第二十一章①
ガルグ=マク大修道院が陥落してから、五年の歳月が流れた。
かつてフォドラの中央に君臨した教団は崩壊し、大陸はアドラステア帝国、ファーガス神聖王国、レスター諸侯同盟の三つ巴の戦乱に完全に飲み込まれていた。
だが、その泥沼の局地戦において、軍事力で劣るはずのレスター諸侯同盟だけは、クロードという戦術家と、彼が意図的に最前線に配置した『異質な武の群れ』の暴力によって、帝国の侵攻を食い止め、不気味な膠着状態を維持し続けていた。
同盟領の西端、帝国軍と直接対峙する防衛の要衝。
三日三晩降り続く雨によって足首まで泥濘む戦場の最前線で、上空の低い雲を引き裂いて、一頭の巨大な漆黒のワイバーンが急降下した。
風圧が地上の泥と血だまりを放射状に吹き飛ばす中、ワイバーンの背から一人の青年が音もなく泥土へと飛び降りた。
同時に、彼が手にした身の丈ほどもある巨大な鋼の戦斧が、横薙ぎの軌道を描いて無造作に振り抜かれる。
「……右翼の盾兵、邪魔。どいて」
雨音と金属の激突音が支配する戦場において、一切の力みを持たない平坦な音声が、周囲の空気を微かに振動させた。
青年――ツィリルが斧を振るうたび、強固な陣形を組んでいた帝国軍の重装部隊の分厚い装甲が、まるで薄い木板のようにひしゃげ、内部の肉体ごと空中に跳ね飛ばされる。砕けた鎧の破片が散弾となって飛び散り、後続の兵士の顔面を容赦なく削り取った。
かつて大修道院で手斧を磨いていた小柄な少年は、十九歳という年齢を迎え、その骨格を物理的に大きく引き伸ばしていた。
雨水に濡れた分厚い胸板と、丸太のように太く引き締まった腕の筋肉。そして、飛び散る敵の鮮血を顔に浴びても一切の瞬きをしない、冷徹に研ぎ澄まされた金色の瞳孔。
血と泥に塗れながら五年間戦い抜いた彼は、今や同盟軍において、誰もが直視せざるを得ない『暴力の要』へと成長していた。
「……ツィリルくん、右の林から魔道士の別働隊が来るよ!」
後方から、泥に塗れた巨大な魔斧フライクーゲルを肩に担いだヒルダが声を張り上げた。彼女の息は荒く、額からは雨水と汗が混ざって顎を伝い落ちている。
「わかってる。ヒルダはそのまま三歩下がって、メーチェとマリアンヌの治癒結界の中に入ってて」
ツィリルは、敵の槍を斧の柄で的確に弾き落としながら、背後のヒルダを一瞥もせずに淡々と指示を返す。
「ボクの視界から出ると、矢の援護が間に合わなくなる。絶対に出ないで」
「もうっ。相変わらず過保護なんだから……」
ヒルダは泥だらけの頬を微かに染めながらも、文句一つ言わずにペガサスを反転させ、ツィリルが指定したピンポイントの座標へと素早く退いていく。
「ツィリルさん。左翼の帝国軍の足並みが崩れましたわ。エミールさんが、単騎で敵の指揮官の首を落としてくださいましたの」
雷の魔力で周囲の雨粒を蒸発させながら、コンスタンツェが報告に駆け寄ってくる。彼女の豪奢なドレスの裾は重い泥を吸っていたが、その顔には高揚した笑みが浮かんでいた。
「コンスタンツェ、ありがと。じゃあ、こっちも押し返して終わらせよう」
ツィリルは、敵の胴体を斧で真っ二つに叩き割りながら、空いた左手でコンスタンツェの頭をポンと無造作に撫でた。
その「作業のついで」のような接触に、コンスタンツェは顔を真っ赤にして息を呑み、慌ててツィリルの背中の死角を魔法で護る位置へと移動した。
はるか上空。飛竜の背から戦場全体を俯瞰していたクロードは、手にした弓を下ろし、眼下の戦列の動きを静かに観察していた。
帝国軍が右翼から挟撃を仕掛けようとした瞬間、同盟軍の本隊から迎撃の銅鑼が鳴り響いた。
本来であれば、前衛に立つヒルダやコンスタンツェたちは、その銅鑼の合図(同盟軍の正規の軍略)に従って右翼へ展開しなければならない。
だが、彼女たちは銅鑼の音に一切反応しなかった。
彼女たちの視線は、ただ一点――ぬかるみの中に立つツィリルの背中だけに固定されている。
ツィリルが泥の深さを足裏で測り、右翼の敵陣に向けて斧を投げつけて物理的な障害物(壁)を構築した、そのコンマ数秒後。
ヒルダが彼によって塞がれた道以外の射線を完璧にカバーし、コンスタンツェの雷がツィリルの立っていない座標へと正確に降り注ぐ。マリアンヌの治癒の光は、ツィリルの呼吸のペースに合わせて途切れることなく後方から供給され続けていた。
そこにあるのは、正規の指揮系統による統率ではない。
「ツィリルの視界の内に留まることこそが、最も確実な生存ルートである」という、五年間で彼女たちの肉体に完全に刷り込まれた絶対的な生存法則の実行だった。
***
数時間後。前線から少し離れた同盟軍の野営地。
クロードは、自身の天幕の机に広げられた分厚い羊皮紙の束と、フォドラの広域地図を交互に見比べていた。
羊皮紙の束は、ここ数ヶ月の間に同盟の重鎮たちから直接送り付けられてきた私信の山だった。
『我が妹ヒルダからの手紙には、毎日あのパルミラの青年のことしか書かれておらん! 今度の日曜、ツィリルをゴネリル家の本邸に招きたい。他の馬の骨が近づいたら俺が叩き斬る』(ゴネリル公・ホルスト)
『我が養女マリアンヌが、あれほどまでに心を許す男……。ツィリル殿には、ぜひ我がエドマンド辺境伯家の客将として迎え入れたく、白紙の小切手を同封する』(エドマンド辺境伯)
『リシテアの体調を誰よりも正確に把握し、無理をさせぬあの眼力。コーデリア家としても、彼を何としても身内として取り込みたい……』(コーデリア伯)
クロードは、手にした革製の水筒から水を煽り、喉を鳴らした。
彼の視線は、手紙の文面から、机に広げられた『同盟軍の兵站(物資の補給)ルート』を示す地図へと移動する。
同盟の軍事において最も重要なゴネリル家、エドマンド家、コーデリア家。
その三つの巨大な名家から前線へと送られてくる食料、武器、そして医療物資の輸送ルートの終着点は、すべて『同盟本隊の補給庫』ではなく、意図的に『ツィリルが張っているテントの座標』へと向けてピンポイントで構築されていた。
同盟の主力部隊の兵站が、一個人の青年の周囲を中心に物理的に渦を巻いている。
クロードは、地図の上に置かれたチェスの駒を指先で弾いた。
同盟軍の正規の軍師である自分よりも、あの無愛想な青年の方が、同盟内の実質的な軍事・物資の流通ラインを完全に掌握しているという、動かしようのない物理的事実。
「……とはいえ、俺たち同盟も、いつまでも泥に浸かって防戦一方じゃいられねえ」
クロードは、地図の中心――かつてツィリルたちが撤退を余儀なくされた、ガルグ=マク大修道院の跡地を指の関節で強く叩いた。
「ツィリル! ちょっといいか!」
クロードは天幕を出て、血と泥にまみれたツィリルの元へ歩み寄った。
「何。今、掃除中なんだけど」
ツィリルは、折れた槍を構えて突撃してきた最後の帝国重装兵の膝関節を斧の柄で砕き、そのまま首筋に刃を叩き込みながら、ひどく面倒そうに振り返った。彼の顔には大量の返り血が浴びせられているが、その表情は庭の雑草を引き抜いた直後と何も変わらない。
彼は敵の死体から斧を引き抜き、布で刃の汚れをゴシゴシと擦り落とし始めた。
「掃除は終わったよ。帝国軍の足並みは完全に崩れた。これでしばらくは退いていく。……それより、お前らに提案がある」
クロードは泥の跳ねる音を立ててツィリルに近づき、声を微かに潜めた。
「そろそろ、俺たちも防衛線を押し上げて、本格的な反撃に出ようと思ってな。……目標は、ガルグ=マク大修道院だ」
「……え?」
斧の刃の血糊を拭い取っていたツィリルの腕が、ピタリと完全に停止した。
「帝国の連中は、あの大修道院を五年もの間、廃墟のまま放置している。あそこを俺たち同盟軍と、お前たち灰色学級の戦力で急襲して奪還し、反帝国の橋頭堡(拠点)にするんだ。……どうだ? お前たちにとっても、かつての寝床を取り返せる、悪い話じゃないだろ?」
クロードの視線は、ツィリルの反応を冷徹に観察していた。
この提案は、帝国の喉元に刃を突きつけると同時に、教団の威光を利用して同盟内の親帝国派の諸侯を黙らせるための、極めて政治的な盤面操作だ。だが、ツィリルの持つ『群れ』の武力と同盟諸侯からの支援(物資)がなければ、到底成功しない。
ツィリルの網膜の裏側にフラッシュバックしたのは、五年前に火の海となった大修道院の石畳。
(……ボクが、レア様から貰った最初の居場所)
(……イングリットと、別れた場所)
暗い地下通路の入り口で、自分の手から無理やり外套の裾をもぎ取り、北の空へと消えていった少女の泣き顔。
空を切った自分の右手のひらの、ひどく冷たい感触。
ツィリルは、ゆっくりと顔を上げた。
彼の金色の瞳孔が、極限まで収縮している。
「……いいよ」
ツィリルは、血で汚れた布を腰にしまい、短く、ただひたすらに力強い音声を出力した。
「クロードの話は難しくてよくわかんない。でも……ボクたちの家を取り返せるなら行くよ。……それに、あそこに行けば」
ツィリルは、自分が持っている巨大な鋼の斧の柄を、木材がギシッと嫌な音を立てて軋むほど、強く握りしめた。
「また、会えるかもしれないから」
誰に会うのか、彼は一切口に出さなかった。
だが、その抑揚のない言葉の奥底で煮えたぎる異常な熱量の存在を、後方へ控えていたヒルダやメルセデス、そしてモニカたちは、肌を刺すような悪寒と共に敏感に感じ取っていた。
ツィリルを中心に形成された群れの空気が、急激に重く、濃密なものへと変質していく。
かくして、五年の歳月と流血を経て、強大な戦士へと変貌を遂げたツィリルと灰色学級の面々は、クロードの提案に乗り、かつての故郷であるガルグ=マク大修道院の奪還作戦へとその足を向けた。
その廃墟と化した奪還の先で、五年間行方不明となっていた絶対の指導者(ベレト)と、奇跡の再会を果たすことになるとは、この泥濘の戦場に立つツィリルはまだ知る由もなかった。