擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十一章②

レスター諸侯同盟の最前線基地からの出立は、一切の喧騒を伴うことなく、迅速かつ隠密裏に行われた。

深い霧に包まれ、湿った土の匂いが立ち込めるマグドレド街道を西へ。かつての学び舎であるガルグ=マク大修道院へと進軍する軍列の中。

 

「……クロード。アンタの提案に乗ってやるのは構わねえが、腹の底くらいは見せておけよ」

 

ユーリスが、低空を滑空する飛竜の背に跨るクロードを見上げ、紫色の瞳を鋭く細めた。

彼の腰に提げられた剣の柄が、歩行の振動に合わせて微かに鳴る。周囲の空気が、彼の放つ静かな殺気によって僅かに温度を下げた。

 

「俺たち灰色学級がガルグ=マクを奪還し、前線の拠点にする。聞こえはいいが……要するに、グロスタール伯あたりをはじめとする『親帝国派』の諸侯どもが、俺たちのデカすぎる武力を同盟領内に置いておくのを煙たがったってのが本音だろ?」

 

ユーリスの容赦ない指摘に、クロードは飛竜の手綱を操りながら軽く肩をすくめた。その表情には、同盟の盟主としての冷徹な政治的計算が張り付いている。

 

「ははっ、灰狼の耳と目は誤魔化せないな。……今の灰色学級の武力と政治的影響力は、同盟のパワーバランスを内側から食い破りかねないほどに膨れ上がっちまった。俺としても、お前たちを前線(修道院)に配置して帝国への防波堤になってもらうのが、一番都合がいいのさ」

 

それは、兵站の維持と同盟内の権力闘争を天秤にかけた、極めて合理的な事実の羅列だった。

 

「……クロード。そんな難しい話、ボクにはどうでもいいよ」

 

ユーリスの隣を歩いていたツィリルが、短く息を吐いて口を挟んだ。

十九歳になり、ユーリスを見下ろすほどに骨格が引き伸ばされたツィリルだが、その音声のトーンは五年前と全く変わっていない。彼の視線は、クロードの顔ではなく、前方の霧の向こう側に向けられている。

 

「同盟の貴族がボクたちを邪魔だと思ってるなら、そう言えばいいだけ。ボクたちを五年間も匿って、メーチェたちに安全な寝床を貸してくれたことには感謝してるから、文句はないよ。……それに」

 

ツィリルの金色の瞳孔が、前方の木々の隙間から見えてきた『崩壊した大修道院』の巨大な輪郭を物理的に捉えた。

焼け焦げた城壁。崩落した塔の残骸。雑草に覆われた石畳。

 

「ボクたちの家を取り返せるのは、嬉しい。あの中にいる賊とか帝国の連中は、ボクが全部掃除するから」

 

ツィリルの指先が、背中に背負った弓の弦の張りと、腰に提げた手斧の柄の感触を同時に確認する。その動作には、長年の戦場生活で染み付いた血の匂いがこびりついていた。

 

「ふふっ、頼もしいねえ、ツィリルくん。じゃあ、あたしはツィリルくんの背中のお掃除を手伝ってあげる!」

 

ヒルダが、巨大な英雄の遺産『フライクーゲル』を肩に担いだまま、事もなげにツィリルの左腕にギュッと抱き着いた。彼女の腕の筋力と体幹の安定感は、五年前とは比べ物にならないほど強化されている。

 

「ええ。わたくしたちの居場所は、わたくしたち自身で取り戻しますわ!」

 

コンスタンツェもまた、日陰の森の中を高飛車な笑い声と共に進む。彼女の手にする魔道書からは、すでに圧縮された雷の魔力が微かな火花を散らしていた。

 

やがて、荒れ果てたガルグ=マクの正門前に到達した灰色学級の面々は、クロードの号令を待つことなく、その圧倒的な武の蹂躙を開始した。

 

「……そこ、ボクが昔拭いたばっかりの石畳。泥靴で踏まないで」

 

ツィリルの平坦な声が、修道院の敷地内に響く。

直後、彼の手から放たれた巨大な鋼の斧が空気を裂き、修道院を占拠していた野盗たちの胴体を紙のように両断した。切断された肉体から鮮血が噴き出し、崩れた石柱を赤く染め上げる。

 

ツィリルは立ち止まることなく滑るように移動し、敵の死体に食い込んだ斧を引き抜く。その一連の動作の間に、彼は背中の弓を引き抜き、城壁の上から狙いを定めていた二人の弓兵の眼球を正確に射抜いていた。

 

「ヒィィッ!? な、なんだこいつら……ッ!」

「逃げろ! バケモノだ……!」

 

野盗たちの悲鳴が交錯する中、別の方向から巨大な質量が迫る。

 

「……逃がさん。貴様らが汚したこの学び舎、俺の槍のサビで雪いでやろう」

 

漆黒の重甲冑を纏ったエミールが、身の丈を越える巨大な槍を風車のように振るい、退路を塞ぐように敵を次々と薙ぎ倒していく。その背後には、彼にぴったりと寄り添い、祈りの魔法陣を展開するフレンの姿があった。

 

「おらあっ! アビスを荒らしたツケ、オデの筋肉で払ってもらうぞお!」

 

ラファエルとバルタザールが、崩れた城壁の巨大な瓦礫をそのまま持ち上げて投げつけ、密集していた敵の陣形を物理的に粉砕する。巨大な岩石の下敷きになった敵兵の骨が砕ける音が、周囲の空気を震わせた。

 

「……邪魔です。そこをどいてください」

 

後方から、冷たく透き通った少女の声が響く。

リシテアの細い指先から放たれた闇魔法『ダークスパイクΤ』が、逃げ惑う賊たちの足元の石畳を物理的に粉砕し、漆黒の棘が彼らの胴体を串刺しにして虚空へと打ち上げた。崩れ落ちる瓦礫の埃を、彼女は不快そうに手で払う。

 

彼らは容赦なく盗賊達を掃討してゆき、かつての大修道院を支配していた静寂を、あっという間に取り戻していった。

五年間、最前線で血を流し続け、互いの死角を完璧にカバーし合うまでに洗練された群れの連携。そこには一切の無駄な動きも、感傷も存在しない。

 

「……ツィリル様、中央ホールの敵、すべて排除完了しました」

 

血に濡れた魔道書を抱え、モニカがツィリルの元へ小走りで駆け寄ってくる。彼女の息は少し弾んでいたが、その足取りは軽い。

 

「ありがと、モニカ。怪我してない?」

 

ツィリルは、弓の弦の張りを調整しながら、モニカの身体の各所(視覚情報)を素早くスキャンした。

 

「はいっ! ツィリル様が事前に敵の弓兵を潰しておいてくださったおかげで、かすり傷一つありません!」

 

「そう。モニカの魔法による広域支援がないと、敵の処理にボクの矢を余分に消費するし、片付ける時間もかかるから。……怪我がなくてよかった」

 

ツィリルは、返り血がべったりとこびりついた右手斧を腰のホルダーに収め、血のついていない清潔な左手のひらで、モニカの頭を軽くポンと一回だけ叩いた。

モニカはとろけるような笑顔を浮かべ、ツィリルの腕に嬉しそうに張り付いた。

 

「……やはり、君たちの強さは規格外だな」

 

その時。

修道院の大広間の入り口から、微かな金属音と共に、息を呑むような声が響いた。

 

ツィリルが素早く振り返り、手斧の柄に手をかける。

そこに立っていたのは、赤い軍装に身を包んだ、フェルディナントをはじめとする黒鷲の学級の生徒たちだった。

ベルナデッタ、カスパル、ドロテア、リンハルト、ペトラ。

彼らは皆、五年前の「千年祭の日に再会する」という約束を信じ、それぞれに傷つき、大人びた顔つきになってこの場所に集結していた。

 

「みんな……生きていたのね!」

 

メルセデスが、血の匂いの残る大広間を駆け抜け、かつての生徒たちとの再会を喜ぶ声を上げた。

 

「メルセデス先生! あなたも無事だったのか……!」

 

フェルディナントが、安堵の息を吐き出してメルセデスに応える。

彼らの装備には数多くの刃こぼれや修繕の跡があり、その顔には、どことなく色濃い疲労と悲壮感が漂っていた。彼らもまた、祖国である帝国と、恩師であるベレトとの間で板挟みになり、悩み抜いた末にここへ来たのだ。

 

「ひぃぃっ! やっぱりここは戦場じゃないですかぁ! 帰りたいですぅ……!」

 

ベルナデッタが、両手で頭を抱えてその場にうずくまり、激しくガタガタと震え始めた。広間のあちこちに転がる盗賊の死体と、むせ返るような血の匂いが彼女のパニックを加速させている。

 

ツィリルは、その震えるベルナデッタの姿を数秒間観察した後、自分の腰のポーチから小さな包みを取り出した。

 

「……そんな暗い顔しないでよ、ベルナデッタ。ほら、メーチェのお菓子、食べる?」

 

ツィリルは、包みの中から取り出した焼き菓子を、オドオドと震えているベルナデッタの口元に、有無を言わさず物理的に押し当てた。

 

「ふぇっ!? あ、あむっ……お、美味しいですぅ……」

 

ベルナデッタの咀嚼運動が始まり、糖分が摂取されたことで、その表情から急速にパニックの緊張が抜け落ちていく。

 

「あ、ちょっとツィリル。それ、メルセデスが私のために特別に焼いてくれた分も入ってるんですけど……」

 

リシテアが、ツィリルの手にある包みを見て不満げに声を上げた。

 

「……リシテアも今食べる? まだ残ってるよ」

 

ツィリルが残りの焼き菓子を差し出すと、リシテアは「べ、別に今すぐ欲しかったわけじゃありません!」と顔を背けつつも、その指先は素早く包みから菓子を一つ摘み取っていた。

 

「カスパルもペトラも、よく生きてたね。……せっかくまた会えたんだから、もっと笑えばいいのに。暗い顔してると、周りの士気まで下がるから」

 

ツィリルは、彼らの抱える政治的背景や複雑な感情には一切触れず、ただ目の前の事実だけを指摘した。

そのフラットでしがらみのない労りと、リシテアたちとの日常的なやり取りが、張り詰めていた黒鷲の生徒たちの心の結び目を、ふっと軽く解いていく。

 

そこへ。

 

「……ツィリルの言う通りだ。せっかくの再会の日だ、皆、顔を上げてくれ」

 

大広間の奥、女神の塔へと続く崩れた階段の向こうから、静かな、しかし確かな足音が響いた。

 

「え……」

「まさか……」

 

黒鷲の生徒たち、そして灰色学級の面々が、一斉に息を呑んでその方向を見つめた。

崩れ落ちた天井から差し込む朝陽の光を背に受けて歩み出てきたのは、淡い薄緑色の髪と、五年前と何一つ変わらない穏やかな瞳を持つ青年。

 

「先生……ッ!」

「ベレト先生!!」

 

誰かが叫んだのを皮切りに、生徒たちが一斉に彼のもとへ駆け寄った。

五年間、深い奈落の底で眠り続けていた絶対の指導者、ベレト。彼の無事な姿を目にした瞬間、大修道院の広間は、これまでの苦難を物理的に吹き飛ばすような歓喜の渦に包まれた。

 

「……遅いよ、先生」

 

ツィリルは、駆け寄って抱きつく生徒たちの輪から少し離れた場所で、手斧を腰のホルダーに完全に収めながら静かに呟いた。

 

「……すまない、ツィリル。待たせたな」

 

ベレトが、生徒たちの輪をかき分けてツィリルの前へと歩み寄り、その大きく成長した肩に手を置いた。ベレトの掌の確かな温度が、ツィリルの衣服越しに伝わる。

 

「ボクたちで、もう大半の掃除は終わらせちゃったよ。……でも」

 

ツィリルは、金色の瞳をわずかに細め、少しだけ、本当に少しだけ、少年のような不器用な笑みを浮かべた。

 

「先生が生きててよかった。……レア様も、きっと喜ぶ」

 

「ああ。……君が、この五年間、皆を立派に護り抜いてくれたんだな。……ありがとう、ツィリル」

 

ベレトが優しく微笑みかけると、ツィリルの背後にいたヒルダが「そうですよー! ツィリルくん、すっごく頑張ったんだから!」と誇らしげに胸を張り、マリアンヌも静かに首を縦に振った。

リシテアは腕を組みながら「ツィリル一人だけの力じゃありませんけどね」と口を尖らせつつも、その表情は柔らかい。

 

絶対の指導者の帰還。

そして、同盟の最前線で最強の群れへと成長を遂げた灰色学級。

崩壊した大修道院の石畳の上に、フォドラの歴史を根底から覆す、巨大な反撃の歯車が噛み合う音が物理的に響き渡った。

 

(……先生も帰ってきた。多分ここはもう、安全な家だ)

 

ツィリルは、歓喜に沸く仲間たちを見つめながら、己の手斧の柄をギュッと強く握りしめた。

 

(あとは……北にいる、あの生真面目な騎士だけ)

 

彼の胸の奥底で、五年間決して消えることのなかった『失った仲間(イングリット)』への強烈な執着と所有欲が、静かに、しかし確かな熱量を持って燃え上がり始めていた。

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