地を揺らすような重い軍靴の響きが、ガルグ=マク大修道院の白亜の石畳を物理的に震わせていた。
アドラステア帝国の皇帝として即位したエーデルガルトによる、教団への宣戦布告。
数万に及ぶ赤い軍旗がフォドラの空を覆い尽くし、帝国軍の誇る重装歩兵と魔道士の混成部隊が、大修道院の防壁へと黒い波のように押し寄せている。
「がははははっ! 帝国の連中、随分と気合いが入ってやがるが、俺様の覇気には及ばねえな!」
防壁の一角。バルタザールが両の拳に金色の闘気を纏わせ、その剛腕を横薙ぎに振り抜いた。分厚い鋼鉄の盾ごと、三人の重装兵が紙屑のように宙へと吹き飛ばされる。砕け散った盾の破片が散弾となって後続の帝国兵の顔面を削り取った。
「おう! オデの筋肉も負けてねえぞ!」
そのすぐ横では、ラファエルが丸太のような太腕で敵の槍衾を強引に受け止め、そのまま相手の襟首を掴んで力任せに放り投げる。二つの巨大な『肉の防壁』が、正面からの突破を試みる帝国軍の波を完全に堰き止めていた。
「バルタザールさん、ラファエルさん、前に出すぎです! 右の崖上から魔道士の部隊が……!」
後方からアッシュが声を張り上げ、素早く三本の矢を番えて放つ。風を裂く矢が崖上の魔道士の手首を正確に射抜き、魔法の詠唱を物理的に妨害する。
「上空の敵は私に任せてください! ……そこですっ!」
澄んだ声と共に、イングリットの駆るペガサスが空から急降下した。彼女の振るう銀の槍が、アッシュの矢によって連携を乱された魔道士たちの死角を的確に突き、次々と戦線を削り取っていく。
「……もう。人がいっぱいいて土埃凄いし、ウザいし。……ちょっとあんたたち、あいつら適当に暴れて散らしてきてよ」
陣形の中央。ハピが気怠げに、わざとらしく大きなため息を吐き出した。
その瞬間、修道院の背後に広がる森の奥から、木々をなぎ倒すような地響きを立てて数体の巨大な魔獣が現れ、帝国軍の側面へと理不尽な突撃を開始する。
魔獣の巨大な爪が帝国兵の陣形を物理的に引き裂き、完璧な統率を誇っていた帝国軍の足並みが一気に崩れ去った。
飛び交う矢と魔法の雨の中、戦場全体を俯瞰するベレトの冷静な声が響き渡る。
「灰色学級は右翼の防衛線を維持してくれ! ラファエルとバルタザールはそのまま押し込め! イングリット、上空の魔道士を!」
ベレトは天帝の剣を振るい、戦場全体をコントロールしながら、各学級の生徒たちが最も力を発揮できる盤面を的確に整えていく。
だが、その大局的な指示の中で必ず生じるミクロな『死角』。
それを埋め続けているのが、ツィリルだった。
「ツィリルくん! 左側の連中、片付いたよー!」
フライクーゲルを肩に担いだヒルダが、息を切らしながらツィリルの元へ駆け寄ってくる。彼女の額からは大粒の汗が流れ落ちていた。
「うん。……ヒルダ、手が震えてるよ。斧の振りが遅くなってる。無理しないで、ボクの後ろに戻ってて」
ツィリルは、新たな矢を番えながらヒルダの筋肉の疲労を指摘し、そのまま彼女と敵兵の間に自身の身体を滑り込ませた。
弦が弾け、ヒルダの死角から迫っていた帝国兵の首筋に矢が深々と突き刺さる。
「ツィリルの言う通りだ、ヒルダ。お前はツィリルの背中を護っていてくれ」
指示を出しながら駆け抜けていくベレトの言葉に、ヒルダはフライクーゲルの柄を握り直して頷いた。
「ふふっ、わかった。じゃあ、ツィリルくんの背中はあたしが護ってあげるねー」
「……ッ、フレン、頭を下げろ!」
「はいっ、エミールさん!」
戦線のやや後方では、エミールが巨大な槍を振るい、フレンとメルセデスに近づく帝国兵の胴体を次々と両断していた。彼はメルセデスの治癒魔法の範囲から一歩も出ず、ただ二人の少女に害をなす外敵を排除する強固な盾として機能し続けている。
防壁を分厚く固める灰色学級と生徒たちの奮戦。
だが、フォドラの半分を支配する帝国軍の『圧倒的な数の暴力』を前に、戦線は少しずつ、確実に押し込まれ始めていた。
「……ツィリル様。前線が、割れます……!」
ツィリルの背後で結界を張っていたモニカが、ハッと顔を上げ、手にした魔道書を強く握りしめた。
彼女の視線の先。ハピの喚び出した魔獣の暴威を力技で叩き伏せ、重装兵の壁を割って進み出てきたのは、鮮やかな赤い甲冑を纏った一人の少女――アドラステア帝国皇帝、エーデルガルトだった。
「防衛線を突破しなさい! 目指すは中央、レアただ一人よ!」
エーデルガルトがアイムールを天に掲げ、冷徹な声で号令を飛ばす。
その凛とした皇帝の顔を認めた瞬間、モニカの肩がビクッと大きく跳ねた。
かつて、自分のすべてを捧げて忠誠を誓っていた相手。そして同時に、自分を冷たい地下の暗闇に幽閉した化け物たちと手を結んでいた、裏切りの主君。
モニカの視線に気づいたエーデルガルトもまた足を止め、その威厳に満ちた表情に僅かに苦痛の影を混ぜてモニカを凝視した。
「モニカ……! あなたは生きていたのね。私を信じて戻ってきて!」
エーデルガルトの呼びかけの声が、戦場に響く。
モニカは、震える足で一歩、ツィリルの隣へと歩み出た。
彼女の瞳に宿っているのは、かつての盲目的な忠誠ではない。
「エーデルガルト様……いいえ、エーデルガルト。私は、あなたを信じたかった……!」
モニカの声が、悲鳴のように空気を震わせた。
「あなたが、フォドラを変える気高い方だと、ずっと……! ……でもあなたは、わたしを利用した! あの冷たい地下の暗闇で、私を化け物たちの餌にしようとした!」
「それは誤解よ、モニカ! わたしの話を聞けばきっとあなたも、私がどれほどの血を流してこの道を進んでいるか……!」
エーデルガルトが一歩踏み出し、悲痛な声で弁明しようとする。
だが、モニカは首を横に振り、魔道書を開いて炎を顕現させた。
「いいえ、理由はどうあれ、わたしはツィリル様の為にあなたと戦います!」
モニカの言葉と共に、巨大な業火が石畳を這うようにして帝国軍の足元へと殺到する。炎が前衛の盾を焦がし、熱波がエーデルガルトの顔を煽った。
「……モニカ。無理しなくていいよ。手が冷たくなってる」
ツィリルは、魔道書を握るモニカの震える手に自分の右手を重ね、ポンと軽く叩いた。
そして、彼もまた手斧を構えたまま、モニカとメルセデスを背後に庇うように一歩前へ出た。
「エーデルガルト。アンタが何をしたいのかは知らないし、興味もない。でも、ここから先は通さないよ。ボクの大事な家を荒らす奴は、全員ここで死んでもらう」
ツィリルは手斧の刃先をエーデルガルトに向け、淡々と事実のみを口にした。
激突する炎と剣戟。
大修道院を包む戦火は、ベレトとレアの指揮のもと、両軍の意地と誇りがぶつかり合う凄惨な総力戦へと雪崩れ込んでいく。
だが、大局的な戦況は、圧倒的な物量差によって確実に教団側を追い詰めていた。
城門は完全に破壊され、大聖堂の塔の半分が炎に包まれて崩落を始めている。
その時。
大修道院の最深部から、空を突き破るような巨大な咆哮が大気を震わせた。
鼓膜を破らんばかりの振動に、両軍の兵士たちの動きが完全に停止した。
ツィリルが視線を空へと向ける。
厚い雲が物理的に吹き飛ばされ、そこに現れたのは、大修道院の尖塔を覆い尽くすほどの巨大な『純白の竜』だった。
「……レア様」
ツィリルの口から、微かな音声が漏れた。
白き竜――レアの放った光のブレスが、空を覆っていた帝国軍の飛竜部隊を一瞬にして消し炭に変え、地上を埋め尽くしていた攻城兵器を紙屑のように吹き飛ばしていく。
その圧倒的で規格外の暴力。神話的生物の顕現を前に、帝国軍の兵士たちは恐慌状態に陥り、陣形は完全に瓦解し始めた。
「……おい、ツィリル! ぼーっとしてる場合じゃねえぞ!」
ユーリスの鋭い声が、ツィリルの鼓膜を叩いた。
ユーリスは腰の剣を引き抜いたまま、背後のアビスへと続く隠し通路の重い石扉を蹴り開けていた。
「レア様のあれは、敵味方の区別がついてねえ! あのままじゃ、帝国軍ごと修道院全体が消し飛ぶ! 完全に防衛戦の限界を超えた。俺たちは、ここを放棄して同盟領へ退避する!」
ユーリスの言葉通り、白き竜の放つ光の余波が城壁を崩し、その巨大な瓦礫が教団の騎士たちをも巻き込んで押し潰していくのが見えた。戦線は維持ではなく、完全な崩壊へと移行していた。
「ツィリル! 早く来て!」
ヒルダが、扉の向こう側からツィリルに向かって必死に手を伸ばす。
モニカ、マリアンヌ、メルセデスたちが、崩れ落ちる瓦礫の熱風から逃れるように、次々とアビスの通路へと滑り込んでいく。
ツィリルは、空で荒れ狂う白き竜の姿を、数秒間、じっと見つめ続けた。
レア様には、強大な力がある。教団の腕の立つ騎士たちもまだ残っている。
けれど、同盟へ向かうこの群れには、ヒルダやモニカ、マリアンヌのように、自分が前衛に立って敵を殺さなければ生き残れない弱い人間たちがいる。
「……ごめんなさい、レア様」
ツィリルは空へ向けて短く呟き、深く一礼した。
そして、彼は躊躇うことなく踵を返し、ヒルダの差し伸べた手を取って、暗い地下通路へとその身を翻した。
ユーリスの合図で、重い石の扉が完全に閉ざされる。
地上の爆音と熱波が遮断され、通路の中は湿った地下の冷気と、駆け込んだ生徒たちの荒い呼吸音だけが響いていた。