地上での不穏な空気を余所に、大修道院の地下空間・アビスの教室には、いつものように穏やかな時間が流れていた。
ストーブの火がパチパチと乾燥した薪を焦がし、部屋の中央に置かれた木製の円卓の上には、メルセデスが丁寧に抽出したカモミールのハーブティーの甘い香りが漂っている。
ツィリルは部屋の隅に置かれた木箱の上に腰掛け、日課である武器の手入れを黙々とこなしていた。
使い古された鉄の手斧の刃に油を塗り、砥石を滑らせていく。シャッ、シャッという規則的な摩擦音が、静かな空間に心地よいリズムを刻む。
ヒルダはその隣で頬杖をつきながら、時折ツィリルに話しかけては、彼から返ってくる身も蓋もない返答にむくれたり笑ったりを繰り返している。マリアンヌは手鏡を見つめながら身だしなみを整え、モニカはエデルガルトたちの動向に関する嫌な予感を抱えながらも、ツィリルの側にいることでかろうじて精神の均衡を保っていた。フレンとエミールはストーブの近くで静かに茶をすすり、コンスタンツェは新たな魔法の構想をユーリスに力説している。
それは、彼らがこの地下空間で築き上げてきた、奇跡のような『群れ』の平穏だった。
だが、その完全な箱庭の静寂は、地上から響いてきた異常事態を告げる大音響によって物理的に叩き割られることになる。
星辰の節の終わりから、凍てつく風が吹き荒れる孤月の節へと移り変わる時期。
標高の高いガルグ=マク大修道院の分厚い石壁に囲まれた厳かな日常は、けたたましく乱打される鐘の音と、慌ただしく駆け回る教団騎士たちの重い金属の足音によって、完全に粉砕されていた。
中庭では完全武装の兵士たちが怒号を交わし、武器庫からは次々と槍や弓が運び出されている。大聖堂のステンドグラスから差し込む光すらも、どこか血の匂いを帯びている錯覚を覚えるほどの、極限の緊張状態。
「……信じられない。あの黒鷲の学級のエーデルガルトさんが、大修道院に牙を剥く賊の首魁だったなんて……っ!」
地上からアビスへと続く、光の届かない暗く湿った長い石段。そこを転がるように駆け下りてきたイングリットは、灰色学級の教室の重い木製の扉を乱暴に押し開けるなり、顔面の血の気を完全に失った状態で叫んだ。
修道院の精鋭たる彼女の呼吸のピッチは異常なほど速く、肺が極限まで酸素を求めて胸郭を激しく上下させている。その右手は、まだ抜かれてもいない腰の剣の柄を、関節の骨が白く浮き出るほどに強く握りしめられていた。
彼女の背後に続いて扉をくぐったアッシュとラファエルもまた、額にびっしりと脂汗を浮かべている。アッシュは息を切らしながら膝に手をつき、普段は底抜けに明るいラファエルの巨体も、一様に信じ難い事実を受け止めきれないというように、目を見開いて立ち尽くしていた。
「聖墓の儀式の最中に、あの女が帝国軍の兵士を引き連れて聖石を強奪しようとしたって話だ。……ベレト先生とレア様が防いで、エーデルガルトは逃げおおせたらしいが……これで、アドラステア帝国とセイロス教団は、完全に全面戦争だぜ」
ストーブの薪がパチパチと燃える音だけが響いていた教室の空気を、ユーリスの低く冷たい声が急速に冷却した。
彼は円卓の側に立ち、深刻な顔で自身の口元を片手で覆っている。彼の紫色の瞳は、開戦の報せを聞いてもなお、一切の感情を交えずに今後の生存ルートの計算を始めている。
モニカの指先が、ガタガタと音を立てて震え始めた。
彼女が数日前から荷馬車の轍の深さや、持ち込まれた物資の匂いから嗅ぎ取っていた『巨大な戦の準備の気配』は、今まさに最悪の事実として盤面に現出していた。
「そんな……エーデルガルトちゃんが……」
メルセデスが両手で胸元を覆い、その大きな目を痛ましげに歪める。彼女の足元が微かによろめき、近くの椅子の背もたれを掴んでかろうじて身体を支えた。
マリアンヌは椅子に座ったまま、両腕で自身の身体を抱え込み、ガチガチと歯の根を鳴らすような小刻みな震えを止めることができない。彼女の視線は床の木目を彷徨い、極度の恐怖に完全に支配されている。
「あの人……やっぱり地下の化け物たちと繋がってた。……ツィリル様、もし帝国の大軍がここへ攻めてきたら……っ」
モニカが、すがるようにツィリルの腕を強く握りしめた。彼女の鋭い爪が、ツィリルの外套の分厚い生地に深く食い込んでいる。
「……うん。メーチェもマリアンヌも、モニカも心配しなくていいよ」
ツィリルは、先程まで刃先を研いでいた手斧を腰の革製ホルダーに差し込み、いつものように淡々と言葉を紡いだ。彼の音声には、恐怖も、気負いも、過剰な熱気も含まれていない。
「帝国が来ても、ボクがみんなを守るから。エーデルガルトだろうがなんだろうが、ボクたちの居場所を壊そうとする奴は、ボクが全部殺す。……だから、みんなはここにいて」
ツィリルの金色の瞳孔は、大修道院の危機という巨大な事象を前にしても一切揺らいでいない。
彼が提示した、身も蓋もない物理的な絶対防衛の事実だけが、混乱と恐怖に脈拍を上げていた少女たちの呼吸を、少しずつ正常なリズムへと引き戻していく。モニカの指の力が僅かに緩み、メルセデスの強張っていた肩が下がる。
だが、ユーリスだけは、室内の温度の低下に同調しなかった。
彼の脳内では、感情の入る余地のない現実的な戦力比と退路の計算が、恐ろしい速度で処理され続けていた。ユーリスは円卓の上に置かれていたティーカップや皿を乱暴に端へと押し除け、その空いたスペースに、大きなフォドラ全土の羊皮紙の地図を広げた。
「……ツィリル。アンタの腕っ節が頼りになるのは嫌ってほどわかってる。だが、相手はフォドラの南半分を完全に支配するアドラステア帝国の正規軍だ。本隊がガルグマクを完全に包囲すれば、いくら俺たちや教団の騎士団がここで徹底抗戦しても、矢の数より多い敵の圧倒的な物量に押し潰される。……万が一、この修道院の防衛線が突破され、陥落した時の『逃げ道』を、俺たちは今すぐ確定させておく必要がある」
ユーリスの言葉に、イングリットがハッと顔を上げた。彼女の翠色の瞳が、地図の北側――寒冷な山地が広がる領域へと向けられる。
「逃げ道……。それは、教団と共にファーガス神聖王国へ亡命する、ということでしょうか? 王国は建国以来、教団に忠実です。レア様も、万が一の時はきっと王国の堅牢な城塞を頼るはず……」
「いや、俺たちは王国には行かねえ」
ユーリスは首を横に振り、地図の東側――広大な平野と大河が広がるレスター諸侯同盟の領土を、硬い指の関節でコンッと叩いた。
「レア様が王国に逃げ込めば、帝国軍の主力部隊は確実に王国へ向かって進軍する。だが、同盟の連中はどう動く? クロードの奴は食えない男だが、同盟の諸侯は根本的に『己の利』によって分裂しやすい。もし帝国に本気で国境を越えられれば、大軍を束ねる絶対的な王がいない同盟領は、一番脆く崩れ去る」
「……あたしの実家(ゴネリル)もあるしね。クロードくんからも、いざという時は同盟に避難して来いって、それとなく誘われてるしー」
ヒルダが、壁に背を預けながら腕を組んで同意した。彼女の顔からは、いつもの気怠げで甘えたような態度は完全に消え去り、戦乱の盤面を見据える貴族の娘としての冷徹な光が宿っている。
「ああ。俺たち灰色学級の武力と、このアビスの民を丸ごと匿うだけの広大な土地。それを今、一番必要としているのは、防衛線が脆弱な同盟だ。……俺たちは、いざという時はアビスを放棄し、同盟領へ亡命する準備を進める」
ユーリスは地図の上に置かれていた数個の木製の駒を動かし、アビスの隠し通路から同盟領へと抜ける撤退ルートを視覚的に構築した。
イングリットたち他学級からの合流組も、盤面上の駒の配置として、それが最も生存確率が高く、理にかなったルートであることを瞬時に理解した。
「……ツィリル。アンタはどうする?」
ユーリスが、真っ直ぐにツィリルを見据えた。
重い沈黙が落ちる。教室中の視線が、一斉に小柄な少年へと集中した。ストーブの薪がパチッと爆ぜる音だけが、不必要に大きく鼓膜を叩く。
「レア様は恐らく王国へ向かう。アンタは、レア様についていくか? それとも……」
ツィリルの眼球が、円卓の上の地図を高速でトレースしていく。
彼の視線は、王国の険しい山岳地帯――フラルダリウス領やゴーティエ領の強固な防衛線――と、同盟の広大な平野部――グロスタール領からリーガン領への平坦な地形――の面積、想定される帝国軍の進軍ルート、そしてそれぞれの距離を物理的に測定していた。
彼にとって、レアの絶対的な安全の確保こそが、生命活動の最優先事項だ。大司教の傍を離れるなどという選択肢は、本来の彼であれば最初から存在すらしていない。
だが、ツィリルの指先が、地図の上の帝国の木駒に触れた。
「……ボクは、同盟に行く」
ツィリルの口から紡がれた言葉に、ヒルダとモニカが弾かれたように顔を上げた。
「え……? ツィリルくん、レア様についていかなくていいの……?」
「……レア様には、教団の腕の立つ騎士のみんながついてる。それに、ボクがレア様と一緒に王国へ逃げても、帝国軍はそのまま王国に全戦力を向けてくるだけだ」
ツィリルは、地図の上の帝国の木駒を二つに分け、一つを王国へ、もう一つを同盟へとスライドさせた。
「でも、同盟にはヒルダやマリアンヌ、リシテアの実家がある。帝国軍からすれば、同盟も放置しておけない敵だ。……もしボクたちが同盟に行って、同盟の防衛線を強固にすれば、帝国軍は背後を突かれるのを恐れて、王国と同盟、両方に戦力を割かなきゃいけなくなる」
「帝国軍の戦力を二つに分散させれば、それだけ王国にいるレア様は安全になる。それに……」
ツィリルは、地図から視線を上げ、ヒルダ、モニカ、マリアンヌ、そして教室の隅で息を呑んでいるフレンとエミールを見回した。
「ボクは……ここにいるみんなを、一人も死なせたくない。みんなのお茶の時間がなくなるのも、寝床がなくなるのも嫌だ。……だから、ボクは同盟に行って、帝国の目を引きつける。それが、結果的にレア様を守ることに繋がるから」
ユーリスは円卓の上の地図に視線を落とす。
ツィリルが無造作に動かした二つの木駒の配置は、帝国軍の進軍ルートを物理的に引き裂き、王国(レア)への圧力を確実に半減させる陣形を形成していた。
数秒の沈黙の後、ユーリスの喉から、短く息を吐き出すような笑い声が漏れた。
「……はっ。恐れ入ったぜ」
「ツィリルくん……っ」
ヒルダが、両手で自身の口元を覆い、大きく見開いた瞳でツィリルを見つめる。
モニカの目から再び大粒の涙が溢れ、マリアンヌが安堵の息を長く吐き出した。
「……ふん。上等だ。なら、決まりだ。いざという時は、アビスの住民を連れて同盟領へ脱出する。みんな、いつでも動けるように自分の荷物をまとめておけ」
ユーリスの号令で、灰色学級の面々はそれぞれが自身の武具の確認や、保存食などの物資の選定へと慌ただしく動き出した。刃を研ぐ音、薬瓶を袋に詰める音、外套の紐を結ぶ音が室内に響き始める。
だが、その熱量の循環の中でただ一人、イングリットだけが、自分の膝の上で自家の槍の柄を白くなるほど強く握りしめたまま、深く顔を伏せていた。
イングリットの脳裏に、ファーガス神聖王国の冷たく痩せた大地と、吹き荒れる吹雪の感触がフラッシュバックする。
飢えに苦しみながらも、自分たち領主を信じて耐え忍んでいる、ガラテア領の臣民たちの、ひび割れた頬と乾いた手が視界を埋め尽くす。
もし王国が帝国と全面戦争になれば、ただでさえ土地の貧しいガラテア領は、戦費と物資の供出によって真っ先に食糧難と戦火の地獄に沈む。男たちは兵として徴用され、女子供は飢えに苦しむだろう。
次期当主である自分が、その臣民を見捨ててツィリルたちの元(安全な同盟領)へ逃げることなど、ファーガスで生まれ育った騎士としての行動規範と誇りが、絶対に許容しなかった。
他の生徒たちが足早に教室を動き回る中、イングリットの脚の筋肉は床板に太い釘で縫い付けられたように硬直を続け、荷造りのための動線を一歩も踏み出すことはなかった。彼女の右手が腰の剣の柄を握る。それはツィリルへの依存を断ち切り、冷酷な現実(王国への帰還)へと自身を縛り付けるための物理的な楔だった。
(……私は、行けません。ツィリル……あなたと、離れたくないけれど……っ)
イングリットは、奥歯が砕けるほど強く歯を食いしばりながら、必死に下唇の震えを堪えた。瞳から溢れそうになる水分を、まばたきすら我慢して押し留める。
頭上の石壁の向こう側から、教団の鐘の音が狂ったように乱打され続けている。
大修道院を包み込み始めた戦火の足音。それは同時に、彼らがこのアビスで築き上げてきた温かい『群れ』の日常が物理的に引き裂かれる、残酷な別れのカウントダウンの始まりでもあった。