帝国暦1178年。
重厚な鉄の扉が、耳障りな音を立てて閉ざされた。
「……っ」
冷たく磨き上げられた大理石の床に投げ出された小さな身体が、痛みに微かに身をよじる。
豪奢な装飾が施された、ガルグ=マク大修道院の謁見の間。しかし、毛布に包まるように床へ転がされた少年——ツィリルにとって、そんな荘厳さは何の慰めにもならなかった。
パルミラの戦災孤児としてゴネリル家に拾われ、下働きとして使役されていた日々。
昨日、彼はゴネリル家の馬車に乗せられ、厄介払いのようにこの見知らぬ修道院へと引き渡された。「教団への寄付のオマケだ」と吐き捨てるように言った兵士の声を、ツィリルは覚えている。
(また、捨てられた。……ちがう、押し付けられただけだ)
どうせここでも、家畜のようにこき使われるか、でなければ冷たい土の中で朽ちるだけ。
ツィリルは泥だらけの膝を抱え、警戒心に満ちた獣のような双眸で、自分を見下ろす緑髪の男——セテスを睨みつけた。
「ゴネリル公も勝手なことを……。このような幼子を一人、大修道院へ送りつけてくるとは」
セテスが額を押さえ、低くため息をつく。
その些細な手の動きに、ツィリルの肩がビクッと強張った。
(……殴られる)
パルミラ人である自分に向かって大人が手を上げる時、それは必ず暴力の合図だった。ツィリルは石床に額を擦り付けるように身を縮め、きつく目を閉じる。
しかし、痛みは降ってこなかった。
代わりに、ツィリルの鼻腔をふわりと撫でたのは、血と汗の悪臭を完全に塗り潰す、むせ返るような白檀と百合の甘い香りだった。
「……セテス。その子をひどく怯えさせてしまっていますよ」
絹を撫でるような、しかし空間のすべての空気を支配する絶対的な響き。
ツィリルが恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景があった。
セイロス教団の最高権力者である大司教レアが、自身の純白の衣が汚れることも厭わず、汚物にまみれたツィリルの目の前で、静かに膝をついていたのだ。
「あっ……」
ツィリルの喉から、掠れた音が漏れる。
レアの白く滑らかな手が伸び、ツィリルの泥と傷に塗れた頬を、そっと包み込んだ。
「……ッ!? さわ、んないで……っ!」
ツィリルは反射的に身を引こうとしたが、その手から伝わる信じられないほどの『熱』に、全身の筋肉が痺れたように動けなくなってしまった。
ただの温かさではない。凍りついていた細胞の芯まで強引に溶かしてしまうような、濃密で、逃げ場のない体温。
「可哀想に。ひどく傷つき、凍えているのですね」
レアの熱い吐息が、ツィリルの前髪を揺らす。至近距離で見つめ合う彼女の薄緑色の瞳には、パルミラ人への蔑視も、見下すような哀れみすらもなく、ただ底なしの慈愛だけが揺蕩っていた。
彼女の柔らかな親指が、ツィリルの目元の泥をゆっくりと拭う。肌と肌が密着する、その圧倒的な生の感触。
「あなたの名前を、教えてください」
「……ツィ、リル」
「ツィリル。今日からここは、あなたの家です。もう、何に怯える必要もありませんよ」
レアが身を乗り出し、ツィリルの小さな身体を、その豊かな胸元へと深く抱き寄せた。
ツィリルの顔が、彼女の柔らかな衣服の奥へと完全に埋もれる。息が詰まるほどの白檀の香りと、規則正しく脈打つ温かい心音が、ツィリルの張り詰めていた理性を、内側から暴力的に破壊していく。
(……あ、あぁ……)
生まれて初めて知る、無条件の庇護。
ツィリルの瞳から、彼自身も制御できない大粒の涙が溢れ出し、レアの純白の衣に黒い泥と混ざった染みを作っていく。
「ボク……ボクは、パルミラから来た、ただの……ッ」
「ええ。あなたはツィリル。そして、今日からはここがあなたの家です」
レアの腕の中で、ツィリルは喉が裂けるほどの声を上げて泣いた。
この瞬間、ツィリルの魂に「レア様第一」という、いかなる神の教えよりも強固で、絶対的な忠誠の楔が打ち込まれたのだった。
***
――そして、翌朝の夜明け前。
修道院の空がまだ薄暗い群青色に染まる頃。
ツィリルは、与えられたふかふかのベッドを抜け出し、自分より大きな竹箒を両手で強く握りしめ、修練場の隅で黙々と落ち葉を掃いていた。
柔らかい寝床など、どうしていいか分からなかった。何より、自分を拾ってくれたあの温かい人の役に立たなければ、すぐにまた捨てられるという強迫観念が、彼の身体を突き動かしていた。
「……ふぅ。ここを片付けたら、次は厩舎の掃除をして……」
「おい」
ふと、背後から影が落ちた。
振り返ると、長身の騎士が立っていた。青白いほど整った顔立ち。だが、その金色の瞳の奥には、首筋に冷たい刃を突きつけられたかのような、危うい静けさが潜んでいる。
エミールだった。
早朝の過酷な鍛錬の直後なのだろう。エミールから発せられる熱気と、鉄、そして微かな『血』の匂いが、ツィリルの鼻腔を突いた。
「なんですか。ボクは今、掃除で忙しいんですけど」
ツィリルは箒を盾にするように構え直し、鋭く睨み返す。騎士という存在は、ゴネリル家で散々彼を痛めつけてきた連中と同じだからだ。
しかし、エミールは怒るでもなく、ただ薄暗い瞳でツィリルを見下ろした。
「……獣の、目だな」
「は?」
「底辺を這いずり……血と泥を啜って生き延びた匂いがする。……俺と、同じだ」
エミールの低くかすれた声が、ツィリルの鼓膜を妙な温度で震わせる。
その言葉に嘘や嘲笑の色はない。エミールは、この幼い異民族の少年の内側に隠された「生き汚いほどの生存本能」を、一瞬で見抜いていたのだ。
エミールが一歩踏み出し、ツィリルとの距離を詰める。
高身長の騎士の影に覆われ、ツィリルは思わず後ずさりそうになったが、意地でその石畳を踏みしめた。
「ボクは……アンタと同類なんかじゃない。ボクは、レア様のために生きるって決めたんです。そのためなら、どんなことだってやります」
強がって見上げるツィリルの細い肩に、エミールの大きく無骨な手が、無造作に置かれた。
「っ……」
レアの柔らかい手とは全く違う。分厚い剣ダコに覆われた、無骨で硬い手。
しかし、そこから伝わってくるのは、ひどく不器用で、確かな『生』の熱だった。
「……なら、牙を研げ。その箒の振り方では、いざという時、大事なものは守れない」
エミールはツィリルの肩を一度だけ強く掴むと、それ以上何も言わず、静かに踵を返して朝霧の中へと消えていった。
その場に立ち尽くすツィリルは、自身の肩に残るジンジンとした熱感と、エミールの背中をじっと見つめていた。
「……守る」
ツィリルは自分の細く傷だらけの両手を見下ろす。
レア様を守る。そのためには、ただ掃除をしているだけでは足りない。
(剣……いや、ボクに合うのは、弓か……斧か……?)
この時、彼の中で初めて、誰かを守るために「戦う力」を欲する明確な意志が芽生えた。
孤児から、教団の牙へ。
ツィリルという少年の本当の人生が、ガルグ=マクの凍てつく朝霧の中で、静かに幕を開けた瞬間であった。