大修道院の厩舎は、馬の体温と乾燥した藁の匂いが充満していた。
ジェラルトの死、そしてクロニエの捜索という重く冷たい空気がガルグ=マク全体を圧迫する中、ヒルダは珍しく一人で、黙々と重い飼い葉桶を運んでいた。
「あーあ、重いし疲れたー。……ツィリルくん、遅いなあ」
額の汗を手の甲で拭い、干し草の束の上に腰を下ろす。
「……ヒルダ。何で一人で仕事してるの」
入り口の影。手斧を腰に提げたツィリルが立っていた。
いつもなら「ボクがやるよ」と桶を奪い取る彼が、今日は不満げに眉をひそめて立っている。
「あ、ツィリルくん! お掃除ご苦労様ー。……って、一人で頑張っちゃったわよー! ツィリルくんが手伝ってくれないから!」
「別に、ボクじゃなくても手伝ってくれる人はいるでしょ」
「ツィリルくんを待ってたんだよ。だって、ほら!」
ヒルダは胸元から一通の封筒を取り出し、ひらひらと振った。
「前に兄さんと手紙のやり取りをしてるって言ったでしょ? それで、ツィリルくんのことも何度か書いたのよねー。そしたら、兄さんから返事が来てね」
ペーパーナイフで封を切り、彼女は得意げな声帯の振動で読み上げる。
『パルミラ人であっても、品行方正で慈悲の心を持つ者ならば尊敬すべきだ。人間として立派な者は重んじなさい。国の事情など大事の前には無に等しい』
「でしょ? あんな兄さんだけど、あたしも見直しちゃったんだー」
ツィリルの橙色の瞳孔が、微かに収縮した。
かつて自分を奴隷として使役していたゴネリル家の、次期当主の言葉。パルミラと最前線で血を流し合っている貴族の出力としては、あまりにも異質だ。
「……へえ。すごいね。パルミラと戦う貴族の言葉とは思えない」
「えっへん! そうでしょうそうでしょう!」
「嬉しいな。こっちじゃ、パルミラ人ってだけで悪い印象を持つ人も多いから。ボクを、一人の人間として認めてもらえたような気がして……」
ツィリルの頬の筋肉が僅かに緩む。それを見たヒルダは、むっと唇を尖らせた。
「えー? 何よう。あたしもずっと認めてるわよー?」
「それは認めてるんじゃなくて、頼ってるんでしょ」
ツィリルは息をするように事実を叩きつけ、歩み寄ってヒルダの手から空の桶を物理的に奪い取った。
「ヒルダはまず、お兄さんから心配されないような大人になりなよ」
「あたしだって成長してるわよー! 水やりも飼い葉もちゃんとできたんだから!」
「だとしてもボク、ヒルダに認められても全然嬉しくないなあ」
ツィリルは新しい飼い葉を桶に詰め込みながら、肩越しに振り返る。
「……頼られるのは、とても嬉しいけどね」
ヒルダの顔面の毛細血管が拡張し、カァッと熱を帯びた。
普段は無愛想で実務的な少年の、真っ直ぐな好意。
「……じゃ、じゃあ、もっと頼ってやるんだから! まずは……」
「ヒルダ様! 大変です!」
鉄の擦れる激しい足音と共に、ゴネリル家の家紋を刻んだ鎧の兵士が厩舎に飛び込んできた。彼の肺は極限まで酸素を求め、激しく上下している。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「フォドラの喉元に、パルミラの軍勢が押し寄せています! さらに、ホルスト様が……出陣の直前に、原因不明の腹痛で倒れられまして……!」
「ええっ!? 兄さんが!?」
ヒルダが勢いよく立ち上がる。
「父上はご自身で戦う気はなく、臣下に任せるのも体面上よろしくないとのことで……ヒルダ様、至急、救援に向かっていただきたいと!」
「そんなぁ……! 兄さんがいれば楽勝なのに、あたし一人が行っても足手まといになるだけだよー……」
ヒルダが両手で頭を抱え込む。
その視界の正面に、飼い葉桶を置いたツィリルが立った。
彼の姿勢は低く、重心が完全に足裏へと落ちている。その瞳から少年らしい穏やかさは消え去り、敵の距離を測る猟兵の冷徹な光が点灯していた。
「ボク達も連れてってくれないかな」
「え? 何で!? ツィリルくん、同郷の人と戦うことになっちゃうんだよ?」
「それは別に。ボクのこと覚えてる人なんて、どうせいないだろうし。……それに、ボクはあの首飾りの戦いで捕まって、フォドラに来たでしょ。またボクと同じような境遇の孤児が出るんじゃないかって、気になって……」
ツィリルは事実のみを淡々と並べる。ヒルダはハッとして、眉を下げた。
「なんかごめんなさい……。でも、あたしはパルミラの子を捕まえてきたりはしないよ?」
「うん、わかってる。それならそれでいいんだ。見届けられれば、安心できるから」
ツィリルはヒルダの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「……でも、それだけじゃない」
「え?」
「パルミラの連中が、ヒルダの領地を荒らすのは嫌だ。ヒルダが怪我して血を流したり、悲しんで泣いたりするのは、ボクがすごく嫌だ。……だから、ボクがしっかり守るよ。ヒルダは、ボクの隣から離れないで」
その言葉の質量が、ヒルダの鼓膜を強烈に打った。
彼女の右手が無意識に動き、ツィリルの無骨な左手を強く握りしめていた。
掌から伝わる、弓の弦で擦り切れた硬い皮膚の感触。どれだけ引っ張ってもビクともしない、強靭な体幹。
ヒルダの心臓の拍動が速くなる。彼女の手を握り返すこの少年は、都合よく仕事を押し付けられる従者ではない。最前線の恐怖と暴力を完全に引き受け、自分を絶対的に防衛する強固な『盾』だ。
「……ツィリルくん」
ヒルダの口角が上がり、不安による震えが完全に停止した。
「……じゃあ、一緒に行こう! メルセデス先生や、灰色学級のみんなも呼んでくるから……わたしのこと、しっかり守ってよね、ツィリルくん」
「うん。任せて」
修道院の鐘が重く鳴り響く中、二人は駆け足で厩舎を後にした。
***
乾燥した熱風が、フォドラの喉元の急峻な山肌を吹き抜ける。
城壁の眼下に広がるのは、土埃を巻き上げて進軍してくる無数のパルミラ兵と、空を覆う飛竜の群れ。ホルスト不在のゴネリル兵たちは防衛線に釘付けにされ、士気は著しく低下していた。
だが、その膠着状態を、巨大な質量を持つ暴力が正面から粉砕した。
「がはははっ! ホルストの野郎、変なキノコ食って腹下すなんて馬鹿か! あいつの尻拭いは、この俺様がやってやらぁ!」
バルタザールの放った黄金の闘気が、城門に取り付こうとしていたパルミラの重装兵三人を纏めて宙へ吹き飛ばした。
「オラオラ! レスターの格闘王の拳、味わいな!」
親友の領地を護るため、バルタザールは一切のペース配分を無視して敵の密集地帯へ飛び込み、強烈な破砕音と共に血路をこじ開けていく。
「チッ、割に合わねえ仕事だが……灰色の悪魔に恩を売るチャンスだ。コンスタンツェ、ハピ! 両翼の雑魚を掃討しろ! ボサッとしてると首が飛ぶぞ!」
城壁の上から、ユーリスが冷徹な音声で指示を飛ばす。彼の放つ魔法剣の光刃が、城壁をよじ登ろうとする敵兵の指を正確に切断した。
「オーッホッホッホ! ヌーヴェル家の再興のため、この程度の有象無象、わたくしの魔法で塵に変えて差し上げますわ! 『サンダーストーム』!」
「はいよ……パルミラの連中もしつこいね。サクッと終わらせよ」
コンスタンツェの落雷が敵の攻城兵器を粉砕し、ハピの闇魔法が後続の足並みを完全に絡め取る。
「あらあら、怪我をした人はこっちにいらっしゃいな。すぐに治してあげるわ」
メルセデスの白魔法の柔らかな光が、負傷したゴネリル兵たちの傷を次々と塞ぎ、崩れかけていた防衛線が急速に息を吹き返していく。
その乱戦の最前線。
ヒルダは巨大な戦斧を振るい、迫り来るパルミラ兵の胴体を薙ぎ払っていた。
「もー! 重いし疲れるし、最悪ーっ!」
文句を叫びながらも、彼女の膂力は敵の盾ごと骨格を粉砕する。だが、敵の数は圧倒的だった。ヒルダが斧を振り抜いた硬直を狙い、二人のパルミラ兵が曲刀を構えて彼女の死角へ飛び込んだ。
「死ね! フォドラの弱兵が!」
敵の刃がヒルダの背中に届くコンマ一秒前。
シュガァンッ! と空気を裂く音が二度響き、飛び込んできたパルミラ兵の喉元に、矢が深々と突き刺さった。
「がっ……!?」
「ヒルダ。斧の振りが大きすぎるよ。次が遅れる」
倒れ込む敵兵の背後から、ツィリルが音もなく滑り出た。彼は弓を構えたまま、ヒルダの周囲半径三メートルに絶対的なキルゾーンを構築していた。
「ツィリルくん! ありがとー!」
「ボクの背中から出ないでって言ったでしょ。ヒルダが怪我したら、ボクが困るんだから」
ツィリルの矢筒から次々と矢が引き抜かれ、弦が唸る。彼の射撃には無駄なタメが一切ない。標的の急所を機械的な精度で穿ち、ヒルダに近づくものを片端から無力化していく。
「き、貴様……! その顔立ち、パルミラの人間だな! なぜ同胞を殺してフォドラの女に味方する!」
生き残ったパルミラの将が、血走りながら怒号を飛ばした。
「誇り高きパルミラの血を忘れたか! 裏切り者め!」
ツィリルの弦を引く指が、ピタリと止まる。
彼は橙色の瞳で、同郷の将の眉間に狙いを定めたまま、息を吐くように答えた。
「パルミラの誇りなんて、ボクには関係ないよ」
ツィリルの口から、ただの事実が語られる。
「パルミラにいた時のほうが、ずっと大変だったからね。親が死んでも、王様も誰もボクを助けてくれなかったし。……でも、ヒルダは違う」
ギリッ、と弓幹が限界まで引き絞られる。
「アンタたちがヒルダの領地を荒らして、ヒルダを怪我させるなら……ボクがここで全部殺す。それだけだよ」
ツィリルの右指が弦を放つ。
空気を裂いて飛翔した矢が敵将の兜を正確に貫き、一切の問答を物理的に断ち切った。
「……すごい」
ヒルダはごくりと息を呑んだ。
ツィリルは敵将の絶命を確認する間もなく流れるような動作で次弾を番え、ヒルダの死角へ回り込もうとした別のパルミラ兵の喉を淀みなく射抜く。
返り血一つ浴びず、ただひたすらに自分の死角を制圧し続けるその小柄な背中を見て、ヒルダの肺から深く安堵の呼気が漏れた。
彼女は巨大な戦斧の柄を両手で握り直し、もう自身の背後を振り返ることを完全にやめた。
「ツィリルくん、右から飛竜が来るよ! 落とせる!?」
「うん、任せて。ヒルダはそのまま前の敵を斧で叩き割って」
ツィリルが弓に持ち替え、上空の飛竜の翼膜を正確に射抜く。墜落した飛竜の騎兵を、ヒルダの戦斧が無慈悲に粉砕する。
互いの死角を完全に補い合う二人の連携は、パルミラ軍の前衛を確実に後退させていった。
「よし! このまま一気に押し返すよー! みんな、ついてきてー!」
ヒルダの号令に、ゴネリル兵たちが雄叫びを上げて続く。
その輪の中心で、ツィリルはただ黙々と矢を番え、手斧を振るい、ヒルダに降りかかるすべての脅威を物理的に排除し続けていた。
血と砂埃の匂いが立ち込める『フォドラの喉元』。
国境の巨大な要塞の壁の上で、純粋な実利と防衛本能で結びついた少年と少女の群れは、強大な敵軍の波を確実に押し留め、そして跳ね返していくのだった。