擬史風花雪月   作:鰻天ぷら

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第二十二章①

ランドルフ率いる先遣隊を禁じ手の火攻めで退けてから、数日が経過した。

辛くも防衛を果たしたガルグ=マク大修道院だったが、その代償は決して軽くはなかった。壁の向こうからは、重度の火傷や裂傷を負った者たちの低いうめき声が絶え間なく響き、廊下には血と膿の染み込んだ包帯の山が積まれている。

大修道院の一室、急造の作戦会議室として使われている部屋の空気は、鉛のように重く沈殿していた。

 

「……火攻めの効果は絶大だったが、こちらも無傷とはいかない。何より、兵を補充する当てがないのが致命的だ」

 

机に広げた地形図を睨みながら、セテスが苦渋の声を絞り出す。彼の目元には深い疲労の色が刻まれ、その声帯は砂を噛んだように乾ききっていた。

 

「次、同じ規模の軍勢に正面から来られたら、もう奇策は通じないだろうな」

 

「だな。あの馬鹿デカい帝国を相手にするにしては、俺たちの手札はあまりにも貧弱すぎる」

 

ユーリスが壁に寄りかかり、腕を組んで冷徹に現状を突きつけた。彼の紫色の瞳は、感情を一切排し、ただ盤面のコマの少なさと、帳簿に記された兵糧の残量という事実だけを見据えている。

 

「アビスの連中にも武器を持たせてるが、しょせんは素人の集まりだ。……先生。このままじゃ、ジリ貧で全員お陀仏だぜ」

 

ユーリスの言葉に、部屋に集まった面々は重い沈黙に沈んだ。

彼らは祖国や地位を捨ててここにいるため、実家からの兵力や物資の援助など望むべくもなかった。彼らの持つリソースは、傷ついた己の肉体と、刃こぼれした武器だけである。

 

「外部からの……協力者が必要だ」

 

ベレトが静かに、しかし断固たる声で打開策を提示する。その声の響きは、停滞した空気を切り裂くような確かな質量を持っていた。

 

だが、その言葉に対し、部屋のあちこちから現実の壁に直面した者たちの乾いた声が次々と上がり始める。

 

「協力者……。ですが、先生。帝国は不可能だ。私の家も含め、大半の貴族はすでに皇帝の完全な支配下にある。大っぴらに我々に兵を貸す者など……」

 

フェルディナントが、血と泥で汚れきった自らの赤い軍装の裾を握りしめながら、事実を口にする。

 

「親父の軍をアテにするくらいなら、その辺の石ころを集めて投げる方がまだマシだぜ! そもそも、オレたちは国を裏切ってここにいるんだからな!」

 

カスパルが、包帯を巻かれた自らの腕を乱暴に叩きながら吐き捨てる。

 

「同盟のレスターの旦那たちに声かけるか? 俺のダチのホルストの野郎なら……いや、ダメだな。親帝国のグロスタール派の連中の目が光ってて、派手な軍事行動は起こせねえだろうしな」

 

バルタザールが、太い指で自らの顎を撫でながら、同盟内部の政治的パワーバランスを即座に計算して首を振る。

 

「ブリギット、援軍、呼べます。しかし、海を渡る、時間、かかります。明日の戦い、間に合わない、間違いないです」

 

ペトラが、地形図の遥か西の海上を指差し、物理的な距離と時間の制約を提示する。

 

「地下(アビス)のツテも限られてる。金品や裏の物資ならともかく、帝国軍と正面からぶつかるための『数千の正規兵』を揃えるのは無理な相談だ」

 

ユーリスが、自らの情報網の限界を冷たく告げる。

 

次々と突きつけられる、八方塞がりの現実。

大義や熱意だけではどうにもならない、圧倒的な兵站と政治的孤立の現実。誰もが地形図の上に視線を落とし、解決策を持たないまま歯を食いしばった。

 

「……こんな得体の知れない軍に、今すぐ兵を出してくれる貴族などいるでしょうか?」

 

メルセデスが不安そうに首を傾げた、その時だった。

 

「あの……同盟の、ダフネル家を頼るのはいかがでしょう?」

 

フレンが、重苦しい空気を破るように控えめに手を挙げた。

 

「ダフネル領は王国と同盟の境にあり、戦火から遠いため兵力が温存されているはずですわ。当主のジュディット様は義理堅い方だと、以前お兄様から聞いた覚えがありますけれど……」

 

「“ダフネルの烈女”か。……確かに、彼女ならば我々の大義を理解してくれるやもしれん」

 

セテスが顔を上げ、地形図の東側に記された同盟領の一点を指差す。絶望的な盤面の上に、わずかな戦術的な活路が提示された。

 

「同盟のクロードが裏で手を回してくれている可能性もある。……よし、直ちにダフネル家へ密使を送ろう」

「待って。使者を送るなら、もう一つ行き先を追加してほしいんだけど」

 

突然、会議室の隅から平坦な声が響いた。

手斧の刃こぼれを小さな砥石で丁寧に研いでいたツィリルだった。

シュッ、シュッという硬質な摩擦音を止めた彼は、自らの懐から油紙に包まれた一通の封書を取り出し、石のテーブルの上に無造作に放り投げた。

 

「なんですか? それ」

 

リシテアが不思議そうに覗き込む。封書には、見覚えのある王国の紋章――天馬を象った青い封蝋が押されていた。

 

「さっき、外で枯れ草の片付けをしてたら、空からペガサスが落としていったんだ」

 

ツィリルは淡々と、発生した物理的現象だけを述べると、その差出人の名前を口にした。

 

「ガラテア伯……イングリットからの、手紙」

 

「イングリットさんから……? 王国のガラテア家は、今、親帝国派の諸侯に囲まれて苦しい立場にあるはずじゃ……」

 

マリアンヌが信じられないという顔をする中、セテスが手紙を手に取り、ペーパーナイフで素早く封を切った。

 

「……何ということだ」

 

目を通していくセテスの目が、驚愕に見開かれていく。紙面を追う彼の指先が、微かに震えていた。

 

「どうしたの、お兄様?」

 

「ガラテア家が……我が新生軍に、全面的な兵糧と兵士の援助を申し出ている」

 

「ええっ!?」

ヒルダが思わずすっとんきょうな声を上げた。

 

「う、嘘でしょ!? イングリットの領地って、その……すっごく貧しいって聞いてたけど……軍を出せるほどの余裕なんてあるの!?」

 

「手紙によれば、彼女はダフネル家のジュディット殿と裏で密約を結んでいたらしい」

 

セテスが、手紙の文面を要約しながら読み上げる。

 

「ダフネル領経由での物資の交易路を確保し、領民が飢えない確約を取り付けた上で……『次期当主としての責務に目処が立ったため、私兵を率いて合流する』と書かれている」

 

「……」

 

会議室が、水を打ったように静まり返った。

親帝国派に囲まれ、孤立無援の状況下で、彼女は領民の命を保証する手立てを自ら整え、そして今、自らの行動力だけで数千の兵力を率いて戦場へと赴こうとしている。その戦術的価値の高さと、彼女の強靭な覚悟が、場にいる者たちの心を物理的に打った。

 

「……オーッホッホ! やりますわね、あの堅物騎士!」

 

コンスタンツェが、危機感と対抗心を露わにして高笑いする。

 

ツィリルは、テーブルの上の手紙を一瞥した後、再び手斧と砥石を手に取り、立ち上がった。

 

「先生。……イングリットは、王国と同盟の境にある『アリル』って谷で、ダフネルの人たちと一緒にボクたちを待ってるって書いてある」

 

ツィリルの平坦な声が、会議室に響く。

彼は手斧の刃の反射光を左目で確認し、腰のホルダーに完全に押し込んだ。続いて、背中に負った弓の弦の張りを右手の指先で弾いて確かめる。一切の無駄のない、出撃前のルーティン動作。

 

「アリル……“煉獄の谷”か。あそこならば、帝国の目も届きにくいだろう」

セテスが地形図上でその場所を確認する。そこは、常に灼熱のマグマが噴出する、伏兵を置くには極めて危険で過酷な地帯だった。

 

「ボク、迎えに行くよ。……もう二度と、絶対に逃がさないから」

 

ツィリルは、静かに、事実としての予定だけを宣言した。

彼の金色の瞳孔は、部屋の誰を見ることもなく、ただ地形図の『アリル』の座標のみを真っ直ぐに捉えている。

一切の感情の昂りはない。だが、彼の身体の重心はすでに完全に前傾しており、筋肉はいつでも全速力で駆け出せる状態にまで収縮していた。

 

「アリルはマグマが噴き出してる危険な場所だ。イングリットが持ってくる物資が燃えたら、ボクたちの兵糧がなくなる。それに、せっかく約束してくれたのに、途中で帝国の残党にでも襲われて死なれたら、ボクだけじゃなく……皆や……レア様も困ることになる」

 

ツィリルは、弓の矢筒のベルトを胸元で強く締め直しながら、物理的な損害予測と実利的な理由だけを並べた。

 

「だから、ボクが先に先行して、周囲の掃除をしておく。……それだけ」

 

ツィリルは言い終えると同時に踵を返し、ベレトの正式な出撃命令すら待つことなく、作戦会議室の重い木扉へと歩みを進めた。

彼の思考は、すでにアリルにおける最適な射線の確保と、彼女に迫る障害の物理的な排除手順のみで完全に埋め尽くされている。分厚いブーツの底が石畳を迷いなく叩き、その一直線の軌道には、他者の言葉が介入できる隙間がコンマ一秒すら存在しなかった。

 

ヒルダは、ツィリルの背中から無自覚に放たれる研ぎ澄まされた威圧感に、思わず息を呑んで半歩後退し、自らの腕をさすった。

ユーリスは無言のまま、ツィリルの淀みない出撃動作を視界に収めると、小さく鼻から息を吐き出し、自らの剣の柄を一度だけ軽く叩いた。感傷を切り捨て、完全に戦場へと意識を切り替えた音だった。

 

「……決まりだな」

 

ベレトが静かに立ち上がり、天帝の剣の柄を握った。

彼の目は、すでに戦術の次の一手を見据えている。

 

「出撃の準備をしろ。目的地は煉獄の谷、アリル。……我々の新たな仲間を、迎えに行くぞ」

 

「おおっ!」

 

ベレトの号令に、作戦会議室の空気が爆発したように動き出した。

各々が自らの武器を手に取り、大広間へ向けて走り出す。ブーツの底が石畳を蹴る音が、修道院の廊下に力強く響き渡る。

 

兵力も物資も欠乏している新生軍が、起死回生の兵力と、かつての仲間を取り戻すための進軍。

彼らは迷うことなく、灼熱のマグマが噴出する煉獄の谷へと向かって歩みを進めたのである。

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