塩の結晶を含んだ重い潮風が、ロディ海岸の断崖を吹き抜けていく。
崖の先端に静かに佇む古き石碑『聖キッホルの記念碑』。白波が岩肌を打つ単調な自然音は、現在、数十名の人間の足音と、金属が激突する破砕音、そして鼓膜を裂くような怒号によって完全に上書きされていた。
「我らの神を冒涜する異端者どもめ! この聖なる海岸は我ら西方教会のものだ!」
「異端は貴方達の方だ! 神聖なる碑の前に踏み入るな!」
巨大な長槍を振るい、三人の剣士を同時に弾き飛ばしたセテスの声帯から、地響きのような怒声が放たれる。
彼の背後、石碑に背を向けるようにして立つフレンの両手は、治癒の力を帯びた杖の柄を白くなるほど固く握りしめられていた。
彼女の網膜に映るこの場所の記憶。母が静かに眠る冷たい土。かつて家族三人で並んで座り、釣り糸を垂らした波打ち際。
ここは彼女の精神の核を成す領域であり、狂信者たちの泥に塗れた足で踏みにじられることなど、物理的にも感情的にも断じて許容できるものではなかった。
「セテスさん! 右の林から来る集団はボクが抑えます。そっちの正面をお願いします!」
右翼の茂みから躍り出たツィリルが、一切の躊躇なく弓弦を引き絞りながら音声を投げた。
放たれた矢が風を切り、先頭を走っていた西方教会の重装兵の眼球を正確に射抜く。ツィリルはその射撃の余韻すら見ず、即座に手斧へ持ち替え、後続の敵兵の膝関節を粉砕するための最短距離のステップを踏み込んだ。
「小賢しいガキどもめ! ええい、まずはあの緑髪の小娘から血祭りにあげろ!」
後方で指示を出していた西方教会の司祭が、杖の先を無防備なフレンの姿へと向けた。
その音声信号をトリガーとして、崖の死角となる岩陰に潜伏していた三人の暗殺者が、音もなく岩を蹴り上げた。
「フレンッ! 私の後ろへ……!」
セテスの眼球が上空の脅威を捉える。彼は即座に長槍の軌道を反転させようとしたが、正面から突き出された二本の槍を捌ききった直後の体勢では、迎撃のモーションへの移行がコンマ数秒遅延する。
三人の暗殺者は空中で姿勢を丸め、落下エネルギーをすべて黒塗りの短剣の切っ先へと乗せていた。目標はフレンの細い頸動脈。
フレンの視界が、迫り来る三つの殺意によって黒く塗り潰される。
回避行動への移行は不可能。彼女は反射的に杖を抱き込み、強く両目を瞑った。
「……身の程を弁えろ、下郎」
地の底から泥を吐き出すような、低く、鼓膜を重く圧迫する音声。
フレンの頭上を覆い隠すように、漆黒の外套が巨大な鳥の翼のように翻った。
ズバァァァンッ!!
空気を物理的に圧縮し、破裂させたような轟音が海岸を震わせた。
エミールの両腕から振るわれた巨大な大鎌が、暗殺者たちの軌道を真横から完全に薙ぎ払った。分厚い鉄の刃が、三人の肉体と、彼らが構えていた鋼の短剣を、空中で一切の抵抗を許さずに真二つに両断する。
「ぎゃあああっ!?」
「な、何だこいつ……ッ!?」
切断された動脈から、致死量の血液が雨のように降り注ぐ。
だが、その赤い飛沫の一滴たりとも、フレンの衣服を汚すことはなかった。エミールがその長身と分厚い外套を壁のように展開し、落下してくる血液と臓物を自らの背中で完璧に遮断していたからだ。
「エ、エミール先生……っ」
フレンが目を開け、息を呑む。
彼女を見下ろすように立つその巨大な背中は、先程までの温厚な教師のそれではない。エミールの周囲の空気が、急激な温度低下を起こしたように冷たく歪んでいた。
エミールの金色の瞳孔が、極限まで収縮している。
鼻腔から肺へと流れ込む、新鮮な血液の匂い。両腕の筋肉に残る、肉と骨を断ち切った確かな摩擦の感触。
彼の脳髄の奥底に封じ込められていた『死神』としての戦闘本能が、劇的なアドレナリンの分泌と共に目覚め、全身の神経細胞を歓喜に震わせていた。
(……殺す。切り刻む。逃げる背中を追い、肉を削ぎ、骨を断ち、臓腑を海岸に撒き散らして……)
エミールの下半身の筋肉が、目の前で恐怖にすくみ上がる敵陣の中心へと跳躍するための予備動作に入る。彼の本能は、視界に入るすべての動くものを血の海に変えろと強烈な電気信号を発していた。
だが。
エミールの右腕が、自らの意志をねじ伏せるように、大鎌の石突きを岩盤へと深々と突き立てた。
ゴツン、と硬質な音が響く。
(……駄目だ)
エミールの奥歯が軋む。彼がここで本能のままに一歩でも前へ踏み出せば、その瞬間にフレンの正面空間は完全に無防備となる。殺戮の快楽を優先すれば、後ろにいるこの小さな存在は、容易く敵の刃の餌食となる。
「……俺の背から、一歩も離れるな」
エミールは振り返ることなく、喉の奥から絞り出すように低く告げた。
彼は狂喜の形に歪もうとする顔面筋を強引に引き結び、両足のスタンスを広く取り、大鎌を横に構えた。一切の追撃行動を放棄し、フレンを守るための『物理的な壁』として自らの肉体を岩盤に固定したのだ。
「ひぃっ……! だ、だが、ただの的だ! 魔法で焼き尽くせ!」
側面から回り込んだ二人の魔道士が、詠唱を完了させる。
高熱の火球が空気を焼き焦がし、エミールの巨体とその背後のフレンを一直線に狙って飛来した。
エミールの動体視力は、火球の軌道を正確に捉えていた。一歩横へスライドすれば、容易く回避できる速度と角度。だが、彼が回避を選択すれば、後方のフレンに直撃する。
エミールは足の裏を地面からミリ単位たりとも動かさず、自身の左腕を火球の軌道上へと突き出した。
ボオォォッ!
爆発的な熱量がエミールの外套を燃やし、左腕の装甲と皮膚を同時に焼き焦がす。肉が焼ける嫌な臭いが周囲に漂った。
エミールはその激痛に対して眉一つ動かさず、火球を受け止めた直後のモーションから、右腕一本の力で大鎌の柄を槍のように投擲した。
鋭く飛翔した鎌の刃が、魔法を放った魔道士の胸部装甲を紙のように貫通し、絶命させる。
「バ、バカな……なぜあいつは一歩も動かない!? あれだけの力がありながら……!」
残存する西方教会の兵士たちの顔に、明確な恐怖が浮かぶ。
眼前の男は、圧倒的な膂力と反射速度を持ちながら、自らその機動力を完全に殺している。どれほど魔法や矢を浴びようと、どれほど手傷を負おうと、彼はフレンを中心とした半径二メートルの絶対防衛圏から、ただの一歩も足を踏み出そうとしないのだ。
その異様な防衛の形を、最前線の制圧を完了させたセテスが、驚愕の目で見つめていた。
(……あの男、エミールと言ったか。常に得体の知れない血の匂いを纏い、いつフレンに害をなすか分からんと警戒していたが)
セテスの視界に映るエミールは、自らの肩を焼かれ、左脚に浅い矢傷を受けながらも、ただただフレンへの攻撃軌道を己の肉体で遮断し続けていた。
(自らの内に抱える狂気的な殺戮本能をすべて力でねじ伏せ、その圧倒的な暴力を、ただフレンを護るための盾としてのみ機能させているのか)
セテスの心拍数が早くなる。
戦場において、自らの機動力を捨てて固定の的となることは、死に直結する極めて非合理な選択だ。だが、エミールはそれを理解した上で、フレンの命を自らの痛みよりも上位の絶対的優先事項として設定している。あれほどの狂気を孕んだ男が、そのすべてを懸けてフレンを護ろうとしている。
セテスの網膜に映るその背中は、フォドラのいかなる要塞よりも分厚く、そして頼もしかった。
「……エミール先生! 右の弓兵、狙ってるよ!」
その固定された防衛陣形に、右翼から躍り出たツィリルの声が鋭く割り込んだ。
ツィリルの金色の瞳孔は、戦場全体の力学のバランスを瞬時に計算し終えていた。
エミールがフレンを護るために移動を放棄している事実。それはすなわち、彼が遠距離攻撃に対する脆弱な的になっていることを意味する。
「先生がそこを動かないで前だけ塞ぐなら、横と後ろから来るやつは全部ボクが殺す。そのまま壁になってて!」
ツィリルは一切の感情を交えず、ただ純粋な戦術的合理性のみに基づいた提案を投げた。
「……小僧。指図するな」
エミールは短く吐き捨てながらも、その言葉通りに前方から迫る重装兵の接近のみに意識を集中させた。
エミールの死角となる右斜め後方から、矢を放とうとした敵弓兵の眉間を、ツィリルの放った矢が正確に射抜く。ツィリルは決してエミールとフレンの射線を遮らない位置をキープし、遊撃のステップを踏みながら、エミールへ向けられる遠距離攻撃の起点を次々と潰していく。
狂気を抑え込み、固定の壁となった死神。
その死角を、一切のノイズを持たない冷徹な合理性でカバーし続ける猟兵の少年。
二つの全く異なる極端な戦術が奇跡的に噛み合い、フレンを守るための絶対的な防衛空間がロディ海岸に構築されていた。
***
戦場に立ち込めていた熱が、徐々に潮風によって冷却されていく。
聖キッホルの記念碑周辺を埋め尽くしていた西方教会の残党たちは、セテスの苛烈な掃討と、エミール・ツィリルによる鉄壁の防衛網の前に、完全にその戦力を喪失していた。
「もはやこれまで……! 逃げろ、逃げ延びて教団の蛮行を世に……!」
前線で指揮を執っていた最後の司祭が、恐怖に顔筋を引きつらせて背を向けた。
「……逃がさん。神聖なる碑を汚したその罪、ここで断ち切る!」
セテスの上腕二頭筋が膨張し、長槍が空気を切り裂いて一直線に飛翔する。
投擲された刃が逃走する司祭の背中を正確に貫き、重い地響きと共にその身体を砂浜へと縫い付けた。
「……終わったか。逃げた少数は、後で騎士団に追わせよう」
セテスは泥と血に汚れた槍を引き抜き、肺の奥から深く息を吐き出した。
彼はゆっくりと振り返り、記念碑の前に立つ者たちへと視線を向ける。
戦闘の完全な終了を視覚と聴覚で確認したエミールは、持っていた大鎌を砂地にドスリと突き立てた。全身の筋肉の緊張を解き、そのまま崩れ落ちるようにして、地面へどっかりと座り込む。
「……エミールさんっ!」
フレンが杖を放り出し、慌てて彼の横へとしゃがみ込んだ。
彼女の両手から白魔法の温かな光が放たれ、エミールの焦げ付いた左腕と、矢の掠った脚の傷へと注がれる。
「あの炎の魔法、あなたほどの動きなら容易に避けられたはずですのに……! なぜ、あんな無茶を……っ」
フレンのグリーンの瞳から、限界まで堪えていた大粒の液体が溢れ出し、彼女の膝を濡らす。
「……避ければ、後ろのお前に当たっていた」
エミールの呼吸は荒く、声帯からは低く掠れた音声が出力される。
「俺が一歩でも動けば、俺は……目の前の敵をすべて殺し尽くすまで、止まらなくなる。……お前は、そこにいろ。俺の背中にいれば、誰もお前には触れさせない」
それは、己の内に巣食う制御不能な狂気を繋ぎ止めるための、彼なりのギリギリの生存戦略の吐露だった。
「そんなの……わたくしが怪我を避けるために、あなたが傷つく必要なんてありませんわ……っ」
「俺がそうしたいから、そうしたまでだ。……それに」
エミールは、治療の光を放ちながら震えるフレンの小さな手に、自身の血に塗れていない方の右手をそっと重ねた。
「……お前が死ねば、俺の茶に合う菓子を焼く奴が、一人減る。それは困る」
エミールの口角が微かに上がり、不器用極まりない、彼なりの執着の形が言葉となって示された。
「……っ。もう……ばか」
フレンは涙を拭うのも忘れ、彼のごつごつとした手を両手でギュッと握りしめながら、安堵と呆れが混じったような声で小さく笑い出した。
「ちょっと、エミール先生。勝手に怪我して満足しないでよ」
その二人の空間に、背中の弓を下ろしたツィリルが、手斧についた血を雑草で拭いながら歩み寄ってきた。
「先生があんな風に血だらけになると、帰ってからボクがその服を洗わなきゃいけなくなるし、修道院の床に血が落ちたら拭き掃除がすごく大変になるんですからね」
ツィリルは一切の遠慮を持たず、極めて物理的で実利的な不満を口にする。
「それに、もし先生が本当に死んじゃったりしたらどうするの。これからはあんな無茶なことしないでください」
エミールはツィリルの呆れた顔を見上げ、微かに目を細めた。
「……小僧。次に俺の服を洗う時は、血のシミが落ちやすいように湯を使え」
「だから、最初から血をつけないでって言ってるのに」
ツィリルが深々とため息をつく。フレンがそのやり取りを見て、さらにクスクスと声を立てて笑った。
その光景を、セテスは少し離れた場所から無言で見つめていた。
フレンの小さな手にエミールが自身の手を重ねた瞬間、セテスは反射的に手元の槍を握り直し、二人の間へと一歩を踏み出そうとした。
だが、その右足は空中で停止し、静かに元の位置へと戻された。
エミールの巨体とツィリルの遊撃によって構成された、死角のない防衛陣形。そしてその中心で、血に塗れた男の手を握りしめ、楽しげに笑い声を上げるフレンの姿。
彼らが構築した空間の堅牢さの前に、セテスは小さく、自嘲するような呼気を漏らした。
「……セテスさん。こっちの片付け終わったけど、そっちの死体もボクが運んだ方がいい?」
「……いや、ツィリル。君は少し休んでいなさい。残りの片付けは私がやろう」
セテスはツィリルの実務的な提案に穏やかに返し、再びフレンたちの方へと向き直った。
「……フレン。怪我はないようだな」
「はい、お兄様。……エミールさんが、わたくしを一歩も動かさずに護ってくださいましたから」
フレンが立ち上がり、エミールの横で誇らしげに微笑む。
セテスは、座り込んだまま自分を見上げるエミールの金色の瞳を、真っ直ぐに見返した。
「……エミール。貴公の働き、見事であった。フレンを……私の大切な妹を命懸けで護ってくれたこと、心から礼を言う」
「……俺は、俺の意志で動いただけだ。礼など要らん」
エミールがフッと顔を背けるのを見て、セテスは微かに口角を上げた。
「さて、フレン。……戦闘は終わった。石碑に花冠を供えに行くか?」
「ええ、もちろんですわ! ……エミールさんも、ツィリルさんも、一緒に来てくださる?」
フレンが手を差し伸べると、エミールは「面倒だ」と不服そうに呟きながらも、その小さな手を取ってゆっくりと立ち上がった。ツィリルも「お供えが終わったら、早く帰ろうね。お腹減ったし」と急かしながら、二人の後に続く。
穏やかな潮風が、戦いの血と焦げた臭いを遠くの海へと運び去っていく。
聖キッホルの記念碑の前に供えられた色鮮やかな花冠。その傍らで、フレンとエミール、そしてツィリルは、並んで静かに波の音に耳を傾けていた。
セテスは少し離れた位置から、その背中を静かに見守り続けていた。