擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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プロローグ⑤

帝国暦1178年。

重厚な鉄の扉が、耳障りな音を立てて閉ざされた。

 

「……っ」

 

冷たく磨き上げられた大理石の床に投げ出された小さな身体が、痛みに微かに身をよじる。

豪奢な装飾が施された、ガルグ=マク大修道院の謁見の間。しかし、毛布に包まるように床へ転がされた少年——ツィリルにとって、そんな荘厳さは何の慰めにもならなかった。

 

パルミラの戦災孤児としてゴネリル家に拾われ、下働きとして使役されていた日々。

昨日、彼はゴネリル家の馬車に乗せられ、厄介払いのようにこの見知らぬ修道院へと引き渡された。「教団への寄付のオマケだ」と吐き捨てるように言った兵士の声を、ツィリルは覚えている。

 

(また、捨てられた。……ちがう、押し付けられただけだ)

 

どうせここでも、家畜のようにこき使われるか、でなければ冷たい土の中で朽ちるだけ。

ツィリルは泥だらけの膝を抱え、警戒心に満ちた獣のような双眸で、自分を見下ろす緑髪の男——セテスを睨みつけた。

 

「ゴネリル公も勝手なことを……。このような幼子を一人、大修道院へ送りつけてくるとは」

 

セテスが額を押さえ、低くため息をつく。

 

その些細な手の動きに、ツィリルの肩がビクッと強張った。

 

(……殴られる)

 

パルミラ人である自分に向かって大人が手を上げる時、それは必ず暴力の合図だった。ツィリルは石床に額を擦り付けるように身を縮め、きつく目を閉じる。

 

しかし、痛みは降ってこなかった。

 

代わりに、ツィリルの鼻腔をふわりと撫でたのは、血と汗の悪臭を完全に塗り潰す、むせ返るような白檀と百合の甘い香りだった。

 

「……セテス。その子をひどく怯えさせてしまっていますよ」

 

絹を撫でるような、しかし空間のすべての空気を支配する絶対的な響き。

ツィリルが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。

 

セイロス教団の最高権力者である大司教レアが、自身の純白の衣が汚れることも厭わず、汚物にまみれたツィリルの目の前で、静かに膝をついていたのだ。

 

「あっ……」

 

ツィリルの喉から、掠れた音が漏れる。

レアの白く滑らかな手が伸び、ツィリルの泥と傷に塗れた頬を、そっと包み込んだ。

 

「……ッ!? さわ、んないで……っ!」

 

ツィリルは反射的に身を引こうとしたが、その手から伝わる信じられないほどの『熱』に、全身の筋肉が痺れたように動けなくなってしまった。

ただの温かさではない。凍りついていた細胞の芯まで強引に溶かしてしまうような、濃密で、逃げ場のない体温。

 

「可哀想に。ひどく傷つき、凍えているのですね」

 

レアの熱い吐息が、ツィリルの前髪を揺らす。至近距離で見つめ合う彼女の薄緑色の瞳には、パルミラ人への蔑視も、見下すような哀れみすらもなく、ただ底なしの慈愛だけが揺蕩っていた。

 

彼女の柔らかな親指が、ツィリルの目元の泥をゆっくりと拭う。肌と肌が密着する、その圧倒的な生の感触。

 

「あなたの名前を、教えてください」

「……ツィ、リル」

「ツィリル。今日からここは、あなたの家です。もう、何に怯える必要もありませんよ」

 

レアが身を乗り出し、ツィリルの小さな身体を、その豊かな胸元へと深く抱き寄せた。

ツィリルの顔が、彼女の柔らかな衣服の奥へと完全に埋もれる。息が詰まるほどの白檀の香りと、規則正しく脈打つ温かい心音が、ツィリルの張り詰めていた理性を、内側から暴力的に破壊していく。

 

(……あ、あぁ……)

 

生まれて初めて知る、無条件の庇護。

ツィリルの瞳から、彼自身も制御できない大粒の涙が溢れ出し、レアの純白の衣に黒い泥と混ざった染みを作っていく。

 

「ボク……ボクは、パルミラから来た、ただの……ッ」

「ええ。あなたはツィリル。そして、今日からはここがあなたの家です」

 

レアの腕の中で、ツィリルは喉が裂けるほどの声を上げて泣いた。

この瞬間、ツィリルの魂に「レア様第一」という、いかなる神の教えよりも強固で、絶対的な忠誠の楔が打ち込まれたのだった。

 

***

 

――そして、翌朝の夜明け前。

修道院の空がまだ薄暗い群青色に染まる頃。

 

ツィリルは、与えられたふかふかのベッドを抜け出し、自分より大きな竹箒を両手で強く握りしめ、修練場の隅で黙々と落ち葉を掃いていた。

柔らかい寝床など、どうしていいか分からなかった。何より、自分を拾ってくれたあの温かい人の役に立たなければ、すぐにまた捨てられるという強迫観念が、彼の身体を突き動かしていた。

 

「……ふぅ。ここを片付けたら、次は厩舎の掃除をして……」

「おい」

 

ふと、背後から影が落ちた。

振り返ると、長身の騎士が立っていた。青白いほど整った顔立ち。だが、その金色の瞳の奥には、首筋に冷たい刃を突きつけられたかのような、危うい静けさが潜んでいる。

エミールだった。

 

早朝の過酷な鍛錬の直後なのだろう。エミールから発せられる熱気と、鉄、そして微かな『血』の匂いが、ツィリルの鼻腔を突いた。

 

「なんですか。ボクは今、掃除で忙しいんですけど」

 

ツィリルは箒を盾にするように構え直し、鋭く睨み返す。騎士という存在は、ゴネリル家で散々彼を痛めつけてきた連中と同じだからだ。

 

しかし、エミールは怒るでもなく、ただ薄暗い瞳でツィリルを見下ろした。

 

「……獣の、目だな」

「は?」

「底辺を這いずり……血と泥を啜って生き延びた匂いがする。……俺と、同じだ」

 

エミールの低くかすれた声が、ツィリルの鼓膜を妙な温度で震わせる。

その言葉に嘘や嘲笑の色はない。エミールは、この幼い異民族の少年の内側に隠された「生き汚いほどの生存本能」を、一瞬で見抜いていたのだ。

 

エミールが一歩踏み出し、ツィリルとの距離を詰める。

高身長の騎士の影に覆われ、ツィリルは思わず後ずさりそうになったが、意地でその石畳を踏みしめた。

 

「ボクは……アンタと同類なんかじゃない。ボクは、レア様のために生きるって決めたんです。そのためなら、どんなことだってやります」

 

強がって見上げるツィリルの細い肩に、エミールの大きく無骨な手が、無造作に置かれた。

 

「っ……」

 

レアの柔らかい手とは全く違う。分厚い剣ダコに覆われた、無骨で硬い手。

しかし、そこから伝わってくるのは、ひどく不器用で、確かな『生』の熱だった。

 

「……なら、牙を研げ。その箒の振り方では、いざという時、大事なものは守れない」

 

エミールはツィリルの肩を一度だけ強く掴むと、それ以上何も言わず、静かに踵を返して朝霧の中へと消えていった。

 

その場に立ち尽くすツィリルは、自身の肩に残るジンジンとした熱感と、エミールの背中をじっと見つめていた。

 

「……守る」

 

ツィリルは自分の細く傷だらけの両手を見下ろす。

レア様を守る。そのためには、ただ掃除をしているだけでは足りない。

 

(剣……いや、ボクに合うのは、弓か……斧か……?)

 

この時、彼の中で初めて、誰かを守るために「戦う力」を欲する明確な意志が芽生えた。

孤児から、教団の牙へ。

ツィリルという少年の本当の人生が、ガルグ=マクの凍てつく朝霧の中で、静かに幕を開けた瞬間であった。

 

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