星辰の節の冷気を含んだ風が、旧礼拝堂跡の崩れかけた石柱の間をすり抜けていく。
直前まで空間を支配していた魔獣たちの咆哮はすでに消え失せ、代わりに濃密な血の匂いと、内臓が焼け焦げたような酷い悪臭が立ち込めていた。
ベレト率いる黒鷲の学級、そしてジェラルト率いる騎士団による掃討戦は完了した。
ジェラルトは愛用の槍の石突きを石畳に叩きつけ、刃にこびりついた赤黒い粘液を振り払う。彼の太い首から肩にかけての筋肉が弛緩し、戦闘状態から通常状態への移行を示す深い呼気が吐き出された。
彼の網膜が、崩落した祭壇の陰にうずくまる一つの生体反応を捉える。
指定の制服とは異なる布地を纏った、小柄な女子生徒。彼女の肩の筋肉は小刻みに痙攣し、膝を抱え込むようにして硬直していた。
「おい、大丈夫か。もう魔獣はいない。怪我はないか?」
ジェラルトの喉仏が動き、警戒を解かせるための低く穏やかな音声が放たれる。彼は武器の穂先を下げ、革のブーツで瓦礫を踏み越えながら、生徒との物理的な距離を縮めていった。
「あ……助けてくれて……ありがとうございます……っ」
生徒の口から、微弱な震えを伴う音声が出力される。彼女はふらつく足取りで立ち上がり、安堵に満ちた表情でジェラルトの分厚い胸板へと倒れ込むように一歩を踏み出した。
その瞬間。
少女の顔面を構成する表情筋が、一切の感情を排除した三日月の形状へと異様に歪んだ。
右手の袖口の裏側から、光を反射しない漆黒の短刃が滑り出る。
金属の冷たい刃先が、完全に無防備となったジェラルトの背中の装甲の隙間を抜け、脊髄と心臓を繋ぐ急所へと音もなく、そして深々と突き立てられた。
肉が裂け、動脈が切断される生々しい音が響く。
「――っ!?」
「あははっ! 隙だらけじゃん、おっさん!」
数メートル後方にいたベレトの視界が、警報のように白く点滅する。
彼の手のひらが天帝の剣の柄を砕けんばかりに握りしめられ、心臓の鼓動をトリガーとして『時間の逆行』が発動した。
空間の色彩が反転し、空気の流れが巻き戻る。
再び、少女が短刃を構え、ジェラルトの背中へと腕を突き出すコンマ数秒前。ベレトの脚力が石畳を粉砕し、凶刃を弾き飛ばすための最短の軌道で剣が振り下ろされた。
金属と金属が激突する、鼓膜を破るような轟音。
ベレトの腕の筋肉に、岩盤を叩いたような強烈な反発力が伝わる。
剣の軌道の先、空間の座標が歪み、赤黒い光の粒子を伴う魔法陣が展開していた。そこから現れた青白い肌を持つ男――タレスが、ベレトの全身全霊の斬撃を、腕一つで完全に受け止めていた。
「我らの悲願、ここで邪魔をさせるわけにはいかぬ」
「あはははは! 傑作! あの『壊刃』が、ただのガキ相手に背中を見せるなんてね!」
ズチュッ、という致命的な肉体の破壊音が、再びベレトの聴覚神経を容赦なく叩き据える。
時間の座標を巻き戻した事実すらも凌駕し、ジェラルトの背に刃が根元まで沈み込んだ。
女子生徒の顔面の皮膚がドロドロと溶解し、その下から、毒々しいオレンジ色の毛髪と蒼白い肌を持つ異形の少女、クロニエが姿を現した。
彼女は、モニカの姿を借りた潜伏計画が頓挫したため、名もなき生徒の皮膚組織を被り、ただこの一撃のためだけにここに存在していた。
「クロニエ、下がるぞ。……光の眷属よ。いずれまた会おう」
タレスの音声が響き終わるのと同時に、空間の歪みが二人を包み込み、光の明滅と共に一切の痕跡を残さず消え去った。
「……っ!」
ベレトの喉の奥で、声にならない呼気が硬く詰まった。
彼は無言のまま膝を折り、重力に従って崩れ落ちるジェラルトの巨大な質量を、その腕の中にきつく抱え込む。
切断された動脈から絶え間なく血液が噴出し、乾いた石畳の隙間を赤黒く埋め尽くしていく。刃は肺と心臓の壁を貫通しており、細胞組織の修復を司るいかなる白魔法の波長も、すでに意味をなさない状態だった。
「……泣いてるのか、お前。初めて見たな……お前が泣く顔……」
ジェラルトの口腔から血の泡が溢れ出す。彼は急速に温度を失っていく右腕を持ち上げ、ベレトの頬に不器用な指先を触れさせた。
「……生きて、くれ……」
肺に残っていた最後の酸素が音声へと変換され、直後、彼の心筋の拍動が完全に停止した。
太い腕が重力に引かれ、石畳へと音を立てて滑り落ちる。
空を覆っていた分厚い雲から、氷のように冷たい雨粒が落下し始めた。
ポツリ、ポツリと石を打つ音が、次第に激しい雨音へと変わっていく。
「ジェラルト……さん」
旧礼拝堂跡の入り口付近。応援のために駆けつけたツィリルの足の動きが、完全に硬直した。
彼の背後には、メルセデス、イングリット、ヒルダ、そしてハピやモニカといった、アビスの教室周辺から急行した少女たちの姿があった。
だが、彼女たちの眼球に飛び込んできたのは、雨に打たれながら血溜まりの中で動かなくなった巨大な男の骸と、それを抱きしめて声もなく肩を震わせるベレトの姿だった。
「嘘……そんな、ジェラルトさんが……」
メルセデスの顔面から一気に血の気が引き、両手で自身の口元を強く覆う。
「……っ! このような卑劣な騙し討ち……絶対に、許されてはいけません……っ!」
イングリットが雨粒を顔に浴びながら、奥歯が軋むほど強く噛み締め、槍の柄を握る指の関節を白く変色させた。
「……嘘。あのオジサン、あんなに強かったのに。……ハピ、信じられないし……」
ハピの気怠げな瞳孔が限界まで見開かれ、呼吸のピッチが極端に浅くなる。
「……ツィリル様、あれは……っ! 私を地下に閉じ込めていた者たちと、同じ気配が……っ!」
モニカの全身の筋肉が恐怖によって痙攣し、彼女はツィリルの背中の布地を千切れるほどの力で握りしめた。
少女たちの体表温度が急激に低下し、雨音に混じって彼女たちの荒い呼吸音が響く中。
ツィリルは、ただ無言のまま、血の海に横たわるジェラルトの骸を網膜に焼き付けていた。
(ジェラルトさんが、死んだ)
パルミラの乾燥した大地で、ツィリルは数え切れないほどの死体を見てきた。
刃に貫かれ、矢に射抜かれ、人はただの肉の塊へと変わる。命が停止する現象は、彼にとって極めて日常的な、処理の容易な事実だった。
だが。
フォドラ最強の騎士と謳われ、熊のような筋肉と無数の修羅場を潜り抜けた経験を持つジェラルトでさえ、たった一度の不意打ち、たった数センチの刃の侵入によって、あっけなく生命活動を停止してしまう。
その「人体という構造の圧倒的な脆さ」が、冷たい雨水と共にツィリルの脳髄へと浸透していく。
ツィリルの視線が、ジェラルトの骸から、背後で震える少女たちへとスライドした。
(……もし、あの黒い短剣を持ったやつが、イングリットの背中を刺したら?)
(……ヒルダや、メーチェが、ああやって血を流して倒れたら?)
彼の脳内で、最悪のシミュレーションが高速で実行される。
ジェラルトの頑強な装甲と筋肉ですら防げなかった攻撃。それを、薄い外套しか着ていないイングリットや、後方支援のメルセデスたちが防げる確率は、天文学的にゼロに近い。
彼女たちは、ジェラルトよりもはるかに「簡単に死んでしまう」存在だ。
もし彼女たちが死ねば、大修道院の機能は著しく欠損する。レア様は深く嘆き悲しむだろう。
そして何より、毎日言葉を交わし、時に掃除を手伝ってくれ、お菓子を焼いてくれた彼女たちが、あんな風に冷たい肉の塊になってしまうことを、ツィリル自身の感情のコアが明確に「拒絶」していた。
ツィリルは右手を背中の矢筒へと伸ばし、流れるような動作で矢を引き抜いた。
左手の弓に弦を番え、周囲の廃墟の暗がりへと鋭い視線を巡らせる。
「……みんな、そこから動かないで」
ツィリルの声帯から出力された音声は、雨音の中でも奇妙なほどはっきりと、少女たちの鼓膜へと届いた。
彼は背後の少女たちを完全に物理的な遮蔽物の裏へと隠すように、足のスタンスを広く取り、重心を落として立ち塞がった。
「ツィ、ツィリル……?」
イングリットが、目前の少年の背中から発せられる異様な筋肉の緊張に気づき、戸惑いの呼気を漏らす。
「ジェラルトさんみたいに強い人でも、背中を刺されたら簡単に死ぬんだ。イングリットやヒルダなんて、あんな風に刺されたら絶対に助からない」
ツィリルは視線を前方から一切外すことなく、弓の張力を限界まで引き絞りながら言葉を続ける。
「怪我して血を流されたら、ボクが拭き掃除しなきゃいけなくなるし、何よりレア様がすごく悲しむ。ボクも……明日からみんなと話せなくなるのは、嫌だよ」
そこには、騎士道精神や自己犠牲といったロマンチックな概念は一切存在しない。
ただ「死なれたら困る」「悲しいから死ぬな」という、自己の実利と純粋な素朴さにのみ基づいた、極限の安全管理の要求。
「まだ敵が隠れてるかもしれない。動くものはボクが全部射抜くから、みんなは絶対にボクの背中から出ないで。勝手に死なれると、本当に困るから」
雨が容赦なく降り注ぎ、ツィリルの髪から水滴が滴り落ちる。
だが、その身も蓋もない「安全圏からの逸脱禁止命令」は、恐怖と混乱の極限状態にあった六人の少女たちの脳内で、全く異なるベクトルへの変換を引き起こしていた。
(ツィリルが……この恐ろしい死地から、私たち全員の命を背負って守り抜くと宣言している……っ!)
イングリットの脳髄に、強烈なアドレナリンが分泌される。騎士としての己の無力感と、目の前の少年の圧倒的な決意の前に、彼女の膝がわずかに屈服の角度に曲がった。
ヒルダの呼吸が荒くなり、雨の冷たさを忘れたかのように頬の温度が急上昇する。彼女の指先が、無意識のうちにツィリルの濡れた外套の布地を強く握りしめていた。
メルセデスは、癒し手としての使命すら忘れ、ただ自分を外部の恐怖から完全に隔離しようとする少年の背中を見つめ、熱を帯びた涙を瞬いた。
モニカも、ハピも、リシテアも。
彼女たちは、ツィリルの発した「掃除が大変になる」「勝手に死ぬな」という実利的な言葉の裏に、底知れない器の大きさと、命懸けの深い愛情を勝手に読み取り、完全にその庇護下へと精神を依存させていた。
雨音だけが支配する旧礼拝堂跡。
血溜まりの中で父親を抱きしめ、静かに復讐の炎を燃やし始めるベレトの慟哭。
そしてその後方で、ただ純粋に「安全」を確保しようとする無自覚な少年と、彼の背中に命と人生のすべてを預けるようにすがりつく少女たちの、狂おしくも強固な『群れ』の完成。
決して交わることのない二つの全く異なる熱量が、冷たい雨の降る廃墟の中で、ただ静かに、そして確かな質量を持って燃え上がり続けていた。