新生軍の発足から数日後。
最低限の機能を回復しつつあったガルグ=マク大修道院の作戦会議室に、泥と血にまみれた教団の斥候が転がり込んできた。
彼の肩口の鋼の装甲はひしゃげ、肺から空気を絞り出すたびに、鉄と汗の混じった不快な臭いが室内に拡散する。
「……敵襲です! 山道を登ってくる帝国兵、ざっと一万! 旗印から見て、若手の将ランドルフが率いる先遣隊かと……っ!」
作戦会議室の空気が、物理的に凍りついた。
石卓を囲む者たちの呼吸が浅くなり、視線が広げられた周辺の地形図に集中する。現在の寄せ集めの新生軍の総兵力は、非戦闘員を除けば数千に満たない。
平地に展開して正面から激突した場合、半日と保たずにこちらの防衛線が物理的にすり潰される。
「……防壁に張り付かれる前に、山道で叩くしかないね。だが、この兵力差は……」
カトリーヌが、腰に提げた『雷霆』の柄を強く握り込み、短く舌打ちをした。
セテスは硬く唇を結び、眼球を細かく動かして地形図の等高線を追っていた。やがて彼の指先が、修道院へと続く険しい山道の途中、左右を岩壁に挟まれた『狭所』を強く叩いた。
「まともにやり合えば全滅だ。……油と枯れ草を山道にありったけ集めろ。火を放ち、敵の主力をここで焼く」
拠点周辺の山林を自ら灰にする戦術。
セテスの言葉の直後、ベレトは無言のまま窓の外の深い山林へと視線を向け、そして腰の天帝の剣の柄を強く握り直した。
修道院へと続く険しい山道。
生い茂る木々の間を縫うように、帝国軍の先遣隊が進軍してくる。重装歩兵たちの分厚い鋼の甲冑が擦れ合い、一万のブーツが土を踏みしめる地響きが、山全体を微かに震わせていた。
隊の先頭を進む帝国軍の将ランドルフは、眼下の山道に展開する新生軍の薄い陣形を視認し、鼻から短く息を吐き出した。
「数は我らの半分以下。一息に踏み潰し、皇帝陛下にガルグ=マク陥落の報を届けるぞ!」
ランドルフが腰の剣を引き抜き、力強く前空へと振り下ろす。
その動作を合図に、帝国の重装歩兵たちが一斉に槍を水平に構え、地響きを立てて突撃の歩調を速めた。
「……バカが。戦ってのは、頭数だけ揃えりゃ勝てるもんじゃねえんだよ」
山道の側面に切り立つ崖の上。
岩陰から眼下の帝国軍を見下ろしていたユーリスが、紫色の瞳を鋭く細めた。彼の細い指先が、腰の剣の鯉口をわずかに切る。
「セテスの旦那の罠まで、あの鉄屑どもを引き込むぞ。……ツィリル」
「うん」
ユーリスの背後にしゃがみ込んでいたツィリルが、短く返事をする。
彼は右手の手斧の柄を握り直し、足元の岩を強く蹴った。一切の気負いも、恐怖による筋肉の硬直もない。崖下から迫る帝国の槍の波へと、重力に従って単騎で飛び降りた。
「なっ……!? 上から一人で……っ!?」
頭上から降ってきた影に、先陣を切っていた帝国兵の顔が引き攣る。
「……邪魔。どいてよ」
ツィリルは空中で身体を丸め、着地の瞬間に前転を打って落下エネルギーを完全に殺した。靴底が土を掴んだ直後、彼の身体は低い姿勢のまま弾かれたように前進し、先頭で指揮を執っていた百人将の膝裏の関節の隙間へ、手斧の刃を的確に叩き込んだ。
「ぐぎゃあっ!?」
腱を切断された百人将が、苦悶の絶叫を上げて前のめりに崩れ落ちる。
血しぶきが山道の土を濡らす中、ツィリルは決して立ち止まらず、また周囲の一般兵には目もくれなかった。彼の金色の瞳は、敵の集団を前進させている部隊長たちの喉元や装甲の継ぎ目だけを正確に狙い撃つ。最小限の動きで急所だけを抉り取り、敵の前進速度を物理的に強制減速させていく。
「ラファエル、バルタザール。ボクが崩したから、潰して」
ツィリルは、三体目の将の喉元を掻き切りながら、後方に向かって簡潔に伝達した。
「おうっ! オデの筋肉で、まとめてぶっ飛ばすぞ!」
「がはははっ! さすがツィリル、美味しいところは俺様が頂くぜ!」
ツィリルが生み出した指揮系統の『死角』に、崖の斜面を下ってきたラファエルとバルタザールの質量が、左右の両側面から同時に叩き込まれる。
バルタザールのガントレットが重装歩兵の顔面のバイザーを陥没させ、ラファエルの丸太のような腕が三人の兵士を同時に空中に吹き飛ばす。指揮官を潰され、前衛の歩調を乱された帝国軍は、後方に兵を詰まらせたまま局地的な混乱状態に陥っていった。
「ツィリルくん、右から魔道士が来るよーっ!」
後方からヒルダが駆け上がり、巨大な『フライクーゲル』を横薙ぎに振り回す。発生した強烈な突風が、ツィリルの右側面に迫っていた帝国兵たちの体勢を大きく崩した。
「ヒルダ、ありがと。……あいつら、わざと奥まで通すから、メーチェとコニーは準備してて」
ツィリルは、ヒルダの加勢によって生まれた空間を視認し、あえて自らの立ち位置を三歩後退させた。彼の後退を「隙」と誤認した帝国の魔道士部隊が、手柄を焦って前線から不用意に突出する。
「はいっ、一丁上がりですわ!」
「光よ、降り注ぎなさい……!」
突出した魔道士たちが味方の歩兵の盾から完全に分離した瞬間。
崖の上の死角に待機していたコンスタンツェの雷魔法と、メルセデスの光魔法が、頭上から正確な座標へと降り注いだ。魔道士たちのローブが発火し、閃光と爆音が山道を揺るがす。
後方で火攻めの準備を指揮していたセテスは、前線のその流れるような制圧劇を視界に収め、小さく息を吐いた。
ベレトの指示した防衛ライン上で、ツィリルが最前線の兵士の死角を潰し、味方が最も効率的に敵を排除できる空間を物理的に構築し続けている。
やがて、遊撃部隊の削りによって前衛に多大な被害を出し、苛立ちを募らせたランドルフの本隊が、たまらず罠の敷かれた山道の中腹――両側を崖に挟まれた狭所へと押し出てきた。
「今だ、放て!!」
セテスの裂帛の号令が、山の空気を引き裂いた。
両側の崖の上から、油をたっぷりと染み込ませた布を巻き付けた火矢が、雨霰と山道に降り注ぐ。
ドォォォォンッ!!
激しい爆発音と共に、山道に敷き詰められていた枯れ草と、岩肌に撒かれていた大量の油に一瞬にして引火した。
赤黒い炎の壁が数メートルの高さまで燃え上がり、山道を完全に飲み込む。酸素が急速に奪われ、強烈な熱波が周囲の木々の葉を瞬時に縮れさせた。
「うわぁぁぁあっ! 火だ、火だあっ!」
「熱いっ、助けてくれえええっ!」
甲冑の中で生きたまま焼かれる兵士たちの阿鼻叫喚が、炎の爆ぜる音に混じって山々に響き渡る。狂乱状態に陥った馬が兵士たちを撥ね飛ばし、燃え盛る人間同士がぶつかり合い、斜面を転がり落ちていく。
「くっ……修道院の目と鼻の先で、自らの山林に火を放つとは……!」
炎の熱波から顔を庇いながら、ランドルフは血を吐くような声で叫んだ。彼の眼の前で、自らの部隊が業火の壁に包まれ、炭化していく。彼は手綱を強く引き、軍馬の首を後方へと向けた。
「引けっ! 全軍退却だ! 俺が殿を務める、負傷した者を置いていくな!」
「一兵も逃がすな! 撃てっ!」
セテスの冷徹な号令が再び下り、崖の上から追撃の矢が放たれる。
同時に、ベレトが炎の壁の隙間をすり抜け、天帝の剣を構え、殿を務めるランドルフの首を獲るべく疾走を開始した。
「帝国を裏切った犬どもめ……! フレーチェを、家族を護るために、俺は退くわけにはいかないんだっ!」
ランドルフが、煤で顔を黒く染め、血走った目で槍を高く振り上げる。
だが、その穂先がベレトに届くより早く、一人の小柄な影が燃え盛る炎を突き破り、彼の前に躍り出た。
「……っざけんなよ! なんでアンタが来んだよ、ランドルフ叔父上ッ!」
「カスパル……!? そうか、お前は……恩を仇で返し、肉親に刃を向けるか!」
激しい金属音が響く。
カスパルの持つ分厚い鋼の斧と、ランドルフの長槍が激突し、火花を散らした。
叔父と甥の、血を洗う死闘。
互いの譲れぬ意地と筋肉の限界がぶつかり合う。ランドルフの槍の連撃がカスパルの肩の装甲を削り飛ばし、カスパルの斧の重い一撃がランドルフの槍の柄に深い亀裂を入れていく。
炎の熱気と酸欠状態の中、互いの呼吸が限界を迎える。
カスパルは、ランドルフの槍の突きを紙一重で身を捻って躱すと、その勢いのまま前傾姿勢で間合いを完全に潰した。
「うおおおおおっ!!」
カスパルの渾身の腕力が、斧の柄を通して刃へと伝達される。
鈍い破壊音。
カスパルの斧が、ランドルフの槍の柄を完全にへし折り、そのまま彼の胸当ての鋼板を深々と叩き割った。肋骨が砕け、肺に刃が達する音が鳴る。
「ごふっ……」
「……あああああっ!!」
カスパルは、泣き叫ぶような咆哮を上げながら、食い込んだ斧の柄を両手で強く引き抜いた。大量の血液がカスパルの顔と胸元を赤く染め上げる。
ランドルフは支えを失い、その場に崩れ落ちた。彼の口から血の泡が吹き出し、虚空に向けて力なく右手が伸ばされる。
「母、上……フレーチェ……すまな、い……」
無念の言葉と共に、伸ばされた手が地面に落ちる。若き将軍は血だまりの中に顔を伏せ、完全に事切れた。
敵将の死を視認し、帝国軍の先遣隊は完全に統制を失って瓦解した。生き残った兵士たちは武器を捨て、逃げるように山を降りていった。
山の斜面を焼き尽くす炎の熱波の中、辛くもガルグ=マク大修道院の防衛は成し遂げられたのである。
数時間後。
火の粉が舞い込み、焦げた肉と血の臭いが重苦しく漂う大広間。
「う……おえぇっ……」
部屋の隅で、カスパルが膝をつき、激しく胃液を吐き散らしていた。
カラッとした持ち前の明るさは完全に消え失せ、自らの手で叔父の胸骨を叩き割り、その命を絶った感触が、彼の両腕と全身の筋肉を激しく震わせていた。額にはべっとりと冷や汗が張り付いている。
その背後に、一切の足音を立てずに影が落ちた。シャミアだった。
彼女はカスパルの背中や肩に触れることなく、腰のポーチから革袋と水筒を取り出した。
「……胃液を吐き切ったら、これを舐めて水で流し込め。水分と塩分が抜ければ、筋肉が痙攣して次の夜襲で死ぬ」
シャミアの平坦な音声が、石畳の上に落ちる。
彼女の表情には同情も憐憫の影もない。傭兵として、かつての仲間や親しい者を幾度も手にかけてきた女の、戦場における純粋な延命の作法。
「泣くのも吐くのも自由だ。だが、生き残りたいなら身体だけは動く状態にしておけ」
シャミアは、水筒と塩の入った革袋をカスパルの膝元の石畳に無造作に置き、振り返ることなくその場を離れた。
カスパルは震える両手で水筒を掴み、その冷たい金属の表面に額を押し当てて、声にならない嗚咽を漏らした。
少し離れた柱の陰で、フェルディナントが、刃こぼれし血に汚れた自身の槍の穂先を見つめながら、自らに言い聞かせるように呟いた。
「帝国と敵対した以上、かつての友や肉親と殺し合うことは避けられない。……それが、どれほど身を引き裂かれる苦しみであろうとも」
「ペトラの矢、帝国の兵士、貫きました。……指先が、とても冷たいです」
ペトラもまた、石畳の上に膝を抱えて座り込み、故郷であるブリギットの未来と引き換えに払う代償の重さに、震える両腕の体温を確かめるように強く抱きしめていた。
「……お父様も、修道院に攻めてくるんですか? あたし……殺され、る……」
ベルナデッタが、抱え込んだ弓に顔を押し当て、部屋の隅でガチガチと歯を鳴らしている。彼女の呼吸は浅く、視線は空中で定まっていない。
大広間の石畳の上には、焦げた肉の臭いと共に、泥と血にまみれた彼らの荒い呼吸音だけが、重く、どこまでも低く沈殿し続けていた。