擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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プロローグ⑥

朝靄(あさもや)が深く立ち込める、修道院の裏庭。

冷たい土の上で、ツィリルは一人、身の丈に合わない古びた弓を引き絞っていた。

 

「……っ、くそ、重い」

 

指の皮は擦り切れ、すでに赤黒い血が滲んでいる。ゴネリル家で床磨きばかりさせられていた細い腕の繊維が、弓の張力に負けて小刻みに悲鳴を上げていた。

それでも、彼は的から目を離さない。頭の中にあるのは、泥まみれの自分を抱きしめてくれたレアの、あの底なしに温かい体温だけだ。

 

(ボクが、レア様を守るんだ。誰にも指一本、触れさせない)

 

ギリ、と弦を引き絞り、矢を放つ。しかし、ブレた矢は的の端を掠めることすらなく、虚しく濡れた土に突き刺さった。

 

「無駄な力みが多すぎる。それじゃあ、獣一匹殺せないよ」

 

ふと、背後の木立から、枯れ葉を踏む音すらさせずに一つの影が滑り出てきた。

ダグザ出身の凄腕の傭兵であり、セイロス騎士団に身を置く狙撃手、シャミア・ネーヴラント。

 

「……あなた、昨日からボクを見てましたね。なんですか?」

「野良犬が牙の研ぎ方を間違えてるから、少し気になっただけだ。弓を貸しな」

 

シャミアはツィリルの背後へ音もなく回り込むと、彼の手から半ば強引に弓を取り上げ、背後から覆い被さるようにして彼の身体に密着した。

 

「あっ……」

 

ツィリルの背中から首筋にかけて、シャミアの冷涼な息遣いが吹きかかる。彼女が纏う革鎧が軋む音と、朝露に濡れた森の匂い、そして研ぎ澄まされた刃物のような静かな殺気が、ツィリルの鼻腔をダイレクトに貫いた。

シャミアの長く引き締まった右脚が、ツィリルの両足の間に滑り込み、彼の膝の裏を軽く蹴って強制的にスタンスを広げさせる。

 

「右足に体重を乗せすぎるな。重心は腹の底に落とせ。弦は腕じゃなく、背中の筋肉で引くんだ」

 

彼女の冷たく滑らかな指先が、ツィリルの血の滲む指に重なり、正しい弦の掛け方を強制する。背中越しに伝わってくるシャミアの体温は、レアのような包み込む温かさではなく、ひどく冷徹で、生存のための合理性だけで構成されていた。

 

「……なんで、ボクに教えるんだ」

「アタシも、かつては帰る場所のない傭兵だった。あんたのその、生き残ることと一つの目的にしか興味がない目……昔のアタシに似てるからね。レア様のために死ぬ気なら、効率のいい殺し方を教えてやる」

 

シャミアが手を放すと同時に、ツィリルの指から放たれた矢は空気を切り裂き、見事に的の中心を射抜いた。

ツィリルは自分の血に塗れた手と、的を交互に見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「……シャミアさん。ボクに、弓と、戦い方を教えて」

 

振り返った少年の瞳に迷いはなかった。シャミアは微かに口角を上げ、「明日から夜明け前にここへ来い。吐くまでしごいてやる」とだけ言い残し、霧の中へ消えていった。

 

***

 

同日の午後。

ツィリルは修練場の片隅で、今度は泥だらけになりながら木剣を構えていた。

対峙しているのは、長身の騎士・エミール。

 

「……ボクにも、剣を教えてほしい。弓だけじゃ、近づかれた時にレア様を守れない」

「シャミア殿の訓練で、すでに身体は限界のはずだ。これ以上は筋肉が千切れるぞ」

「構わない。ボクの身体なんて、どうなってもいいんだ」

 

ツィリルが泥を蹴り、自暴自棄に近い踏み込みで木剣を振り下ろす。

しかし、エミールは一歩も動かず、手首の返しだけでその一撃を容易く弾き飛ばした。

ガギィンッ! と手の中に走る強烈な痺れ。ツィリルはバランスを崩し、無様に地面へ転がった。

 

「死んでもいい、か」

 

エミールはツィリルの胸ぐらを掴み、強引に引きずり起こした。

至近距離で交錯する視線。エミールの金色の瞳の奥で、かつて彼自身を支配しかけた『死神』の昏い残滓が、冷たく光を放っている。

その圧倒的な「暴力の匂い」に、ツィリルは呼吸を忘れた。

 

「お前は、自分が死ねばレア様が悲しむとは思わないのか。己の命を投げ捨てるだけの戦い方は、護衛ではなくただの『狂犬』だ。俺がそうであったようにな」

「……ッ」

「レア様を守りたいなら、敵を殺し、お前自身も必ず生き延びて、彼女の元へ帰還しろ。……そのための『生存の剣』を、俺が叩き込んでやる」

 

エミールはツィリルを乱暴に突き放すと、自分の木剣を拾い上げた。

「立て。死にたくなければ必死で食らいついてこい」

冷酷に響く言葉とは裏腹に、その剣閃には、不器用な弟を暗闇から引きずり出そうとする確かな熱がこもっていた。

 

***

 

大司教の間の奥、静謐な書物庫。

ツィリルが羽ペンを握り、ぎこちなく羊皮紙に文字をなぞっている。その後ろから、メルセデスが彼の右手をそっと握り、ペンの運びを導いていた。

 

「ちがうわ、ツィリルくん。ここはもっと力を抜いて、滑らせるように……」

 

教えることに夢中になるあまり、メルセデスは無自覚にツィリルの背中へと深く身を乗り出していた。

結果として、彼女の豊満で柔らかな胸の質量が、ツィリルの背中にむにゅりと完全に押し当てられる形になる。さらに、彼女の白い頬がツィリルの耳のすぐ傍まで近づき、甘い吐息が直接彼の首筋に吹きかかった。

 

「……メルセデス。ち、近いです。それに……」

 

ツィリルは、羽ペンを握られたまま、ただの事実を報告するように淡々とした声で口を開いた。

 

「背中に当たっているところが、すごく柔らかくて……あったかいです。でも、これだと弓を引くときや、短剣を振る時の重心がブレるから、戦闘には不向きな身体だと思います」

「えっ……?」

 

一切の計算もない、ただの生存戦略の観点から放たれた孤児の何気ない言葉。

その言葉の意味を数秒かけて理解した瞬間、メルセデスの顔が、首の先まで一気に真っ赤に染まった。

 

「ひゃあっ!?」

 

メルセデスは弾かれたようにツィリルから飛び退き、手近にあった本棚に背中を打ち付けた。

「ご、ごごご、ごめんなさいツィリルくんっ! 私、教えるのに夢中になっちゃって……その、あんなに密着するつもりは……っ!」

 

年上の教師としての威厳など跡形もなく吹き飛び、両手で真っ赤な顔を覆ってオロオロとパニックになるメルセデス。

そんな彼女の姿を、ツィリルは椅子に座ったまま、静かに見つめていた。

 

パルミラの戦場で、彼に触れてくる大人は皆、暴力か悪意しか持っていなかった。

しかし、この女性の不注意な熱には、一切の悪意も、計算もなかった。ただ純粋に、自分に文字を教えようとする本気の優しさだけが詰まっていた。

 

「……別に、謝らなくていいです」

「え……?」

 

ツィリルは、羽ペンを羊皮紙の上に置き、メルセデスの方へ真っ直ぐに視線を向けた。

 

「戦闘には不向きだって言ったけど……嫌だとは言ってないです。ボク、今まで誰かにあんな風に、あったかく触れられたこと、レア様以外になかったから」

「ツィリル、くん……」

「すごく、落ち着く匂いがした。だから……あなたが教えやすいなら、別にあのままでもいいです。ボクは気にしないから」

 

ぶっきらぼうに、しかし微かに視線を逸らしながら告げられた、不器用すぎるフォロー。

その言葉を聞いた瞬間、メルセデスの心臓が、ドクン、とこれまで経験したことのない大きな音を立てて跳ねた。

 

(あ……れ……?)

 

今まで彼女が接してきた「守るべき子供たち」とは違う。

自分の失敗やドジを冷静に指摘しながらも、その上で「あなたの温もりを受け入れる」と真っ直ぐに肯定してくれた、一人の『男性』としての力強さ。

 

メルセデスの胸の奥底で、教師としての使命感とは全く違う、ひどく甘く、疼くような感情の種子が、確かに根を下ろした瞬間だった。

 

「……うふふ。ツィリルくんは、本当に優しいのね」

 

まだ少し頬に朱を散らしたまま、メルセデスは再びツィリルの隣に歩み寄る。

今度は先程のような過度な密着は避けつつも、彼女の瞳には、ただの教え子に向けるものとは違う、微かな熱と執着の光が宿り始めていた。

 

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