、ヒルダの体重が関節に乗っているために可動域が制限されていた。

 

「この塔の床石、ボロボロでつまずきやすいから、バランス崩してヒルダが頭でも打ったらどうするの。大きな怪我したら痛いのはヒルダだし、皆もすごく心配するよ。危ないから、しっかり足元見て歩いて」

 

ツィリルの口から出力されたのは、密着に対する動揺や羞恥による音声の乱れを一切伴わない、重心の偏りによる転倒リスクへの警告と、同年代の少女が物理的苦痛を負うことへの純粋な心配のみだった。

 

イングリットがさらに距離を詰め、ヒルダの肩を掴もうと右手を伸ばす。

その直後。

 

「……静かな場所で、大声を出すのはやめてもらえますか。迷惑です」

 

部屋の左手、月明かりの届かない完全な暗がりの中から、硬く尖った音声が放たれた。

リシテアが腕を組み、不機嫌に眉間の筋肉を寄せて歩み出てくる。その後ろには、リシテアの服の裾を震える指で強く握りしめたマリアンヌが、伏し目がちについてきている。

 

「リシテアさん……それにマリアンヌさんも。なぜここに……?」

 

イングリットの眼球が大きく見開かれる。

 

「わ、私たちは星の観察に来ただけなんですから! ツィリルがここにいるからって、他意はありませんっ!」

 

リシテアの顔面の血流量が急増し、早口で音節を叩きつける。

マリアンヌは震える手を自身のポケットに差し込み、そこに入っていた小さな手鏡の冷たい感触を確かめた後、ツィリルへと微弱に焦点の合った視線を向けた。

 

「あ、あの……ツィリルさん。夜風が、とても冷たいですね……。その、少しだけ、あなたの側に……」

 

「星? 屋根があるから見えないと思うんだけど……」

 

ツィリルは空間的な構造事実を即座に指摘し、続いてマリアンヌの震える肩へ視線を移した。

 

「マリアンヌ、肩震えてるよ。ボクの側は暖炉じゃないから、風邪ひくよ。ドルテだって、マリアンヌが具合悪くなったら心配すると思うよ」

 

彼の脳裏には、馬房でドルテの首筋を撫でるマリアンヌの姿が明確に記録されている。彼女の健康状態が悪化すれば、彼女の庇護下にある動物が精神的なストレスを受けるという、明確な生体的連携の事実に基づく忠告。

 

ツィリルが左手のモップの柄を握り直した、次の瞬間。

 

「オーッホッホッホッ!!」

 

階段から、強烈な高周波の笑い声が空気を振動させた。

コンスタンツェが、ヒールで階段の石を激しく叩きつけながら最上階へと姿を現す。

 

「星の光など、このわたくしの前では霞みますわ! さあツィリル、わたくしと共に言葉を交わし、ヌーヴェル家復興の礎を……!」

「ちょっとコンスタンツェさん、邪魔です! ツィリルくんのお隣は私の定位置ですからね!」

 

コンスタンツェの背後から、モニカが強引に肩をぶつけて前に出た。質量の衝突によってコンスタンツェの体勢がわずかに崩れる。

 

「ツィリルくん、こんな騒がしい連中は放っておいて、私と二人で……!」

「ああっ、モニカさんまで! ダメです、ツィリルから離れなさい……!」

「子供はすっこんでなさいな! 私がツィリルくんの……」

「だから私を子供扱いするなと……!」

 

イングリット、ヒルダ、マリアンヌ、リシテア、コンスタンツェ、モニカ。

六人の少女たちの声帯から発せられる音波が交錯し、最上階の閉鎖空間の中で激しく反響し合う。互いに肩や腕をぶつけ合い、ツィリルを中心とした半径一メートル以内の空間座標の占有権を奪い合う物理的な摩擦と押し合いが発生した。

 

ツィリルは右手にカンテラ、左手にモップを持ったまま、六人の肉体の壁によって完全に進行方向を塞がれていた。

 

「……あのさ、みんな。こんな冷えるところで集まってたら、本当にみんな風邪ひいちゃうよ。ボクも早く掃除終わらせて休みたいし、そこ退いてくれないかな」

 

彼の声は、少女たちの高音のノイズの波長に衝突し、相殺されて消えていく。

 

少女たちの人口密度の上昇により、ツィリルの周辺の酸素濃度が低下し、体温の集合による熱だまりが形成されつつあった。誰も彼の言葉を音声情報として正しく処理せず、互いを牽制するための発声と腕の振りを継続している。

 

その時。

 

「……みんな、こんな夜更けに何をしているの〜?」

 

カンテラの光が届く限界、階段の入り口付近の空気が、ふわりと動いた。

極めて静かな、靴底の摩擦音を極限まで抑えた足運び。

メルセデスが、両手で分厚いウールのショールを胸の前に抱え、口角の筋肉を完璧な弧の形に引き上げて立っていた。

 

彼女の声帯から放たれた音声は、決して大音量ではない。

しかし、その声が持つ特定の周波数が、少女たちの発するノイズの波長を完全に上塗りし、空間の反響を支配した。

 

「女神の塔は、夜は立ち入り禁止のはずよね〜? 先生、不良の生徒たちには、きちんとお説教しなくちゃいけないわね〜……」

 

メルセデスの瞳孔は、一切の収縮も散大も示さず、瞬きの回数も極端に少なかった。

彼女の口元は笑みの形を維持したまま、静かな歩幅でツィリルの方向へと直進する。

その気配の接近に対し、六人の少女たちの動きが完全に停止した。交錯していた音波が消え、空間に一瞬の完全な静寂が訪れる。

 

メルセデスは、ツィリルの正面まで歩み寄った。

彼女は他の六人の少女たちの顔に一切の視線を向けず、自身の手に持っていた分厚いショールを、ツィリルの肩の上へと静かに被せた。

 

ウールの生地がツィリルの肩を覆い、布と布が擦れる微かな音が鳴る。

ショールに蓄えられていたメルセデスの体温が、ツィリルの首筋から肩の筋肉へと直接的に熱伝導を開始した。

 

「ツィリルくん、冷えるからこれ羽織ってね〜。さあ、不良の生徒たちはここで反省させて、ツィリルくんは私と一緒にお部屋に……」

 

彼女の指先が、ショールの端をツィリルの胸元で優しく、しかし確かな力で固定する。

それは布を用いた、明確な物理的隔離と包囲の動作だった。

 

「「「先生!?」」」

 

沈黙を破り、イングリットの声帯から限界音量に近い音波が発射された。

 

「大人が一番、職権濫用です!」

「そうですわ! 抜け駆けは許しませんわ!」

「メーチェさん、それはあまりに強引です……っ!」

 

メルセデスの行動をトリガーとして、六人の少女たちの肺から一斉に空気が押し出され、抗議の音声が再び塔の最上階で飽和状態に達する。

互いの腕を掴み合い、ツィリルとメルセデスを中心とした新たな押し合いのベクトルが形成された。

 

ツィリルは肩に掛けられたショールの熱と、顔の真ん前に迫る少女たちの顔面を見比べながら、右手のカンテラを持ち直した。

 

「……メーチェ。あったかいのは嬉しいけど、これじゃ掃除ができないから返すよ」

 

ツィリルはショールの端を指でつまみ、メルセデスの肩へと丁寧に掛け直し、彼女の手に押し返した。

 

「それに、ボクは自分の部屋には戻らない。この床の掃除が終わるまでここを動けないよ。頼まれた仕事だからね……全員、風邪ひく前に早く自分のベッドで寝たほうがいいよ」

 

ツィリルは再びカンテラを床へ向け、石の継ぎ目とホコリの分布の視覚的スキャンを再開した。

彼の背後で、少女たちの間の温度勾配が急激に変化し、互いを牽制し合う音波が交錯し続ける。

それぞれの足の踏み込みによる床への荷重、視線の射線のぶつかり合い、吐き出される白濁した呼気。

 

ツィリルはそれらの物理的現象を背中に浴びながらも、ただ一本のモップの柄を正確な角度で握りしめ、冷え切った大理石の表面にこびりついた汚れだけを黙々と削り落とし続けていた。

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