擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十一章③

瓦礫が物理的に脇へと退けられ、最低限の清掃が終わったガルグ=マク大修道院の大広間。

崩落した天井の隙間から差し込む朝陽が、石畳にこびりついた黒ずんだ血の痕と、空中に舞う細かな埃を鈍く照らし出している。

五年の歳月を経て本来の主を取り戻したその巨大な空間は、過酷な流血の運命を生き延びた者たちの身体から発せられる熱気と、生存を確かめ合う荒い呼吸の反響に満ちていた。

 

「無事だったか、ベレト殿……! もし貴殿まで失っていれば、私はあの世でジェラルト殿に何と詫びればよいか……っ!」

 

広間の中央に向かって、分厚い鋼の重甲冑が激しく擦れ合う音が響いた。

アロイスが、大柄な体を激しく震わせ、無骨な籠手で目元を乱暴に擦って涙を拭い去りながら駆け寄ってくる。彼はベレトの肩を両手で掴み、その重い体重をかけて物理的に抱きすくめた。金属と革、そして土埃の匂いがベレトの鼻腔を突く。

アロイスの後ろには、セテス、フレン、カトリーヌ、シャミア、ハンネマン、マヌエラといった、散り散りになっていた教団の中核メンバーたちが、それぞれの得物を手に顔を揃えていた。彼らの衣服や鎧には無数の傷や修繕の跡が刻まれており、五年という放浪の過酷さを証明している。

 

「五年間も穴底でくたばらなかったとはな。相変わらず、呆れるほどの悪運だ」

 

シャミアが、背負った弓の弦の張りを指先で弾いて確かめながら、唇の端をわずかに上げて短い笑みを見せた。彼女の双眸は、広間の入り口や窓の死角、そして床に残る新しい血痕の弾着角をすでに数回スキャンし終えている。

 

「あんただけでも見つかって良かったよ。……レア様の手がかりは、なしか。まあ、今は生きて再会できただけでも上出来だね」

 

カトリーヌが、ベレトの背後や足元の影を鋭い視線で確認し、そこに主の姿がないことを悟ってわずかに肩を落とした。だが直後、彼女は腰に提げた『雷霆』の柄に手を置いたまま、もう片方の手でベレトの背中を、鈍い音が響くほどの力で勢いよく叩き飛ばした。

 

「セテス君から粗方の事情は聞いた。この老骨で良ければ、いくらでもこき使いたまえ」

 

ハンネマンが、白髪の混じった頭を振りながら自身のモノクルの位置を指先で直す。その隣では、マヌエラが手にした剣の切先を石畳に付け、深く頷いた。彼女の表情にはかつての酒気を帯びた緩さはなく、戦場を生き抜いた熟練の治癒術師としての、周囲の怪我人を瞬時に見分ける鋭い視線が宿っている。

 

少し離れた場所で、ツィリルが弓の弦の汚れを布で拭き取っていた。

 

ツィリルが視線を広間の中央に動かすと、ベレトが崩れた石柱の残骸を乗り越えようとしているのが見えた。

五年の長きにわたる昏睡から目覚めたばかりのベレトの身体は、筋細胞の連携が完全に復元しておらず、足元の苔むした瓦礫にブーツの底を滑らせた。

 

身体の軸が大きく傾く。

ベレトの頭部が冷たい石畳に激突するコンマ数秒前、強靭な力で放たれた腕がベレトの胸ぐらを正確に掴み、凄まじい背筋力で強引に上方へ引き戻した。

 

ツィリルだった。

彼はベレトの体重を片腕の筋力だけで完全に支え切り、金色の瞳でベレトの足元の地形と顔色を交互に確認した。

 

「危ないよ、先生。そこ、石が崩れてる」

 

ツィリルはベレトを安全で平らな石畳の上へと移動させ、掴んでいた手を離した。それが、彼なりの素直な気遣いだった。ベレトは小さく頷き、ツィリルの言葉の奥にある確かな体温を受け取って微笑んだ。

 

歓喜に沸き、互いの無事を物理的に確かめ合う面々を見渡し、セテスが一歩前に進み出た。

その瞬間、彼の顔の筋肉から再会の安堵という感情が完全に削ぎ落とされ、冷徹な軍の最高指揮官のものへと切り替わった。

 

「再会の余韻を断ち切るようで酷だが、我々には時間がない。……これより、帝国への本格的な反攻作戦についての軍議を始める」

 

その低く通る声に、広間の空気が物理的にピリッと張り詰めた。全員の足音が止まり、視線がセテスの一点に集中する。

セテスは傍らの崩れた石卓の上に、縁の擦り切れたフォドラの広域地図を広げた。

 

「反攻の拠点は、このガルグ=マク大修道院とする。多少は荒れているが、拠点として使うには差し支えない」

 

「だが、あの抜け目ない皇帝が、この修道院を無警戒で放置しているとは考えにくいぞ」

 

シャミアが腕を組み、軍事的な懸念を鋭く指摘する。彼女の目はすでに、地図上の修道院周辺の地形図をなぞっていた。

 

「いや、大修道院は要衝ではあるが、現在の帝国の主戦線からは完全に外れている。急峻な山々に囲まれたこの場所は補給線の維持が困難で輸送の便も悪く、奴らにとって大軍を常駐させる兵站上の価値は薄いはずだ」

 

セテスが即座に地形的・兵站的理由を挙げて応え、地図の三箇所に鉄の駒を置いた。

そのやり取りを聞いていたベレトは、自らの剣の柄に手を当てながら少し考え込み、周囲に立つ数十名の数を確認した。

 

「……最大の懸念は、我々の物資と兵力だ」

 

ベレトの口から、残酷な事実が出力された。

アドラステア帝国という、フォドラの半分以上を呑み込んだ巨大な軍事国家と正面から戦争をするには、現在この広間に集まった人間だけでは、計算上あまりにも物理的リソースが不足している。武器、食糧、魔薬、兵馬。すべてが圧倒的に足りない。

重い沈黙が、石畳の上に落ちかけた。

 

その時だった。

 

「……それならば、私から提案がある」

 

フェルディナントが一歩進み出た。

彼が纏う赤い軍装の裾は泥と埃で汚れ、かつての豪奢な装飾は見る影もない。だが、その背筋は定規を当てたように真っ直ぐに伸びていた。彼は懐から、泥に汚れた分厚い羊皮紙の束を取り出し、石卓の地図の横に置いた。

 

「私が連れてきた私兵たちを、この軍に組み込んでほしい。……エーギル家はすでに皇帝に没収され、私は今や領地を持たぬ名ばかりの貴族だが……それでも、私の誇りを信じて着いてきてくれた精鋭だ」

 

羊皮紙の束には、彼に従う数百の兵士たちの名簿と、武器の残弾数が正確に記されていた。彼の手の甲には、長年の野営で刻まれた無数の切り傷がある。

 

「私、戦災で親を亡くした孤児たちを連れてきているの。雑用でも何でもさせるから……どうか、修道院で保護してもらえないかしら」

 

ドロテアが控えめに、だが絶対に引かない強い意志を持ってベレトの瞳を直視した。彼女の指先は、かつての歌姫の柔らかさを失い、弓の弦と剣の柄で硬く変質している。彼女の後方、大広間の暗がりには、彼女の服の裾を握りしめる数人の小柄な影があった。

 

「親の目を盗んで、金目のものを少しばかりくすねてきましたよ。帝国の資金になるよりはマシでしょう」

 

リンハルトがため息交じりに言いながら、背負っていた重そうな麻袋を床に落とした。

ガシャン、と硬貨と宝石が石畳にぶつかり合う鈍い音が響き渡る。彼は肩を揉みほぐしながら、換金すれば当面の兵糧の足しになるという事実だけを提示した。

 

「あ、あたしは今着てる服と弓しか持ってないですううう! むしろ誰か匿って、養ってくださいぃっ!」

 

ベルナデッタが両手で頭を抱え、涙目で叫んだ。

だが、彼女の背に負われた弓の手入れは完璧に行き届いており、矢筒には羽の整えられた矢が隙間なく詰まっている。彼女の眼球はパニックを起こしながらも、無意識のうちに広間の中で最も射線が通り、かつ身を隠せる柱の裏側の座標を正確に捉えていた。

 

「親父のいる実家になんて帰れるかよ! オレもこの5年、身一つの風来坊だからな!」

 

カスパルがカラッと笑い飛ばし、両手の拳を強く打ち合わせた。彼のガントレットは無数の打痕でひしゃげており、その腕の筋肉は実戦の連続によって限界まで肥大化している。

 

地位も、領地も、家族すらも捨てて集まった若者たち。

彼らがベレトの前に差し出したのは、泥臭く、不格好で、しかし確かな熱と質量を持った彼らの『すべて』の物理的リソースだった。

 

「……承知した。彼らの受け入れや物資の工面は、私に任せてくれ」

 

セテスが力強く頷き、実務の全権を引き受けることを宣言した。

 

「なら、アビスの隠し備蓄を少し融通してやるよ。俺たちにとっても、ここはようやく取り返した大事な寝床だからな」

 

ユーリスが壁に寄りかかったまま、不敵に笑う。

彼は腰のベルトから、巨大な鉄の鍵の束を外し、リンハルトが落とした麻袋の上に放り投げた。地下施設の倉庫を物理的に開けるための鍵群だった。

 

「それに、お掃除ならツィリルくんがまたぜーんぶやってくれるしねー?」

 

ヒルダが、巨大な斧を持ったままツィリルの左腕にギュッと抱き着き、自らの体重を完全に預けるようにすり寄った。

 

「うん。ボクたちの寝床を荒らす奴は、ボクが手斧で殺す。……それだけ」

 

ツィリルは、ヒルダの体重を左腕で支えたまま全く体幹をブレさせることなく、右手で腰のポーチから砥石を取り出した。

シュッ、シュッ、と。彼の手斧の刃の上を砥石が滑る、硬質でリズミカルな摩擦音が広間に響く。

彼の金色の瞳孔は、ヒルダの顔を見ることもなく、ただ大広間の入り口――外部からの侵入ルートにのみ完全に固定されている。敵を殺すことを、床の掃き掃除や薪割りと同じ『仕事』の延長として処理する、限界まで研ぎ澄まされた実利主義者の防衛本能。

 

セテスは、彼らの間に流れる強固な射線の交差と、広間に積み上げられた物理的な物資の山を見た。

彼は無言で傍らの木箱に歩み寄り、その上に置かれていた布の包みを解いた。

 

「諸君。我々はもはや、ただの教団の残党でも、各国の逃亡者でもない。アドラステア帝国が掲げる独善的な野望を打ち砕くための、新たな軍だ」

 

セテスが両手で高く掲げ、空中に大きく広げられた巨大な旗。

そこには、鮮やかな炎を象った紋章が染め抜かれていた。天井から差し込む朝陽の光を透過した分厚い布が、大広間を吹き抜ける風を孕んで重々しい音を立てる。

 

「ベレトを我らの指導者とし、この“炎の紋章”を軍旗とする。……この旗の下、這いつくばってでもフォドラの大地に安寧を取り戻すのだ!」

 

「おおおおおっ!!」

 

大広間に集った全員から、地鳴りのような歓声と鬨の声が上がった。

剣の腹を叩く音、弓の弦を弾く音、魔力が空気を焦がす破裂音が、物理的な衝撃波となって修道院の石壁を震わせる。

 

ベレトを指導者とし、ツィリルやユーリスたちの実戦的な暴力と物資管理能力を土台にし、黒鷲の若者たちの退路を断った覚悟を取り込んだ巨大な群れ。

フォドラの歴史を根底から覆す、炎の軍旗を掲げた新たな軍が、今この崩壊した大修道院の石畳の上で、確かな産声を上げたのである。

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