ガルグ=マク大修道院の強固な城壁が、巨大な質量によって腹の底を揺らすような地響きと共に崩落していく。
星辰の節の冷たい夜気を完全に焼き尽くすように、大聖堂のあちこちから猛烈な火の手が上がり、漆黒の夜空をオレンジ色に毒々しく染め上げている。
上空を舞う「白きもの」の鼓膜を破らんばかりの咆哮と、それに恐慌を起こす帝国軍の怒号、崩れ落ちる石柱の破砕音が入り混じる混沌の中。
アビスから続く隠し通路を抜け出した灰色学級の面々は、ツィリルを先頭にして、大修道院の東――マグドレド街道へと続く森の入り口を目指し、物理的な血路を切り開いていた。
「急げ! 門までの道をこじ開けろ!」
ユーリスが、行く手を阻もうとした帝国兵の首筋に剣を突き立て、動脈から鮮血を散らしながら叫ぶ。
その背後には、アビスから連れ出した住民たち――武器を持たない老人や子供、負傷した者たちが、互いの衣服を握りしめ、恐怖に顔の筋肉を引きつらせながら必死に追従している。
「ハピ、後ろから追ってくる連中を魔獣で足止めしてくれ!」
「ん、わかった。……はぁーあ。こんなの、ハピのせいじゃないし……」
最後尾を走っていたハピが、肩越しに後方の火の手を振り返り、わざとらしく深いため息を吐き出した。
その瞬間、大修道院の地下から溢れ出た瘴気に呼き寄せられるように、森の奥から木々をなぎ倒して巨大な野生の魔獣が三体這い出した。魔獣たちは、逃げるアビスの民を追撃しようとしていた帝国兵の群れへと、理不尽な質量の塊となって突っ込んでいく。
鋼の鎧が紙屑のようにへこむ音と、人間の骨が砕ける音が夜風に溶ける。
その阿鼻叫喚を背に、ツィリルは手斧を振るって前方の茨と残敵を物理的に排除し続け、群れの進路を確保していく。
「……はぁっ、はぁっ……!」
ツィリルの数歩後ろで、リシテアが著しく呼吸を乱しながら足をもつれさせた。
彼女の小さな身体は、すでに体力の限界をとうに超えている。だが、後方から迫る帝国軍――その背後に潜む『闇に蠢く者たち』の気配への本能的な憎悪と恐怖が、彼女の足を無理やり動かしていた。
「……させるものですか。あんな奴らに……! わたしは……っ!」
リシテアの右手に握られた魔道書が、不吉な紫色の光を放ち始める。彼女の周囲の空間が歪み、極度に圧縮された暗黒魔法『ハデス』の魔力陣が形成されかけた。彼女の細い腕の毛細血管が赤黒く浮き上がり、魔力の過剰な引き出しによって肉体が自壊を始めている。
「リシテア、やめて。今は駄目だ」
ツィリルは即座に足を止め、リシテアの右腕を強く掴んで魔力陣の形成を物理的に中断させた。
「な、何を……っ! 手を離しなさい! 追っ手が来ているのよ!」
「体力が残ってないのに大魔法を使えば、リシテアの足が完全に止まる。ボクが背負って走れば群れ全体の移動速度が落ちて、追いつかれる。……魔力は使わないで、今は歩くことだけに使って」
ツィリルはリシテアの腕から手を離し、背中に背負っていた弓を引き抜くと、後方から迫っていた帝国軍の騎馬兵の眉間を正確に射抜いた。騎兵が落馬し、後続の進路が馬の死体によって物理的に塞がれる。
「……っ」
リシテアは悔しげに唇を噛んだが、ツィリルの放った矢の精度の前に反論を飲み込み、再び足を動かし始めた。
「ツィリルさん……っ、アビスの怪我人が、増えています……っ」
群れの中央部から、マリアンヌの震える声が響いた。
彼女の衣服は、負傷した住民たちを庇って付着した泥と血で汚れきっている。マリアンヌは両手から淡い光を放ち、歩きながら必死に住民たちの止血と治癒魔法を行っていた。彼女の白い手は、他者の血液で真っ赤に染まっている。
ツィリルは、マリアンヌの手の血糊を視覚情報として処理し、即座に自身の外套の裾をナイフで切り裂いて彼女へと投げ渡した。
「マリアンヌ、その布で手の血を拭き取って。血の匂いが強いと、ハピが呼んだ魔獣の標的がこっちに向くかもしれない。傷を塞ぐのは、森に入ってからでいい」
「は、はい……っ」
マリアンヌは受け取った布で素早く両手の血を拭い、周囲の状況を確認しながら小走りで移動を続ける。
ツィリルの音声には焦りも、大仰な悲壮感も含まれていない。彼が機械的な精度で周囲の脅威を排除し、進むべき安全なルートを指し示し続けることで、体力の尽きかけたリシテアや、恐怖に苛まれるマリアンヌの足が、止まることなく東の森へと進み続けていた。
燃え盛る大修道院の熱風を背に受けながら、ツィリルたちはついに敷地を抜け、マグドレド街道へと通じる深い森の入り口まで到達した。
燃え盛る大修道院の熱風を背に受けながら、ツィリルたちはついに敷地を抜け、マグドレド街道へと通じる深い森の入り口まで到達した。
周囲の空気が、火災の熱から、湿った木々の冷気へと物理的に切り替わる。
「……ここまで来れば、とりあえずは教団と帝国の乱戦の包囲からは抜けられたな」
木々の隙間から、巨大な羽ばたきの音が降りてきた。
殿(しんがり)のさらに上空から状況を俯瞰していたクロードが、飛竜の背から軽い身のこなしで地面へと着地する。彼の持つ弓の弦は、何度も引き絞られた摩擦で熱を帯び、飛竜の巨大な鱗は夜風を切り裂いた冷気をまとっていた。
「クロード。ありがとう。ボクたちを助けてくれて」
ツィリルは、刃こぼれし、帝国兵の血と脂で黒く変色した手斧を下げたまま、荒い呼吸を整えることもなく淡々と事実としての感謝を述べた。
「なあに、貸しにしとくさ。お前ら灰色学級の戦力と、このアビスの連中が無事なら、同盟にとってもデカい切り札になるからな」
クロードは飄々と笑いながら、肩越しにヒルダやマリアンヌ、リシテアたちを見た。
「それに、ヒルダたちもいる。同盟に逃げ込む大義名分は十分だろ。……帝国軍の連中、今は白き竜の相手で手一杯だが、いずれこっちにも追っ手を差し向けてくる。急いで同盟領の境界を越えるぞ」
「ええ……本当に、ありがとう存じます。クロードさん」
フレンが、血に塗れた巨大な槍を構えるエミールの背中に庇われながら、深く頭を下げた。エミールは無言のまま、周囲の暗がりから一切の警戒を解かず、筋肉を収縮させて殺気を研ぎ澄ませている。
燃え盛る大修道院の熱から逃れ、冷たい森の空気に触れたことで、誰もがこの地獄のような戦場からかろうじて逃げ延びられたことに、肺の奥から安堵の息を吐き出そうとした。
その時だった。
「……イングリット?」
前衛で周囲の索敵を行っていたツィリルが、ふと石を踏む足を止め、後ろを振り返った。
群れの最後尾。
アビスの民や灰色学級の生徒たちが、東の同盟領へと続く道へ歩みを進める中。
泥と返り血で汚れきった英雄の遺産『ルーン』を握りしめたイングリットは、森の入り口でピタリと足を止め、ツィリルたちの方を――正確には、同盟領へと続く安全な道のりを、血の気を失った悲痛な顔で見つめていた。
「どうしたの。早くおいでよ、置いていくよ」
ツィリルは、いつも通り抑揚のない、ぶっきらぼうな音声を投げかけた。
だが、彼の上半身はすでに完全に反転しており、両足はイングリットの方角へと真っ直ぐに向き直っている。
「……ツィリル」
イングリットの喉から絞り出された声は、ひどく震えていた。
彼女の右手が、ルーンの柄を白くなるほど強く握りしめている。革の手袋越しでもわかるほど、彼女の指の関節が硬直していた。
「私は……同盟には、行けません」
その言葉の質量に、ヒルダやメルセデスがハッとして振り返った。モニカが息を呑む音が、静かな森に響く。
「行けないって……どういうこと? 帝国の大軍に追われてるんだよ? 今、王国(ファーガス)に向かったら……」
「……私の故郷、ガラテア領は、王国(ファーガス)の南端……帝国の侵攻ルートのすぐ側にあります。もし帝国軍が国境を越えてくれば、真っ先に地獄となるでしょう」
イングリットは、ツィリルの金色の瞳を見つめたまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「ガラテアの民は、飢えに苦しみながらも、私たち領主を信じて今日まで耐えてきてくれました。……次期当主である私が、彼らを戦火に見捨てて、自分だけ安全な同盟領へ逃げることなど……騎士の行動規範が、許さないのです」
冷たい風が、イングリットの金色の髪を揺らす。
彼女の足元には、ペガサスが主人の感情を察取るように、不安げに嘶いて鼻先を擦り付けていた。
ここでペガサスの手綱を引き、ツィリルの構築する防衛線――同盟領へと足を踏み入れれば、確実な安全と、温かい『群れ』の平穏が約束されている。
だが、イングリットは震える両手でルーンを握り直し、自らの骨の髄まで染み込んだ騎士としての重い責任感によって、その甘い願望を物理的に叩き切った。
「……だから、私は行きます。王国へ。……今まで、本当にありがとうございま……っ」
彼女が無理に唇の両端を引き上げ、ペガサスの手綱を取って北へと踵を返そうとした、その時。
ガシッ、と。
強い摩擦音が、森の静寂を破った。
「駄目だよ」
ツィリルが、距離を詰める足音すら立てずにイングリットの背後へ迫り、彼女の左腕を強く掴んでいた。
「ツィリル……?」
「行かないでよ。イングリットが王国に帰ったら、ボク、イングリットを守れなくなる」
ツィリルの金色の瞳孔が、かつてないほど大きく見開かれ、イングリットの翠色の瞳を真っ直ぐに射抜いていた。
「騎士の誇りとか、そういう難しいことはボクにはわかんない。でも……イングリットの命は、ボクの側に置いておきたいんだ。イングリットが死んじゃうなんて、絶対に嫌だ。……駄目、なの?」
ツィリルは瞬き一つせず、微かに震える手で彼女の外套の裾を強く、強く握りしめている。
弓の弦で硬くタコの出来た少年の指先が、布地を限界まで引き絞り、ギリッと繊維のきしむ音を立てた。
「っ……!」
イングリットの目から、限界まで堰き止めていた水分が、ボロボロと大粒の涙となってこぼれ落ちた。
彼のその真っ直ぐな瞳と、服の裾を物理的に固定しようとする小さな手のひらの温度が、彼女の決意の地盤をグラグラと揺さぶる。
彼女の呼吸が乱れ、肩が激しく上下する。
だが、彼女は涙で視界をぐしゃぐしゃに歪ませながらも、自身の左腕を掴むツィリルの手を――自分の服の裾を握りしめる、そのひどく温かい少年の指先を、そっと、だが絶対的な拒絶の力を込めて、無理やり解いた。
「ごめんなさい……ツィリル。……本当に、ごめんなさい」
彼女の喉からは、それ以上の音声は出力されなかった。
これ以上彼の顔を見れば、その指の力に縋り付いてしまいそうだったからだ。
イングリットは、頬を伝う涙を拭うことすら忘れ、素早くペガサスの背へと飛び乗った。
手綱が強く引かれ、巨大な羽ばたきの音が森の木々を揺らす。
ペガサスは空気を蹴り、ガルグマクの北――冷たい風が吹き荒れるファーガス神聖王国へと向かって、一直線に夜空へと消えていった。
「……イングリット」
ツィリルは、空を切った自分の右手を、空中に固定したまま呆然と見つめていた。
守り抜くと決めた。全員を死なせないと誓った。
なのに、彼女は自分の構築した防衛線の内側から、自らの意志で去ってしまった。
冷たい夜風が、彼の手のひらからイングリットの衣服の感触を奪い去っていく。
「……行かせちゃって、よかったの?」
ヒルダが、ツィリルの背中にそっと触れながら、静かな声で尋ねた。
「……うん。無理やり引っ張ったら、イングリットが悲しむから」
ツィリルは、宙に浮いていた右手をゆっくりと下ろした。
だが、その右手はそのまま腰のホルダーへと伸び、手斧の柄を、木目が軋むほど激しい力で握りしめていた。
ツィリルの視線は、イングリットが消えた北の夜空に数秒間固定された後、東の同盟領へとゆっくりと移された。
「……行こう。ボクたちは、同盟へ」
ツィリルの声帯から発せられたのは、いつもと変わらない平坦な音声だった。
だが、斧の柄に食い込む彼の指の関節は白く染まり、その瞳の奥には、これまでになかった暗く重い光が沈殿していた。
燃え盛る大修道院の炎が、木々の隙間から彼らの影を長く不気味に引き伸ばしている。
背後に巨大な戦火の熱を感じながら、ツィリルと灰色学級の面々、そしてアビスの民たちは、長く過酷な五年間の始まりとなる、東への逃避行を歩み始めたのだった。