冷たい霧が大気中の水分を飽和させ、ガスパールの深い森の輪郭を白く曖昧にぼやかしていた。
かつてアッシュの養父であるロナート卿が治め、教団に対して反乱の兵を挙げた地。その鬱蒼とした針葉樹林の奥深くに西方教会の残党が潜伏し、領民への略奪行為を繰り返しているという報せを受け、セイロス騎士団の討伐隊が派遣されていた。部隊の中には、実戦経験の蓄積を命じられたアッシュと、大修道院からの増援として同行したツィリルの姿がある。
重く湿った腐葉土と泥が混ざり合う獣道を踏みしめるたび、粘着質な音が足元から響く。
アッシュの足取りは、両足に鉛の枷を括り付けられたように重かった。彼の呼吸のピッチは通常の行軍時のそれよりも明らかに速く、そして浅い。
「……ロナート様」
霧の向こうに一瞬だけ姿を現した、ガスパールの城の黒い尖塔。それを見つめたアッシュの右手が、無意識のうちに愛用の弓の木柄を強く握りしめる。過剰な筋収縮により、指の関節が白く血の気を失っていた。
「アッシュ。顔色が悪いよ。迷いがあるなら、最後尾に下がってな」
部隊の先頭を歩くカトリーヌが、振り返ることなく鋭い音声を後方へ投げた。彼女の右手は、腰に佩いた英雄の遺産『雷霆』の柄に添えられたままだ。
「相手は西方教会の残党だ。お前の養父の無念を騙り、領民から食糧や金品を奪っている連中さ。教団の剣として戦場に立つ以上、同情や感傷で太刀筋を鈍らせる真似は許さないよ」
「……わかっています、カトリーヌさん。僕は、騎士として」
アッシュの口腔から出力された音声は、微細な震えを伴っていた。無理に絞り出した言葉の末尾は、湿った霧の中へ力なく溶けていく。
右斜め後方を歩くツィリルは、そんなアッシュの様子を金色の瞳で静かに観察していた。
ツィリルには、アッシュが抱える教団への忠誠や養父への恩義といった複雑な事情はわからない。ただ、師であるシャミアから叩き込まれた『戦場での距離感』と『味方の状態把握』に従い、アッシュの動きの鈍さを危険信号として正確に捉えていた。
(アッシュの歩幅がさっきから三センチくらい短い。弓を持つ左肩に力が入って上がってるし、首の動きも固い。……あれじゃ、横から急に敵が出てきても、矢を番えるのに時間がかかる)
ツィリルは手元の手斧のグリップを握り直し、自身の歩調を無意識のうちにアッシュの死角をカバーする軌道へと微調整した。彼はただ、大修道院の食堂で共にスープを飲み、よく話しかけてくるこのお人好しな少年が、目の前で怪我をして出血することを純粋に危惧していた。
風向きが変わった。
鼻腔の粘膜が、濡れた土の匂いに混じる、錆びた鉄と油の匂いを捉える。
「……来たね。散開しろ!」
カトリーヌの号令が響くと同時、雷霆が抜刀され、刀身に青白い放電現象が走る。オゾン臭が周囲の空気に広がった。
「出たな、中央教会の狗どもが!」
「ロナート卿の気高き血と無念、我ら西方教会がここで晴らしてくれるッ!」
霧の壁を物理的に引き裂き、黒い装束を纏った十数名の集団が姿を現した。彼らの眼球は極度の興奮状態にあり、手にした粗悪な剣や斧の刃先が、狂信的な殺意を伴って討伐隊へと向けられる。
『ロナート』という音声信号が鼓膜を打った瞬間。
アッシュの全身の骨格筋が、呪縛に掛けられたように完全に硬直した。
彼の脳内で、過去の視覚情報がフラッシュバックを起こす。養父の温かな手の感触。マグドレドの野で倒れていた、血に染まった骸。
矢筒から矢を引き抜こうとしたアッシュの右手が空を切り、弓弦に矢筈を番える動作が決定的に遅延した。
「死ねッ! 裏切り者め!」
アッシュの動作不良を見逃さず、濃霧の右側面から迂回していた敵の剣士が、獣のような跳躍で距離を詰めた。
刃こぼれした鉄の剣が上段に構えられ、アッシュの無防備な頸動脈めがけて一気に振り下ろされる。
アッシュの瞳孔が刃の軌道を捉える。回避行動への移行はすでに物理的に不可能だった。
ガァァンッ!!
金属同士が激突する硬質な破砕音が、周囲の木々の幹を激しく揺らした。
アッシュの首を分断するはずだった剣の軌道上に、下からすくい上げるように強烈なカチ上げの打撃が叩き込まれていた。
ツィリルの放った手斧の分厚い刃が、敵の剣の腹を正確に捉え、その衝撃で剣士の体勢が完全に上へと弾き上げられる。
「なっ……!」
重心が浮き上がった敵の腹部へ、ツィリルの革ブーツが音を立ててめり込んだ。
肺から酸素を強制排出された剣士が泥の中へと背中から墜落し、ツィリルはその喉元に手斧の峰を正確に振り下ろして意識を完全に刈り取った。
「……アッシュ。隙だらけだよ」
ツィリルは倒れた敵から即座に視線を切り離し、アッシュの背中に自らの背を預ける位置取りへと移動した。前後左右への警戒を怠らず、視線を霧の奥へと巡らせる。
「ツ、ツィリル……ごめん、僕は……ロナート様のことを考えると、どうしても指が動かなくて……」
アッシュの顔面は蒼白に染まり、膝が微かに震えていた。自己の失態と過去の記憶の混線が、彼の言語中枢に弁解の言葉を羅列させる。
ツィリルの声は、冷たい霧の森の中でひどく淡々としていた。
そこにアッシュの感傷に寄り添うような同情はない。ツィリルはただ、戦場で生き残るための明白な事実を突きつけた。
「アッシュがここで死んだら、ベルナデッタやハピが悲しむ。メーチェも、エミール先生も、ボクも、ユーリスやバルタザールも……アッシュがいなくなったら、みんな困るし、すごく嫌だ」
「ツィリル……」
「……今、アッシュが守りたいものは何?」
過酷なパルミラの地を生き抜き、大修道院での生活を手に入れたツィリルにとって、「怪我をすれば痛い」「死んだら周りが悲しむ」というのは覆しようのない事実だ。
その身も蓋もないほどに真っ直ぐな言葉が、アッシュの脳内を埋め尽くしていた過去の幻影を吹き飛ばした。
(……そうだ)
アッシュの右手が矢筒から滑らかに一本の矢を引き抜く。
頭頂部から足先までの筋肉の緊張が解け、最適な射撃姿勢へと骨格が再配置される。
彼が弓を持つ理由は明確だった。
引きこもりの少女を部屋から連れ出す約束。気怠げな少女と共に過ごす、お茶の時間。そして、不器用ながらに自分の背中を守ってくれる、この年下の少年の命。
目の前の泥臭い現実を、確実に守り抜くこと。それこそが、彼にとっての本当の騎士道だ。
「…………ふぅ」
アッシュの肺から、震えのない、長く静かな呼気が白く吐き出された。
弓を持つ左腕が岩のように固定され、右手の指先が弓弦を限界まで引き絞る。
「……ありがとう、ツィリル。君の言う通りだ。僕には、今どうしても守らなきゃいけない人たちがいる」
ギリッ、と弓幹が軋み、空気が極限まで圧縮される。
「カトリーヌさん! 右翼の敵は僕が抑えます! 行きましょう!」
放たれた矢が、大気を切り裂いて一直線に飛翔する。
三十メートル先の霧の奥で詠唱を始めていた敵魔道士の喉元に、矢尻が正確に突き刺さった。魔道士が悲鳴を上げる間もなく昏倒し、攻撃魔法の起動が完全に阻止される。
「……ふん。ようやく目が覚めたようだね、アッシュ」
最前線で雷霆を振るい、三人の敵を瞬時に黒焦げの肉塊へと変えたカトリーヌが、口角を獰猛に引き上げた。
彼女の動体視力は、アッシュの死角を完璧にカバーして動くツィリルのステップをも正確に捉えていた。
(……良い連携だ。シャミアの奴、とんでもない遊撃手を育てやがった)
カトリーヌの背筋に、微かな戦慄が走る。
ツィリルの動きには、感情によるブレがない。彼はアッシュの死角を補いながら、戦況に合わせて無駄なく武器を振るっている。大義や怒りによって我を忘れるような隙は一切なく、ただ「生存」と「味方の防衛」という目的を達成するためだけに、最短距離で動いていた。
「ツィリル! 左から三人、来るよ!」
「わかってる。アッシュはそのまま、前だけ狙って」
アッシュの放つ矢の雨が、濃霧の中に展開する敵の前衛を次々と貫き、戦線を後退させていく。
その背中にピタリと張り付いたツィリルが、茂みから飛び出してきた敵の足首に手斧を投げつけ、機動力を奪った隙にアッシュが即座に追撃の矢を急所に叩き込む。
二人の少年の精密な射撃と遊撃のサイクルが、ロナートの正義を騙る残党たちの戦力を確実に削り取っていった。
***
冷たい霧が徐々に風に流され、ガスパールの森に薄明かりが差し込み始めた。
「ぐはぁっ……! なぜだ、アッシュ! ロナート卿の恩義を忘れたか、この教団の狗め……ッ!」
右膝を泥に突き、口の端から血の泡を吐き出しながら、西方教会の司教が呪詛の音声を絞り出す。
周囲の土壌はすでに彼に従っていた残党たちの流した血によって赤黒く染まり、カトリーヌの雷霆によって炭化した樹木から白い煙が上がっていた。
アッシュの脚力はしっかりと地面を踏み締められ、弓を構える姿勢には一ミリのブレも生じていない。
彼の背後には、飛んできた返り血を無造作に袖で拭うツィリルが、手斧を構えたまま静かに周囲の残敵警戒を継続している。
アッシュの青い瞳孔が、司教の顔面を真っ直ぐに見下ろした。
「……ロナート様の恩義は、忘れてなんかいません。あの優しい日々は、僕の宝物です」
アッシュの声帯から発せられる音声は、どこまでも澄み切っていた。
「でも! あなたたちがロナート様の名前を使って、今を生きる人たちから日常を奪おうとするなら……僕は、今の僕の大切な人たちを守るために、あなたを射抜く!」
ヒュンッ、と。
一切の躊躇なく解放された弦が、空気を鋭く弾く音を立てた。
放たれた矢は司教の胸部中央、心臓を正確に貫通し、西方教会の残党による暴動に完全な終止符を打った。
司教の身体が崩れ落ち、完全な静寂が森を包み込む。
アッシュはゆっくりと弓を下ろし、深く息を吐き出した。
「……迷いは捨てたみたいだね、アッシュ」
カトリーヌが雷霆を鞘に収め、革ブーツで泥を跳ね飛ばしながら歩み寄ってくる。
「カトリーヌさん……。いいえ、僕一人の力じゃありません。彼が……背中を支えてくれなければ、僕は過去に囚われたまま、ここで死んでいましたから」
アッシュが振り返った先。
そこでは、ツィリルがすでに戦闘態勢を完全に解除し、倒れた敵の服で手斧の血振るいを行っていた。
「ツィリル」
アッシュが泥だらけのツィリルに歩み寄り、自身の外套の乾いた部分で、彼の頬に飛んだ血の跡を優しく拭い取った。
「本当にありがとう。君が真っ直ぐな言葉をくれたおかげで、僕は前を向くことができたよ」
「別に。ボクは思ったことを言っただけだよ」
ツィリルは感謝の言葉に小首をかしげながら答えた。
「アッシュが怪我したら帰るのが遅くなるし、死んだらみんなが悲しむ。ボクはそれが嫌だっただけ。……アッシュ、もう大丈夫なの?」
「うん。もう迷わない」
アッシュは柔らかく、しかし確かな芯のある笑顔を見せた。
「大切な人たちの『今』を、確実に守り抜く。それが、僕の信じる新しい騎士の道だから」
「ふーん。騎士とか、よくわかんないけど」
ツィリルは斧を腰のホルダーに提げ直し、呆気なく背を向けた。
「アッシュが前を見て闘ってくれるなら、ボクは背中の心配をしなくて済むから、その方がいいや。……ほら、早く帰ろうよ。遅くなったら、メーチェのお菓子が食べられなくなっちゃう」
そう言って泥の道を歩き出す小柄な背中を、アッシュは微笑みながら見つめ、確かな足取りでその後に続いた。