帝国暦1180年、星辰の節。
ガルグ=マク大修道院の中央に垂直にそびえ立つ女神の塔。その最上階の円筒形の空間は、外部の氷点下に近い冷気から完全に隔絶され、異常な熱だまりを形成していた。
イングリット、ヒルダ、マリアンヌ、リシテア、コンスタンツェ、モニカ。
六人の少女たちの声帯から発せられる音波が交錯し、石造りの壁面で乱反射を繰り返している。
「ですからコンスタンツェさん、邪魔です! ツィリル様には私が……!」
「子供はすっこんでいらして! ここはわたくしとツィリルの……!」
「星の観察の邪魔をしないでください! 私とツィリルはこれから……っ」
「メーチェさん、それはあまりに強引です……っ!」
互いに肩や腕をぶつけ合い、相手の進行方向を物理的に塞ぎ合う摩擦。
吐き出される二酸化炭素と、急激な血流量の増加に伴う体表温度の上昇により、塔の最上階は局地的な熱帯と化していた。
その中心。
右手にカンテラを、左手にモップを持ったツィリルは、完全に六人の肉体の壁によって包囲されていた。
少女たちの放つ高音の波長と、香水や石鹸、そして汗の匂いが混ざり合った濃密な空気が、ツィリルの鼻腔から肺へと絶え間なく流れ込んでくる。
ツィリルの眼球は、目の前で火花を散らす少女たちの顔面を順番に捉えていた。
イングリットの充血した耳たぶ。ヒルダの腕から伝わる心臓の拍動。リシテアの震える唇。マリアンヌの潤んだ瞳孔。
これまで、彼は「大修道院の仕事」と「レア様への奉仕」という実利的なベクトルのみで世界を処理してきた。
だが今、この異常な熱量を持った空間の中心で、彼の脳内に全く別のベクトルを持つ生体信号が点滅を始めていた。
(……うるさいな。でも……嫌じゃない)
彼の胸郭の奥で、心筋がこれまで経験したことのない重く鈍い収縮を起こした。
眼前の少女たちは皆、網膜の焦点をツィリルというただ一つの座標に固定し、他のあらゆる事象を視界から排除している。
パルミラの戦火で親を失い、すべてを奪われ、常に這いつくばって生きてきた少年の深層心理。その奥底に封印されていた『自分だけのものを手放したくない』という、生物としての原初的な所有欲が、彼女たちの異常な熱量に当てられて急速に膨張し、毛細血管の隅々にまで熱い血液を行き渡らせていく。
「……やめて」
ツィリルの喉仏が動き、低く、しかし恐ろしく密度の高い音声が放たれた。
彼は左手に持っていたモップから指を離した。
カランッ、という乾いた木の音が響き、モップの柄が石の床に転がる。
清掃という絶対的な労働の放棄。その物理的な異常事態に、少女たちの声帯の震えが一瞬だけ停止した。
ツィリルは、自身の右腕に密着していたヒルダの腕を、痛みのない程度の力でゆっくりと剥がした。
「喧嘩しないで。……ボクのために言い争うのは、やめてよ」
ツィリルの金色の瞳孔が、夜の暗がりの中で真っ直ぐに六人の顔を射抜く。
そこに、照れ隠しや、その場を取り繕うための視線の揺らぎは一切存在しない。
「ボクは……イングリットも、ヒルダも、リシテアも、マリアンヌも、コニーも、モニカも……みんな、ボクの大事な人だ」
「ツィ、ツィリル……?」
イングリットの喉が引き攣り、肺への空気の供給が一時的に停止する。
「誰か一人を選ぶなんて、ボクにはできない。選んで、他の誰かがボクの側からいなくなるなんて……そんなの、絶対に嫌だ」
ツィリルの顔面から首筋にかけての皮膚温度が上昇し、明確な赤みを帯びている。
彼は自身の欲求の異常性を脳の片隅で理解し、年相応の羞恥による自律神経の乱れを起こしながらも、決して視線の射線を外すことなく、ただ純粋な事実としてその欲求を言語化した。
「……ボクが全部守るから。あなたたち全員の命も、居場所も、全部ボクが守るから……ずっと、ボクの側にいてよ」
シン、と。
外から吹き込む風の音すら消え失せたかのように、女神の塔が完全な無音状態に陥った。
大修道院の小間使いに過ぎない孤児の少年が、名だたる貴族の令嬢たち全員に対して放った、物理法則や身分制度を完全に無視した囲い込みの宣言。
「……ツ、ツィリルくん」
凍りついた空気を振動させたのは、メルセデスだった。
彼女の顎の筋肉は微かに痙攣し、両手で抱え込んだショールを強く握りしめている。
彼女は必死に表情筋を操作し、口角を引き上げて『教師としての微笑み』の形態を顔面に構築しようとしていた。
「一人の男の子が、みんなを独り占めするなんて……そんな我が儘、先生は許せませんよ〜……?」
優しく諭すような音声波形。
大人として、そして教師として、この異常な空間のロジックを正常な社会規範の枠内に収束させようとする、理性の最後の抵抗。
だが。
ツィリルは床を蹴り、メルセデスの正面、距離にしてわずか二十センチの位置まで一歩を踏み出した。
彼は両手を上げ、ショール越しにメルセデスの両肩の骨格を、逃げ場のない強い力でホールドした。
「我が儘でもいい。……メーチェを手放すくらいなら、ボクはずっと悪い子でいいです」
「あ……っ」
「ボクは、あなたがいなくなるのが嫌なんだ」
ツィリルの声帯から放たれたのは、自身の純粋な欲求のみで構成された事実の出力だった。
その音声の波長を鼓膜で受信した瞬間、メルセデスが顔面に維持していた『教師としての微笑み』の筋肉が、耐えきれずに小さく痙攣した。無理に引き上げられていた彼女の口角が重力に従って震え落ち、喉の奥から言葉にならない微弱な呼気が漏れ出す。
メルセデスの網膜に、自分の両肩を強く掴むツィリルの腕の筋肉の隆起と、逃げ場を塞ぐ真剣な瞳が映り込む。
このまま教師としての建前を維持して彼を突き放せば、自分の肉体は彼の腕の中から完全に解放される。そして、背後にいる他の少女たちが、彼のこの強い腕の中に収まる光景を、永遠に安全な場所から見下ろすだけの存在になる。
胸骨の奥底から込み上げてくる、消化器系を焼き尽くすような強烈な焦燥感。
メルセデスの瞬きの回数が急増し、涙腺から溢れ出した大粒の液体が、表面張力を失って彼女の頬を滑り落ちた。ポタッ、と、冷たい石の床に水滴が弾ける。
「……ツィリルくん。先生を、困らせないで……っ」
声帯は完全に震え、発声のコントロールは失われていた。
メルセデスは両手で握りしめていたショールから指の力を抜き、それを床に滑り落とした。
そして、ツィリルの両腕のホールドに自ら崩れ落ちるように前傾し、彼の胸元に顔面を深く埋め込んだ。
「……ええ、わかったわ。ツィリルくんがそう言うなら、私……先生じゃなくていい。ずっと、あなたの側にいるわ……っ」
彼女の両腕がツィリルの背中に回り、その衣服を強く握りしめる。
最年長であり、最も理性の枠組みに囚われていたはずの『教師』の陥落。
その物理的な服従の光景は、背後で硬直していた六人の少女たちの脳内に強烈な電気信号を走らせた。
「そ、そんな不道徳なこと……許されるはずが……っ」
イングリットの顔面の温度が沸点に達し、両手で顔を覆う。だが、彼女の足の筋肉はツィリルから離れる方向への収縮を完全に拒絶していた。
「だ、だが、あなたが……どうしても私を傍に置きたいと仰るのなら……っ! き、騎士として、あなたをお守りするくらいのことは……っ!」
口元から放たれる建前とは裏腹に、指の隙間からツィリルを見つめる瞳孔は完全に熱に浮かされ、拡大しきっている。
「もー! ツィリルくんってば、本当に欲張りなんだから! ……でも、そういう強いところ、すっごく好きだよ」
ヒルダが再び床を蹴り、ツィリルの背中からその首筋に両腕を巻きつけた。彼女の頬の柔らかな脂肪が、ツィリルの肩口に強く擦りつけられる。
「ほ、本当に馬鹿じゃないんですか!? でも……あなたがそこまで言うなら、仕方ありませんっ! 私も、あなたの側にいてあげます!」
リシテアが勢いよく顔を背けながらも、右手を伸ばし、ツィリルの外套の裾の布地を千切れるほどの力で握りしめた。
「私のような者の居場所を……作ってくださるのですね……。ありがとうございます……ツィリルさん……っ」
マリアンヌが手鏡を胸の谷間に強く抱き込み、目尻から安堵の涙を零しながら、ツィリルの左腕にそっと自身の右手を添える。
「オーッホッホッホ! このわたくしを含めて全員を囲おうなどというその覇道! 見事ですわ! 褒めて遣わします!」
コンスタンツェの声帯が最高潮に達し、彼女のヒールが歓喜のステップを踏んで石の床を叩き鳴らす。
「ツィリル様がそう仰るなら、私も……皆様ごと、ツィリル様をお守りしますっ!」
モニカの両足が完全にツィリルのパーソナルスペースの内側へと踏み込み、彼女の瞳が絶対的な庇護の誓いを物理的な光として放った。
「……よくわかんないけど、みんなが喧嘩しないなら、それでいいや。……ありがとう。ボク、みんながいてくれて嬉しい」
ツィリルの言葉は、これ以上大声を出して体力を消耗し、硬い石の床で転倒して骨を折る危険性が去ったことに対する、純粋な安堵の吐息に過ぎない。
だが、その飾らない少年の本音が鼓膜を震わせた瞬間、七人の少女たちの顔面から首筋にかけての毛細血管が一斉に拡張し、暗がりの中でもはっきりとわかるほどの鮮やかな朱色が彼女たちの皮膚を染め上げていった。
「……でもさ、これだけの人数でゾロゾロと塔を降りたら、広場にいる人たちに見つかって大騒ぎになっちゃうよ? セテスさんに見つかったら、絶対にお説教だし」
ヒルダの声帯が、冷静な現状分析の音声を放つ。
「た、確かに……こんなところで全員が集まっていたと知られたら、いらぬ誤解を……!」
イングリットの頸椎が鋭く動き、周囲の暗がりを確認する。
「それじゃあ、少しずつ時間を空けて、順番に降りることにしましょう〜」
メルセデスが、ツィリルの肩から顔を上げ、周囲の少女たちを見渡した。彼女の顔には、すでに群れの長姉としての完璧な余裕の微笑みが定着している。
「これからの詳しいことは、また後で……誰にも邪魔されない場所で、ゆっくりお話ししましょうね〜。最後は、私が風紀の見回りということで、ツィリルくんと一緒に降りるから〜」
「あ、メーチェ先生ずるーい。……ま、今日はいっか」
ヒルダが小さく舌を出し、靴底を鳴らす。
「では……私は先に失礼します。ツィリル……また、後で」
イングリットが、ツィリルの顔を直視できないまま早口で音声を叩きつけ、逃げるように、しかし確かな足取りで階段を下りていく。
「私、マリアンヌと一緒に戻りますっ。二人なら星の観察の言い訳が立ちますから! ほら、行きますよマリアンヌ!」
「あ、はい……。ツィリルさん、また……」
リシテアがマリアンヌの腕を引き、そそくさと後に続く。
「さあモニカ、わたくしたちも行きますわよ!」
「引っ張らないでください! ツィリル様、後ほど必ず……!」
コンスタンツェとモニカが激しい足音を響かせて階段へと消え、ヒルダもツィリルの頬を指先でツンと突いてからウィンクを残して降りていった。
一人、また一人。
時間差で塔を降りていく少女たちの体温が消え、最上階に再び夜の冷気が流れ込んでくる。
ツィリルはカンテラを持ち直し、床に置いた水桶と磨き布を拾い上げた。
「……早く床磨き終わらせなきゃ」
「ふふっ……そうね。私も手伝うわ〜」
誰一人いなくなった石造りの空間で、メルセデスがツィリルの隣にピタリと寄り添う。
ツィリルは床のホコリの分布の視覚的スキャンを開始し、メルセデスはその少年の横顔を熱を帯びた瞳で見つめ続ける。
完全に噛み合わない二つの思考回路は、そのまま静かな月光の下で並行線を辿り続けていた。
***
翌日の朝。
白鷺祭の熱気がまだ微かに残る大修道院の石造りの回廊に、柔らかな太陽光が斜めの角度で差し込んでいた。光の粒子が、空気中を漂う塵をきらきらと反射させている。
イングリットは、昨夜の出来事を脳内で再生するたびに自律神経系が乱れ、無意識に頬に手を当てては、過剰な酸素を取り込むための深呼吸を繰り返しながら歩いていた。
彼女の海馬には、月明かりの下で自分たち全員の命と居場所を丸ごと抱え込むと宣言した、あの少年の言葉の波形と、力強い瞳孔の光が完璧な状態で保存されている。
「あら、グリットちゃん。おはよう」
不意に背後から鼓膜を打つ音声。
イングリットの肩の筋肉がビクッと跳ね、反射的に頸椎を回転させる。
そこには、昨夜の舞踏会で見事に優勝を飾ったドロテアが、口角を柔らかく引き上げた悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。
「ふふっ。どうだったかしら、昨日の夜は? 上手くいった?」
ドロテアの眼球が、イングリットの赤い頬を的確に捉える。
イングリットの顔面の毛細血管がさらに拡張し、血流量が爆発的に増加する。彼女はコホンと一つ意図的な咳払いをして喉を鳴らし、大胸筋を張って姿勢を真っ直ぐに正した。
「ド、ドロテア。……昨夜は、その……色々と気を遣っていただき、ありがとうございました。おかげで……」
イングリットの瞳孔が左右に揺れ、視線が宙を泳ぐ。
まさか『私を含めた七人の女子で彼を共有し、全員で彼を絶対的な群れの長として支えていく同盟を結びました』などと、音声として出力するわけにはいかない。
「……おかげで、ちゃんと、お話ができましたから。……本当に、感謝しています」
イングリットは顔面の熱を隠しきれないまま、ドロテアに向かって腰を深く折り曲げた。
それは、自分をあの『群れ』という絶対的な居場所へ導くきっかけを作ってくれた恩人に対する、彼女なりの心からの物理的な敬意の表明だった。
その骨格の傾きと血色の変化を見たドロテアの脳内では、イングリットの反応が完全に『一対一の初々しい恋を実らせた乙女の恥じらい』という一般的なフォーマットへと変換され、処理されていた。
「ふふっ、いいのよ。グリットちゃんったら、すっかり女の子の顔になっちゃって。……まあ、あの子は私の『お見合いリスト』の対象外だから、安心してお幸せにね」
ドロテアは右目の眼瞼をパチリと閉じてウィンクの動作を作り、恋のキューピッドとしての自己評価を完了させると、軽快な足取りで回廊の奥へと歩き去っていった。
かくして、ドロテアの一般的な恋愛観と、イングリットたちの異常な集団心理が、ただの一度も交わることなく完全にすれ違ったまま。
星降る夜の騒動は、朝の光の中で静かにその物理的痕跡を消し去っていった。