ガルグ=マク大修道院を包み込んでいた冷気が、微かな水蒸気を含み始めた星辰の節の終わり。
『封じられた森』での闇の魔道士たちとの死闘を経て、大修道院に帰還したベレトの姿は、修道院内に滞在する全ての人々を驚愕させていた。
彼の毛髪と瞳孔の色素は完全に変質し、新緑のような淡い薄緑色へと変貌していた。さらに、彼の肉体から発散される生体エネルギーは常人のそれとは次元が異なり、すれ違う者の心拍数を無意識に低下させるほどの、異常な神聖さと静圧を放っていた。
大司教レアは、そのベレトの変容を確認した直後、教団の全権をもってひとつの決定を下した。
来たる孤月の節、ベレトと黒鷲の学級の生徒たちを、大修道院の最深部に封印されている絶対の聖域『聖墓』へと導き、女神からの神託を受けさせる。
その歴史を揺るがす一大行事となるであろう指令は、大修道院の地下空間、アビスに位置する『灰色学級』の教室にも伝達されていた。
「……なるほどね。あの無愛想な傭兵が、まさか女神様の器だったとはね。レア様のおっかないくらいの執着にも、ようやく合点がいったぜ」
燃焼するストーブの薪が、パチパチと爆ぜる音を立てる教室。
ユーリスは壁に背を預け、腕を組みながら紫色の瞳を細めた。彼の脳内では、地上から持ち込まれた断片的な情報がパズルのように組み合わさり、ひとつの巨大な構図を形成しつつある。
木製の円卓の上には、メルセデスが抽出したカモミールのハーブティーから白い湯気が立ち昇り、オーブンから出されたばかりのパウンドケーキが甘く重い香りを放っている。
「ベレト先生……髪の色がレア様みたいになってたね。ボクもあんな風に、変な場所に呑み込まれて脱出すれば、髪色を変えられるのかな……」
部屋の隅で、砥石と油を使って手斧の刃先を研いでいたツィリルが、一定のリズムで腕を動かしながら淡々と音声を繋ぐ。
「……え、ちょっと待って。ツィリルくん、まさか自分から闇に飛び込む気?」
ヒルダがティーカップを置き、目を丸くして身を乗り出した。
「うん。だって、ベレト先生の変化を見たレア様、すごく嬉しそうだったから。ボクもあんな色になれば、もっと喜んでくれるかもしれないし」
「だ、駄目です……っ! 髪の色を変えるために、命を危険に晒すなんて……っ」
マリアンヌが慌てて立ち上がり、両手で自身の胸元をギュッと握りしめながら激しく首を横に振った。
「それに……ツィリルさんは、今のままでも……その、十分……素敵、ですから……っ」
マリアンヌの顔面の毛細血管が拡張し、一瞬で朱に染まる。
「そうそう! ツィリルくんは今のままが一番いいの! 髪を緑に染めるなんて、あたしが絶対に許さないからねー!」
ヒルダがツィリルの背後に回り込み、その首元を背後から抱え込むようにして強く主張した。
「……そう? ヒルダとマリアンヌがそう言うなら、やめておくよ」
ツィリルはあっさりと引き下がり、手斧の刃の油を布で拭き取った。
「あ……そうだ、来月の聖墓の儀式に向けて、入り口の大階段をピカピカに磨いておくようにって言われたから、明日は朝から掃除しなきゃ」
「オーッホッホッホ! 女神の器であろうと何であろうと、このわたくしの魔法の前には取るに足らない存在! 聖墓の儀式がどうなろうと、今はツィリルの庇護下にあるわたくしたちの日常には、何の影響も及ぼしませんわ!」
ツィリルの首に腕を回したままのヒルダに対抗するように、コンスタンツェが胸を反らし、ストーブの熱気よりも熱い声量で高笑いを上げる。
「コニーの言う通りだよ。ボクたちはここで、メーチェの美味しいお茶を飲んで、静かに過ごしていればいいんだから」
「ふふっ、ツィリルくんがいっぱい食べてくれるから、先生も作り甲斐があるわ〜。はい、おかわり」
メルセデスがふんわりと目を細め、ツィリルの横に置かれた皿に、厚く切り分けた二切れ目のパウンドケーキを乗せる。
その穏やかな熱量の循環から少しだけ離れた、ストーブに最も近い特等席。
エミールは、自身に宛てがわれた一人用のソファに深く腰掛け、隣に座るフレンと共に静かに茶杯を傾けていた。
「お兄様も、聖墓の警備の準備でひどくピリピリしていらっしゃいますわ。……なんだか、大修道院全体が、妙にそわそわしているようで……」
フレンが、カップの水面に映る自身の薄緑色の瞳を見つめながら、不安げに睫毛を伏せる。
「……気にするな。外の空気がどうであろうと、俺はお前の平穏を邪魔する者を斬る。俺の仕事はそれだけだ。……茶が冷めるぞ、フレン」
エミールは分厚い指先で、テーブルの上の皿から甘い砂糖菓子をつまみ上げ、無造作にフレンの小皿へと落とした。
「あ……ありがとう存じます、エミールさん。ふふっ」
フレンの顔に、柔らかな花が咲くような笑みが戻る。
隔離された地下空間。外の世界でどれほどの血が流れようと、このアビスの教室の中だけは、強固な防衛壁に守られた絶対の安全圏として機能し続ける。誰もが、その体温の共有を心地よく受け入れていた。
カチャリ、と。
硬質な陶器の音が、室内の静寂を微かに揺らした。
「……ツィリル様」
窓際。地上へと続く石段の方角に背を向けるように座っていたモニカが、両手で握りしめたティーカップを小刻みに震わせていた。カップの中の紅茶が波立ち、縁に当たって鳴っている音だった。
「ん? どうしたの、モニカ。ケーキ、食べないの?」
ツィリルが布で手斧の刃先を拭いながら首を傾げる。
モニカは弾かれたように椅子から立ち上がり、ツィリルの着ている外套の袖口を両手で強く握りしめた。彼女の指先は氷のように冷たかった。
「……嫌な予感が、するんです」
「嫌な予感?」
「はい。最近……黒鷲の学級の、エーデルガルトたちの動きが妙なんです。荷馬車の轍の沈み込みが深すぎる。修道院に運び込まれる物資の中に、明らかに大量の鉄の武器と……血を止めるための縫合糸の匂いが混ざっています」
モニカの視線は空中の一点を凝視し、瞳孔が開いていた。
「あの方々の足音のリズムが、まるで……私が地下で拘束されていた時に感じた、あの『闇に蠢く者たち』と同じような、血生臭くて冷たい……巨大な戦の準備をしている気配と、完全に一致するんです」
モニカの震える声帯の振動が、教室内の空気を急激に冷却した。
ユーリスが腕組みを解き、姿勢を低くする。
「……ただの聖墓の儀式にしては、帝国の連中の荷物の搬入量が多すぎると思ってた。モニカ、アンタの生存本能の嗅覚は、恐らく外れちゃいないだろうよ」
ガタッ、とイングリットが椅子を蹴って立ち上がった。
「まさか……帝国が、聖墓の儀式に乗じて、大修道院内で武装蜂起を企んでいるというのでしょうか……!?」
コンスタンツェの高笑いが止まり、メルセデスの手からケーキナイフが静かに置かれる。エミールの巨体が微かに前傾姿勢をとり、その眼球が本能的に出入り口の扉へと向けられた。
急激に膨張し始めた恐怖と疑心暗鬼の圧力。
その空気を、ツィリルの平坦な声が物理的に叩き割った。
「エーデルガルトが何を企んでても、ボクたちには関係ないよ」
ツィリルは立ち上がり、自身の袖を力任せに握りしめているモニカの震える手に、自分の右手を重ねた。
「え……?」
モニカが息を呑んで見上げる。
ツィリルの金色の瞳は、帝国の脅威や大修道院の危機といった巨大な問題など一切視界に入れていなかった。彼が見つめているのは、ただ『目の前で怯えて震えている少女』という事実だけだった。
「モニカがそんな風に震えてたら、せっかくのメーチェの美味しいお茶の時間が楽しくなくなる。ヒルダもイングリットも不安な顔をするし、マリアンヌも悲しむ。みんなが悲しむのはボクが嫌だ」
ツィリルはモニカの手を優しく、だが絶対に振り解けない力で握り込み、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。
「ボクはレア様を護る。そして、ここにいるみんなを誰一人死なせたりしない。敵が来たら、ボクとエミール先生が全部殺す。……それだけだよ」
「だからモニカも、震える必要はないよ。ボクの側から離れなければ、絶対に誰も殺させないから。……ケーキ、美味しいから早く食べて」
ツィリルはそう言って、モニカの頭にポンと軽く手を置き、すぐに自分の椅子へと戻って再び手斧の刃を布で磨き始めた。
「ツィリル……様……っ」
モニカの目から、張り詰めていた糸が切れたように大粒の涙が溢れ落ちた。
恐怖による震えは完全に停止し、彼女の肺の奥から深く安堵の呼気が吐き出される。
イングリットの肩から力が抜け、ヒルダが小さく息を吐いて椅子の背もたれに寄りかかり直す。マリアンヌが安堵の息を漏らし、メルセデスが静かに微笑んだ。エミールの全身から立ち昇りかけていた殺気がスッと霧散する。
シャッ、シャッ。
教室に響くのは、ツィリルが手斧の刃先を研ぐ規則的な摩擦音と、ストーブの薪が爆ぜる音だけだ。
帝国軍の動向という見えない恐怖に強張っていた少女たちの身体の緊張は、その淡々とした金属音によって完全に解きほぐされていた。
彼が手斧を構え、この空間の入り口に立つ限り、誰も彼女たちには触れられない。
アビスの天井の遥か上、大修道院の石畳を、帝国軍の重い軍靴の響きが確実に覆い尽くそうとしている。
だが、この地下の教室の中だけは、少年が黙々と手斧を磨く硬質な音と甘い紅茶の香りが、確かな温度を持って保たれ続けていた。